救えなかった手と、それでも伸ばした手 ~元自衛官が行く、異世界戦記~ 作:ホビット
セリア・ヴァルステッド。
帝国の“最も信頼できる”将。
いかにして、現在に至るのか。
それは、まだ彼女が。
どこかの姫と同じように、
理想を抱いていた頃の話に遡る。
**
地方連合国の片隅。
山と川に囲まれた、小さな領地。
豊かとは言えない。
だが、飢えることもない。
慎ましく、穏やかに、
人々が日々を積み重ねていた場所。
そこに、ひとりの少女がいた。
「こら、待ちなさいって言ってるでしょ!」
甲高い声が、小さな道場に響いた。
全力で駆ける少女と、逃げる少年。
その後ろで。
「……また始まったか」
苦笑混じりに呟く男がいた。
レオンハルト・ヴァイス。
この地の兵の一人であり、
――セリアを、昔から知る男だった。
「やだよ!また負けるじゃん!」
「だからって、逃げちゃダメでしょ!」
息を切らしながらも、セリアは笑っている。
「はい、捕まえた」
背後から腕を掴み、
地面へ転がす。
「ほら、もう一本」
「えぇぇ……」
「今度は手加減してあげるから!」
「それ絶対嘘だろ!?」
数合も持たず、
またしても少年は転がされた。
「あちゃあ……ちょっと、やりすぎた?」
苦笑とともに、セリアは、
少年に手を差し伸べる。
「立てる?」
「……セリア、強すぎ」
同い年の少女に何度も敗北し、
少年は、若干不貞腐れつつも、
その手を握った。
その様子を見て、レオンハルトが肩をすくめる。
「相変わらずだな、嬢ちゃんは」
「何がです?」
「強い相手には遠慮なし。
で、弱い相手には――」
視線が、差し出された手へ向く。
「ちゃんと手を差し伸べる」
「……?。当たり前です」
セリアは、きょとんとした顔で言う。
「強い人には、
本気でぶつからないと失礼じゃないですか」
「じゃあ、弱い相手は?」
少しだけ、言葉を選んで。
「手を伸ばしてあげないと、
拾えないでしょう?」
さらっと言った。
レオンハルトは、ふっと笑う。
「……そうかい」
その言葉が、どれだけ重いか。
この時の彼女は、まだ知らない。
**
セリアは、強く、優しく、
すくすくと成長した。
年若いセリアは、
とある領主の館で、
自分よりも年上の男と対峙していた。
「その徴税、やりすぎです」
バンッ!
机と共に、鋭い視線を叩きつける。
「……口の利き方に気をつけろ」
「事実です」
引かない。
「今年は収穫が落ちています。
このままでは、冬を越せない家が出ます」
「それでも規定は規定だ」
「じゃあ、その規定が間違ってます」
即答だった。
場が凍る。
その様子を、少し離れた場所で見ていたレオンハルトが、
小さく息を吐いた。
「……やれやれ」
だが、止めない。
分かっているからだ。
――あの子は、止めても止まらない。
「みんなを守るための決まりでしょう?
守れないなら、意味ないじゃないですか」
まっすぐな言葉。
怒りでも、反抗でもない。
ただ、“正しい”と思っているだけの声。
結局、その年の徴税は見直された。
**
「……嬢ちゃん」
館を出たあと、レオンハルトが呼び止める。
「やりすぎだとは思わないか?」
「思いません」
即答。
「だって――」
振り返って、笑う。
「たとえ、間違っていたって。
私が、引き受けますから」
その言葉を、
レオンハルトは、否定しなかった。
**
平穏は、長く続かなかった。
帝国の侵略が、はじまった。
**
大方の予想に反し、
帝国軍は、この小領を切り取ることに、
時間を要していた。
理由は、言うまでもなく。
「左翼、下げすぎです!押し返してください!」
「補給隊は後方へ!そこは抜かれます!」
セリアの指揮だった。
的確な指示。
自ら前線に立ち、兵を鼓舞する姿。
兵もまた、そんな彼女に応えた。
数で劣りながらも。
装備で劣りながらも。
何度も、何度も。
帝国軍の進軍を食い止めた。
**
「……やるじゃねぇか、嬢ちゃん」
レオンハルトは、血と土にまみれた戦場で、
苦く笑った。
――勝てるかもしれない。
一瞬だけ。
そんな錯覚すら、抱いた。
**
だが。
報せは、あまりにも冷酷だった。
「北方諸国、壊滅」
「西部同盟、陥落」
つまり。
――孤立。
補給は、途絶える。
援軍は、来ない。
戦えば戦うほど、消耗するのは自分たちだけ。
後から分かったことだが、レクトールの差配と、
ガルドの電撃的な強襲によるものだった。
「……詰み、か」
誰かが、呟いた。
セリアは、何も言わなかった。
ただ、地図を見ていた。
静かに。
ただ、静かに。
そして。
「……軍議を、開きます」
その声は、普段と変わらなかった。
「結論から言います」
集まった将兵の前で、セリアは言った。
「このまま戦えば、……全滅します」
ざわめき。
「……だが、まだ戦える!」
「ここで退けば、誇りはどうなる!」
声が飛ぶ。
セリアは、それを遮らない。
全て、聞いた上で、
静かに言った。
「条件付きで、降伏します」
空気が、凍る。
「……何を言っている」
「条件は二つ」
感情を挟まず、続ける。
「ひとつ。この地の民の安全。
ふたつ。配下の兵の助命。
それを対価に――」
ほんのわずか、言葉が詰まる。
石造りの薄暗い一室で、
一瞬、ランタンの灯りが揺らめいた。
「私は、帝国に降ります」
言い切った。
「ふざけるな!」
「裏切り者が!」
即座に、怒声が上がる。
誰かの叩きつけた拳でインク瓶が倒れ、
羊皮紙に――不要になった救援要請の文面に――
黒い染みが広がった。
その中で。
「……嬢ちゃん」
低い声が、落ちた。
レオンハルトだった。
「……まだ、やりようはあるんじゃないのか」
それは。
提案ではない。
――願いだった。
セリアは、ゆっくりと視線を向ける。
「ありますか」
問い返す。
「……」
言葉が、続かない。
分かっているからだ。
補給はない。援軍もない。
打てる手は、もう――
「……っ」
レオンハルトは、歯を食いしばる。
この、誰よりも強く、優しい少女を止めるため、
何か、何かを、言わなければ。
だが。
この現実を覆す言葉は、出てこない。
「……将軍としての判断です」
セリアは、静かに言った。
「守るために、戦ってきました。
守れない戦いを選ぶなら――」
一拍。
「それは、将ではありません」
レオンハルトは、目を伏せた。
反論できない。
――正しいからだ。
「……条件は、通るのか」
絞り出すような声。
「通します」
即答だった。
その瞬間。
レオンハルトは、理解した。
――この子は。
もう、決めている。
「……」
口を開きかけ、だが、閉じた。
――何も言えなかった。
その沈黙が、
決定を、肯定した。
**
降伏の使者が出され、
条件は、通った。
その日、
この地で、死んだ者は――
ひとりもいなかった。
その代わりに。
セリア・ヴァルステッドは。
“裏切り者”になった。
**
石が、飛ぶ。
罵声が、降り注ぐ。
「売国奴!」
「帝国の犬!」
「信じていたのに!」
「私の息子は無駄死になんですか!?」
その中を。
セリアは、歩いた。
投げられた石が、鎧に当たる。
鈍い音が、嫌に耳に響く。
それでも。
止まらず。振り返らず。
ただ、前だけを見て。
レオンハルトは、その後ろを歩いた。
何も、言えなかった。
**
帝国軍の陣中。
新たに与えられた天幕の中で、
セリアは地図を見ていた。
見慣れたはずの地形。
守ってきたはずの土地。
だが――
配置されている駒は、
すべて帝国のものだった。
「……妙な気分ですね」
ぽつりと呟く。
その背後で。
「そりゃそうだろうよ、嬢ちゃん」
レオンハルトが、低く返した。
「昨日まで、ぶっ倒してた相手だ。
今日からは“味方”だとよ」
皮肉だった。
だが、責める響きではない。
レオンハルトが減らず口を叩いていると、
不意に、伝令が命令書を届けに来た。
「命令が来ています」
平坦な声。
セリアは、顔を上げた。
「……読み上げてください」
「はっ。前線南部、反抗の兆しあり。
統制のため――」
一瞬、言葉が詰まる。
「……村一つを、見せしめに焼き払え、とのことです」
沈黙。
風が、天幕を揺らす音だけが響く。
「……場所は」
セリアの声は、変わらない。
「この地点です」
指し示された場所。
見覚えがあった。
――去年、水路を整備した村だ。
皆で汗を流しながら、必死に繋いだ。
出来上がった水路の水に、
子供たちが歓声を上げていた。
「……そうですか」
短く、答える。
「嬢ちゃん」
レオンハルトが呼ぶ。
低く。
だが、はっきりと。
「まだ、やりようはある」
かつてと同じ言葉。
だが今回は。
その意味が、違った。
「見逃すことも出来る。
遅らせることも出来る。
――やらない、って選択もな」
数秒の沈黙。
レオンハルトは、静かに口を開いた。
「……やれば、どうなる」
「……おそらく、統制は取れます。
反抗の芽を潰し、秩序は、保たれます」
「見逃したら?」
「他の村が焼かれます。
……もっと、酷い形で」
それが、帝国だった。
目を閉じる。
浮かぶのは、
笑っていた顔。
水に手を伸ばした子供。
『手を伸ばしてあげないと、拾えないでしょう?』
(……違う)
心の中で、否定する。
(手を伸ばせば、全ては拾えない。
――だから、捨てる)
分かっている。
理解している。
それでも。
胸の奥が、軋む。
「……実行します」
言った。
はっきりと。
「……そうか」
レオンハルトは、それ以上何も言わなかった。
反論の余地は、なかった。
**
火が、上がる。
夜空を、赤く染める炎。
遠くからでも分かるほどの、
はっきりとした“結果”。
「……セリア様」
部下の一人が、炎に揺らめく背中に、
遠慮がちに声をかけた。
「これで、よろしかったのでしょうか」
答えは、分かっている。
誰もが、分かっている。
それでも、聞かずにはいられない。
「……ええ」
セリアは、炎を見つめたまま、
振り返らず、答えた。
「……これが、最善だったのです」
一瞬、
川沿いの陣地に、風が吹く。
セリアの後ろ姿が、炎と共に、
揺らめいて見えた。
**
その夜。
天幕の中で。
セリアは、一人だった。
膝の上に置いた手が、
わずかに震えている。
呼吸は、乱れていない。
涙も、出ていない。
ただ。
ほんの少しだけ。
指先に、力が入らなかった。
「……嬢ちゃん」
入口の外から、声がした。
レオンハルトだった。
「……なんですか」
「……寝ろ」
短い言葉。
「明日も、“仕事”だ」
「……はい」
足音が、遠ざかる。
静寂が戻る。
セリアは、ゆっくりと目を閉じた。
眠れはしない。
分かっている。
それでも。
横になる。
(……大丈夫です)
かつて、何度も口にした言葉。
だが、今は。
誰にも届かない。
(……私が、引き受けますから)
その言葉の意味は。
もう。
――変わってしまっていた。
**
数日後。
帝国軍は、反抗勢力の掃討を続けていた。
「第七中隊、孤立しました!」
伝令の声が、鋭く響く。
「敵の包囲を受け、後退不能!
救援を要請しています!」
地図に、駒が置かれる。
囲まれた位置。距離。敵の数。
計算は、一瞬で終わる。
「……救援を出せば?」
誰かが言う。
「中央の戦線が薄くなります。
この状況で崩れれば、全体が瓦解します」
「だが、このままでは第七は――」
「……壊滅するでしょう」
沈黙。
誰もが、分かっている。
選択肢は、二つしかない。
「……嬢ちゃん」
レオンハルトが、低く呼ぶ。
「間に合う可能性は?」
「低いです」
「ゼロじゃねぇんだな」
「……はい」
その“わずかな可能性”が。
場の空気を、重くする。
「……第七には、誰がいる」
セリアが問う。
「はっ。隊長は――ゴウセルです」
その名に、空気がわずかに揺れた。
降伏の時。
最後まで剣を抜こうとしていた男。
「まだ戦える」と、叫んでいた。
あの時。
最後に、セリアを睨んだ目。
――裏切り者、と。
言葉にせずとも、そう言っていた。
目を閉じる。
ほんの一瞬だけ。
「……撤退を優先します」
開いた時には、決まっていた。
「……見捨てるのか」
誰かの声。
責めるでもなく。
ただ、確認するような。
「全体を守るためです。
第七中隊は、もう、手遅れです」
「……あいつらには、どう伝える」
レオンハルトの声。
「……伝えません」
一瞬。
誰も、意味を理解できなかった。
空気が、凍る。
「救援が来ると思った方が、長く持ちます」
淡々とした説明。
「――その方が、全体の損耗は減ります」
誰も、言葉を返せなかった。
その中で、レオンハルトだけが。
剣を持つセリアの手が、
柄を強く握りしめていることに気づいた。
**
遠く。
信号が上がる。
第七中隊の、救援要請。
何度も。何度も。
やがて。
それは、途切れた。
その晩。
報告が届く。
「……第七中隊、壊滅」
「……そうですか」
セリアは、短く答えた。
その場を離れる。
足取りは、変わらない。
呼吸も、乱れない。
だが。
「……嬢ちゃん」
背後から、レオンハルトが呼ぶ。
返事はない。
セリアは、止まらなかった。
ただ。
ほんの少し。
拳を握る手に、力が入った。
**
セリアは、優秀だった。
その後も、帝国軍の作戦に従事し、
功績を立て続けた。
そして、今。
彼女は。
“最も信頼できる将”。
人々に、そう呼ばれている。
**
アイゲンシルト城塞。
崖壁から吹き下ろす風が、頬を撫でる。
セリアは、ゆっくりと目を開けた。
「……将軍」
レオンハルトの声。
振り返るまでもない。
「敵軍、再編を完了。
――進軍の兆しあり」
「……そうですか」
短く、応じる。
視線の先。
遠く――小さく見える、青い旗。
何も捨てられない、哀れな将。
――かつての私。
(あのまま進めば、必ず壊れる)
「ここで止める。
――それが、私の役目です」
誰に向けた言葉かも分からないまま、
セリアは、ぽつりと呟いた。
「嬢ちゃん」
レオンハルトが、低く呼ぶ。
「……今は将軍ですよ」
セリアが、嗜める。
「……今度は、何を切る」
静かな問いだった。
責めるでもなく。
試すでもなく。
ただ、確認するように。
セリアは、答えなかった。
ただ、目を細める。
脳裏に浮かぶのは――
笑っていた子供。
炎に包まれた村。
途切れた信号。
そして。
――「私が、引き受けますから」と言っていた、自分。
「……分かっています」
小さく、呟く。
その声は、かすかに掠れていた。
「全部は、守れない」
はっきりと
言い切る。
ゆっくりと、息を吐く。
そして。
野営地にたなびく、青い旗を見据えた。
ぽつりと、零す。
「――私のように、選びなさい」
何かを思い出すように、目を閉じる。
一瞬の沈黙の後、ゆっくりと、目を開いた。
「何を、捨てるのか」
(同じ選択をさせなければ、
――私は、ただの裏切り者になる)
風が止む。
夕陽が、戦場を赤く染める。
それは、血の色にも似ていた。
(……全部を守ろうとした、その先で)
(私は、これを選んだ)
目を逸らさない。
ただ、前を見る。
「――逃げるな」
それが誰に向けた言葉なのか、
セリア自身にも、もう分からなかった。