救えなかった手と、それでも伸ばした手 ~元自衛官が行く、異世界戦記~ 作:ホビット
遼は、ミレイユと共に、
負傷兵の収容天幕の外で、
薬の在庫を確認していた。
あちこちから、呻き声が遠く聞こえてくる。
前回の無謀な突撃で、負傷した者たちだった。
「……くそ。
これじゃ、薬草が足りない……。
ミレイユ、次、こっちの確認を頼む」
遼が声をかけ、薬の入った木箱を渡した。
「……はい」
ミレイユは短く返し、木箱を受け取る。
指先が、わずかに触れた。
「……」
「……」
一瞬だけ、動きが止まる。
だが、どちらも何も言わない。
そのまま、何事もなかったかのように、
作業へ戻った。
「次」
「はい」
必要最低限の、短いやり取り。
それ以上は続かない。
薬の在庫を確認する、ミレイユの横顔を、
遼は一瞬だけ目で追った。
すぐに視線を外す。
――あの時のことが、頭をよぎる。
腕の中で、崩れた体温。
縋るようにしがみついてきた力。
あれを、
“なかったこと”には出来ない。
(……今は、そんなことを考えている場合じゃない)
小さく息を吐く。
「どうぞ」
「……ああ」
受け取る。
また、指先が触れそうになる。
今度は、ほんのわずかに、
互いに距離を取った。
気づかないふり。
それが、二人の暗黙の合意だった。
「次、行けるか」
「……はい」
短い返答。
天幕の中からは、
誰かの呻き声が響く。
忙しさは、言葉を奪ってくれる。
それは、ありがたかった。
だが。
ふとした瞬間に、
どうしても意識してしまう。
距離。視線。
触れないようにする、わずかな動き。
以前なら、もっと近かった。
もっと自然に、隣に立っていた。
今は、違う。
近づけば、壊れる。
離れれば、何かが決定的に変わる。
その、
どちらにも進めない距離のまま。
二人は、淡々と手を動かし続けていた。
**
――ダダダダッ!
不意に、
誰かが、急いで走ってくる音が、
ミレイユの耳に入る。
喧しい足音に少し眉を顰めつつ、振り返ると
――そこに居たのは、エリシアだった。
「……お嬢、様……?」
**
足音に遼が振り向くと、
エリシアが、
膝に手を突き、息を切らしていた。
金髪は乱れ、頬は紅潮し、
額には汗が滲んでいる。
ただならぬ様子に、思わず狼狽しながら、
エリシアに声をかけた。
「エリシア!?
……お前、どうしたんだ!?」
「……ッ、……ハァッ、……ハァッ。
二人にっ、……ハァッ、話がっ、あって」
「とりあえず落ち着けって!
……ミレイユ!水を持ってきてくれるか?」
ひとまず、落ち着いて話をするために、
ミレイユに声をかける。
だが。
「……ミレイユ……?」
ブツン、と糸を切られた人形のように。
彼女は、固まっていた。
**
ミレイユは、動けなかった。
目の前にいるのは、
確かにエリシアだった。
だが。
こんなエリシアは、
姉妹の様に過ごしてきたミレイユでも、
滅多に見たことは無い。
「……お嬢様、どうして……」
かろうじて、言葉が出る。
だが、その声は、
自分でも分かるほど、震えていた。
**
エリシアは、
荒い呼吸を整えようとしながら、
二人を見た。
遼。ミレイユ。
――言うのが、怖い。
「……っ、は……」
うまく息が吸えない。
けれど。
ここで止まったら、
もう一生、言えない。
遼は、一歩近づく。
「何があったのか分からないけど……。
とりあえず、落ち着け。
話なら、落ち着いてからでいいからさ」
遼の言葉は、
自然に出たものだった。
「……今じゃないと、ダメなんです」
静かな声。
だが、ズシリ、とした
物理的な重さを感じる声。
思わず、
遼は、言葉を失った。
エリシアは、ようやく、
膝から手を離す。
足が、わずかにふらつく。
それでも、立つ。
「……聞いて、ください」
その声は、まだ震えている。
だが、強い意思を湛えた瞳に、
遼とミレイユは一歩も動けなかった。
「……あの日。
私、見てしまったんです」
ぽつりと、言葉が落ちる。
ミレイユの指先が、強く握られる。
分かってしまった。
――あの日のことだと。
「会議室で……」
続く言葉に、
ミレイユの呼吸が、浅くなる。
「あの光景を見て。
――分かって、しまいました。
……ミレイユが、リョウのことを、
どう、思っているのか」
ミレイユの顔面が蒼白になり、
視線が地面へと落ちる。
まるで、死刑執行の判決を下された、
罪人のようだった。
「……あの光景を見た時。
思ってしまったんです。
……なんで、私じゃないんだろう、って」
「……さっき、作戦会議で。
リョウを、私から離して、前線に出す、って」
「それを聞いて、咄嗟に。
嫌だ、って。
自分でも、なぜかわからないくらい、
強く思いました」
遼は、何か言いかけて、
口を閉じた。
「……でも、
こうしてリョウの顔を見て。
やっぱり、嫌だ、って思ったことは、
嘘じゃなくて……。
――いま、確信に、変わりました」
――やめてください。
――でも、お嬢様のお気持ちは。
ミレイユの胸を、荒れ狂う暴風の様な、
様々な感情が吹き荒れる。
しかし、嵐は止まらない。
エリシアは、リョウの目を、
真っ直ぐ見つめ、はっきりと。
「リョウ。私は、あなたが好きです」
はっきりと、言葉にした。
して、しまった。
誰も、すぐには動けなかった。
遠くで誰かが呻く声だけが、
現実を繋ぎ止めている。
遼は、息を呑んだまま、
エリシアを見ていた。
――逃げ場が、ない。
その視線は、
揺れていない。
ここ最近のエリシアとは、
明らかに違っていた。
誰かの期待でも、
誰かの理想でもない。
ただ、自分の意思で、
ここに立っている。
**
ミレイユは、俯いたまま、
一歩も動けなかった。
耳鳴りがする。
頭の中で、
何度も同じ言葉が反響する。
――好きです。
分かっていた。
気づいていた。
けれど。
こうして、はっきりと言葉にされると、
もう逃げ場は無かった。
胸の奥が、
静かに、引き裂かれていく。
エリシアは、言葉を続ける。
震えは、まだ消えていない。
それでも、言葉は止まらなかった。
「……私は、ずっと」
「みんなのために、って。
それが正しいと思っていました」
「でも、それだけじゃ……
もう、立っていられない」
一歩、踏み出す。
遼へ向かって。
「だから、選びます」
その言葉に、
ミレイユの肩が、びくりと震えた。
「誰かの期待じゃなくて」
「……私が、どうしたいかで」
息を吸う。
そして。
「――私は、リョウを選びます」
はっきりとした、宣言だった。
――ああ。
やはり、お嬢様は。
ミレイユは、全てを諦めたかのように、
瞼を降ろして立ち尽くした。
こうなることは、分かっていた。
分かって、いた、はず、だった。
なのに。
胸が、どうしようもなく、苦しい。
あの腕の温かさを、求めてしまう。
私は、お嬢様の幸せを。
ただそれだけが、願いだったのに。
ああ。
神がもし、本当にいるなら。
今すぐ、
あの記憶を消してしまいたかった。
**
「……ミレイユ」
「……はい」
ミレイユは、主の呼びかけに瞼を上げ、
観念した様な表情で返す。
だが。
「あなたも、置いておくことはしません」
予想外の言葉。
思わず、ミレイユの瞳が大きく見開かれる。
「……いま、なんと」
「ミレイユも、置いておくことはしません。
……切り捨てるなんて、……出来ません」
静かに。
だが、はっきりと。
「あなたは、
ずっと私の傍にいてくれた」
「私が何も出来なかった頃から、
ずっと」
「だから……」
次第に、嗚咽が混じり、
言葉が、一瞬だけ詰まる。
それでも、飲み込まずに続ける。
「これは、私の我儘です。」
「選ぶくせに、
手放さないなんて。」
――『何を捨てるのか』
脳裏に、再び、セリアの声が響く。
きっと、彼女は正しいのだろう。
私の行く道は、きっと。
想像を絶するほど、
苦しく、辛い道のりだろう。
でも。
だとしても。
「……それでも私は、
あなたを見捨てません。
……背負います。
背負って、みせます」
涙で歪む表情。
嗚咽混じりの、たどたどしい言葉。
けれど。
その言葉は。
エリシアの生涯で発した、どの言葉よりも、
重く、決意に満ち溢れたものだった。
「…………」
ミレイユは、俯いている。
風が、吹く。
遼も、エリシアも。誰も、口を開かない。
エリシアが、これまでの人生で、
最も長く感じた、沈黙。
やがて。
「……ずるい、です」
小さな声が、零れた。
二人の視線が、ミレイユへ向く。
俯いたまま、
それでも、言葉を続ける。
「そんなこと、言われたら……」
声が、震える。
「離れられる、はず……ないじゃないですか……」
顔を上げる。
涙で滲んだ視界のまま、
エリシアを見る。
「……お嬢様は、
本当に、ひどい人です」
責める言葉。
なのに、その声は、
どこか安堵していた。
ミレイユは、ゆっくりと息を吐く。
胸の奥で渦巻いていた感情を、
無理やり整えるように。
「……もう、前みたいにはいられません」
「……はい」
エリシアは、目を逸らさない。
「……リョウのことも、
忘れられません」
「……はい」
「……いつか。
いつか、お嬢様の大事なものを、
壊してしまうかもしれません」
「分かっています」
「……そうなった時。
きっと私は、自分で自分を許せない」
一度、目を閉じる。
「……それでも」
そして、小さく、けれど。
はっきりと、口にした。
「私は、
お嬢様の、お側に居たいです。
……居させて、ください。」
ミレイユは、笑っていた。
泣きながら、笑っていた。
その表情は、これまで遼が見てきた、
どの表情よりも。
悲しく。痛々しく。
なのに。
――いちばん、美しい。
そう思った。
**
遼は、もう一度。
エリシアと、ミレイユの顔を見た。
二人とも、顔はくしゃくしゃで。
それでも、決して目線だけは外さなくて。
――結衣。
あの日、手が届かなくて。
だから、誰かを救いたくて。
それでも、救えない現実に、
何もかも、どうでもよくなって。
なのに、気づけば。
こんな自分を、見つめている人がいる。
何が、正しいのか。
こんな自分で、本当に良いのか。
答えは、分からない。
けれど。
分からないままでも、
立ち上がりたい。
遼は、一度だけ俯き、
ゴクリと、何かを飲み込むと、
ゆっくりと、口を開いた。
「……重てぇな、お前ら」
だが、その声は、
どこか苦笑混じりだった。
二人が、同時にこちらを見る。
遼は、頭を掻きながら、
小さく息を吐いた。
「逃げ場、全部塞ぎやがって」
冗談めかした言い方。
だが、その目は真剣だった。
「……分かった」
一言。
「二人とも、ちゃんと聞いた」
ゆっくりと、言葉を選ぶ。
「エリシア」
視線を向ける。
「お前の気持ちは、受け取る」
その言葉に、
エリシアの瞳が揺れた。
「ミレイユ」
次に、彼女へ。
「お前のことも、
無かったことにはしねぇ」
真っ直ぐに言う。
「……もう、全部見ちまったからな」
少しだけ、苦く笑う。
「だから」
一拍。
「三人で、背負うぞ」
簡単な言葉。
だが、逃げではない。
「綺麗にはいかねぇし、
面倒なことも増える」
「それでも、やるんだろ?
……お前らが、言い出したんだからな?」
エリシアは、頷いた。
迷いは、もう無い。
ミレイユも、ゆっくりと頷く。
涙は残っている。
それでも、視線は逸らさなかった。
**
陽が傾き始めた野営地。
背後には、エリシアとミレイユの
すすり泣く声が聞こえる。
戦場は、何も変わっていない。
状況も、劣勢のままだ。
遼は、ちらりと、
地面へ視線を落とす。
夕焼けに照らされ、
地面に長く影が伸びていた。
――三人分の影が、
ひとつに重なっていた。