救えなかった手と、それでも伸ばした手 ~元自衛官が行く、異世界戦記~ 作:ホビット
ぎこちない空気のまま、会議は終わった。
ローデンは深々とため息をついた後、
古参兵たちと作業に戻っていった。
護衛騎士たちも、
エリシアを囲むように退出していく。
その輪の中心で、
エリシアは何か言いたげに振り返り――
けれど、
結局、何も言えないまま、
静かに部屋を後にした。
**
「……戻るか」
一言呟いた遼は、軽く伸びをした。
紛糾した会議と、
これから待つ山積みの書類に辟易しつつ、
部屋を去ろうとする。
その時、
部屋の隅へぽつんと立つ、
ミレイユの姿が目に入った。
「……ミレイユ?」
呼びかけても、反応が少し遅い。
「あ……
はい」
どこか、上の空だった。
軍議の最中から、ずっと様子がおかしい。
よく見ると、エプロンの裾に皺が出来ている。
いつも几帳面な彼女にしては、珍しい。
訝しみつつ、遼は問いかけた。
「なにかあったのか?」
「……いえ。何も」
目線は下を向き、
声にも力なく、歯切れも悪い。
明らかに、様子がおかしい。
踏み込むべきか――
遼は少し迷ってから、
ミレイユの隣へ歩み寄った。
「なんか、無理してないか」
「してません」
「いや、してるだろ」
ミレイユは、
ぴくりと肩を揺らした。
図星だったのだろう。
けれど彼女は、
必死に平静を保つように、
エプロンの裾を、握りしめた。
まるで、
少しでも気を抜けば、
何かが溢れてしまうのを、
必死に押さえ込んでいるみたいに。
ミレイユは、
小さく息を吸った。
「……大丈夫です」
そう言って、
無理やり微笑もうとする。
けれど、
その笑顔はあまりにも弱々しかった。
遼は、思わず眉を寄せる。
「全然、
大丈夫に見えねぇんだけど」
「そんなこと……」
「ある」
言葉を被せるように返され、
ミレイユは一瞬だけ黙り込んだ。
会議室には、
もうほとんど人が残っていない。
机の上には、
散らかったままの資料。
窓の外では、夕暮れの光が
水城塞の壁を赤く染め始めていた。
ミレイユは、その光から逃げるように、
やや背を向けた。
「……」
その姿を見て、
遼は小さく息を吐いた。
「……少し、休めよ」
「休んで、います」
「いや、そういう意味じゃなくて」
遼は頭を掻く。
上手く言葉に出来ない。
けれど、今のミレイユが、
無理をしていることだけは分かる。
「お前さ、抱え込みすぎなんだよ」
「……」
「もっと周り頼れ。
じゃないと、そのうち壊れるぞ」
その瞬間。
ミレイユの肩が、
びくりと震えた。
手に力が入り、
エプロンの皺が、一層深くなる。
まるで、
崖から零れ落ちない様に、
必死にしがみついているようだった。
「……優しく、
しないでください」
――か細い声だった。
遼は目を瞬く。
「え?」
ミレイユは俯いたまま、
唇を噛む。
胸の奥で、
何かが軋んでいた。
ずっと。
ずっと、耐えていた。
――エリシアの傍にいられなくなっていくことも。
――自分の役目が、少しずつ奪われていくことも。
――エリシアと、目すら合わせられなくなったことも。
全部、
飲み込んできた。
自分が我慢すればいい。
そう思って、必死に押さえ込んできた。
けれど。
今、遼に優しくされたら。
その蓋が、もう壊れてしまう。
「お願い、ですから……」
声が震える。
「これ以上、
優しくしないでください……」
**
ミレイユの表情に、
遼は、ふと、昔の記憶を思い出していた。
――まだ大丈夫だって!
――これくらい、問題ないよ。
――ありがとう。でも、自分でやれるから。
同期の男だった。
彼も、遼と同じように、人を助けたいと願い、
自衛隊に志願していた。
誰より真面目で、
責任感が強くて、
弱音を吐かない男だった。
遼も、周囲も、
“しっかりした奴だから大丈夫だろう”と、
思っていた。
……そして、
ある日、突然壊れた。
取り返しがつかなくなってから、
ようやく、気づいた。
あいつは、
ずっと限界だったのだと。
遼は、
無意識に拳を握る。
だから。
今、目の前で、
必死に“耐えようとしている”ミレイユを、
放っておけなかった。
**
「……昔、さ」
遼が、ぽつりと言葉を零す。
「お前みたいな、
真面目で責任感が強いヤツがいたんだ。
……俺は、そいつが無理してることに、
気づけなかった」
「……今のお前、あの時のアイツと同じなんだ。
――だから、今度は間違えない。
優しくするな、だって?」
「……もう、見て見ぬふりなんて、
できねぇんだよ」
独白と共に、ミレイユの顔を
真っ直ぐ見つめる。
ミレイユは、遼の独白に、
目線を逸らすことが出来なかった。
――そして、溢れた。
「……泣いてる、のか?」
遼の言葉に、
ミレイユは小さく目を見開いた。
「……え……?」
頬を伝う感触。
ぽたり、と雫が落ちる。
そこで初めて、
自分が泣いていることに気づいた。
「ち、が……」
慌てて拭う。
だが、
一度零れてしまったものは、
もう止まらなかった。
拭っても拭っても、溢れ続けた。
「わたし、は……
ちゃんと、しなきゃ……」
止めようとする。
呼吸を整えようとする。
いつものように、
冷静でいようとする。
なのに。
遼が、
逃がさないように、
真っ直ぐこちらを見ている。
その優しさが、
どうしようもなく苦しかった。
「……っ、ぁ……」
喉が震える。
上手く息が吸えない。
呼吸を整えようとしても、
次々と嗚咽が込み上げてくる。
限界など、
とうに超えていた
「……ずっと、
お嬢様のお傍にいること。
ただ、それだけを、考えてきたんです」
「お世話をして、支えて……
それが、わたしの役目で……」
「それだけが、
わたしに出来る、ただ一つの
ことだったから……」
侍女として。護衛として。
――家族として。
声が、少しずつ掠れていく。
「……でも、今は…っ…
お嬢様の周りには、
たくさんの、…っ、人がいて……っ」
「皆、お嬢様のために、
一生懸命で……っ。
わたしなんかより、
ずっと……、上手で……っ」
「私が居なくても、
お嬢様は……っ、だ、大丈夫で……っ」
それは、
ずっと願っていたことだった。
なのに。
なのに、どうして。
「お傍に、いたいんです……」
「それは……っ、
わたしの……ぅ、我儘で……」
「でも……っ、
離れたく、なくて……」
そこで、
ついに声が崩れた。
「……わ、わたし……っ、
もう……
どうしてここにいるのか、
……ぅ、分からないのです……っ!」
遼は、何も言わなかった。
言葉は、いらない気がした。
――あの時も、こうしてやれていたら。
手を伸ばす。
震える彼女の身体を、
ガラス細工を扱うように、
丁寧に抱きしめた。
「――っ」
その瞬間。
ミレイユの呼吸が、
止まりそうになる。
温かかった。
苦しいほどに。
張り詰めていた心が、
ほどけていく。
この腕の中は、駄目だ。
こんな場所を知ってしまったら、
もう戻れない。
――あぁ。
わたしは、
この人に。
わたしは、
お嬢様のために、生きてきたのに。
お嬢様の気持ちは、分かっているのに。
この温もりを、
失いたくないと思ってしまった。
それが、どれほど許されない感情なのか、
理解しているのに、もう。
止められなかった。
**
エリシアはひとり、
会議室へ忘れ物を取りに戻っていた。
護衛騎士は、
一人で行動することに難色を示していたが、
少し無理を言って、許可を得ていた。
久しぶりに、
一人になれた気がする。
ほんの少し、
肩の力を抜いたまま、
部屋に入ろうとすると。
エリシアの足が、止まった。
――泣き続けるミレイユ。
――抱きしめている遼。
息を、忘れた。
ミレイユは、
遼の胸に縋るように泣いていた。
あんな姿のミレイユは、
エリシアも見たことが無かった。、
そして遼は、
そんな彼女を、
静かに抱きしめている。
そこには、
誰も入り込めない空気があった。
「……ぁ」
声にならない。
胸が、
ひどく痛かった。
どうして、
こんなにも苦しいのか、
分からなかった。