救えなかった手と、それでも伸ばした手 ~元自衛官が行く、異世界戦記~   作:ホビット

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第二十七章 最も信頼できる将

 セリア・ヴァルステッド。

 帝国の“最も信頼できる”将。

 

 いかにして、現在に至るのか。

 

 それは、まだ彼女が。

 

 どこかの姫と同じように、

 理想を抱いていた頃の話に遡る。

 

**

 

 地方連合国の片隅。

 山と川に囲まれた、小さな領地。

 

 豊かとは言えない。

 だが、飢えることもない。

 

 慎ましく、穏やかに、

 人々が日々を積み重ねていた場所。

 

 そこに、ひとりの少女がいた。

 

「こら、待ちなさいって言ってるでしょ!」

 

 甲高い声が、小さな道場に響いた。

 

 全力で駆ける少女と、逃げる少年。

 

 その後ろで。

 

「……また始まったか」

 

 苦笑混じりに呟く男がいた。

 レオンハルト・ヴァイス。

 

 この地の兵の一人であり、

 ――セリアを、昔から知る男だった。

 

「やだよ!また負けるじゃん!」

「だからって、逃げちゃダメでしょ!」

 

 息を切らしながらも、セリアは笑っている。

 

「はい、捕まえた」

 

 背後から腕を掴み、

 地面へ転がす。

 

「ほら、もう一本」

「えぇぇ……」

「今度は手加減してあげるから!」

「それ絶対嘘だろ!?」

 

 数合も持たず、

 またしても少年は転がされた。

 

「あちゃあ……ちょっと、やりすぎた?」

 

 苦笑とともに、セリアは、

 少年に手を差し伸べる。

 

「立てる?」

「……セリア、強すぎ」

 

 同い年の少女に何度も敗北し、

 少年は、若干不貞腐れつつも、

 その手を握った。

 

 その様子を見て、レオンハルトが肩をすくめる。

 

「相変わらずだな、嬢ちゃんは」

「何がです?」

「強い相手には遠慮なし。

 で、弱い相手には――」

 

 視線が、差し出された手へ向く。

 

「ちゃんと手を差し伸べる」

 

「……?。当たり前です」

 

 セリアは、きょとんとした顔で言う。

 

「強い人には、

 本気でぶつからないと失礼じゃないですか」

「じゃあ、弱い相手は?」

 

 少しだけ、言葉を選んで。

 

「手を伸ばしてあげないと、

 拾えないでしょう?」

 

 さらっと言った。

 

 レオンハルトは、ふっと笑う。

 

「……そうかい」

 

 その言葉が、どれだけ重いか。

 この時の彼女は、まだ知らない。

 

**

 

 セリアは、強く、優しく、

 すくすくと成長した。

 

 年若いセリアは、

 とある領主の館で、

 自分よりも年上の男と対峙していた。

 

「その徴税、やりすぎです」

 

 バンッ!

 机と共に、鋭い視線を叩きつける。

 

「……口の利き方に気をつけろ」

「事実です」

 

 引かない。

 

「今年は収穫が落ちています。

 このままでは、冬を越せない家が出ます」

「それでも規定は規定だ」

「じゃあ、その規定が間違ってます」

 

 即答だった。

 

 場が凍る。

 

 その様子を、少し離れた場所で見ていたレオンハルトが、

 小さく息を吐いた。

 

「……やれやれ」

 

 だが、止めない。

 分かっているからだ。

 ――あの子は、止めても止まらない。

 

「みんなを守るための決まりでしょう?

 守れないなら、意味ないじゃないですか」

 

 まっすぐな言葉。

 怒りでも、反抗でもない。

 ただ、“正しい”と思っているだけの声。

 

 結局、その年の徴税は見直された。

 

**

 

「……嬢ちゃん」

 

 館を出たあと、レオンハルトが呼び止める。

 

「やりすぎだとは思わないか?」

「思いません」

 

 即答。

 

「だって――」

 

 振り返って、笑う。

 

「たとえ、間違っていたって。

 私が、引き受けますから」

 

 その言葉を、

 レオンハルトは、否定しなかった。

 

**

 

 平穏は、長く続かなかった。 

 帝国の侵略が、はじまった。

 

**

 

 大方の予想に反し、

 帝国軍は、この小領を切り取ることに、

 時間を要していた。

 

 理由は、言うまでもなく。

 

「左翼、下げすぎです!押し返してください!」

「補給隊は後方へ!そこは抜かれます!」

 

 セリアの指揮だった。

 

 的確な指示。

 自ら前線に立ち、兵を鼓舞する姿。

 

 兵もまた、そんな彼女に応えた。

 

 数で劣りながらも。

 装備で劣りながらも。

 

 何度も、何度も。

 帝国軍の進軍を食い止めた。

 

**

 

「……やるじゃねぇか、嬢ちゃん」

 

 レオンハルトは、血と土にまみれた戦場で、

 苦く笑った。

 

 ――勝てるかもしれない。

 

 一瞬だけ。

 そんな錯覚すら、抱いた。

 

**

 

 だが。

 報せは、あまりにも冷酷だった。

 

「北方諸国、壊滅」

「西部同盟、陥落」

 

 つまり。

 ――孤立。

 

 補給は、途絶える。

 援軍は、来ない。

 

 戦えば戦うほど、消耗するのは自分たちだけ。

 

 後から分かったことだが、レクトールの差配と、

 ガルドの電撃的な強襲によるものだった。

 

「……詰み、か」

 

 誰かが、呟いた。

 

 セリアは、何も言わなかった。

 ただ、地図を見ていた。

 

 静かに。

 ただ、静かに。

 

 そして。

 

「……軍議を、開きます」

 

 その声は、普段と変わらなかった。

 

「結論から言います」

 

 集まった将兵の前で、セリアは言った。

 

「このまま戦えば、……全滅します」

 

 ざわめき。

 

「……だが、まだ戦える!」

「ここで退けば、誇りはどうなる!」

 

 声が飛ぶ。

 セリアは、それを遮らない。

 

 全て、聞いた上で、

 静かに言った。

 

「条件付きで、降伏します」

 

 空気が、凍る。

 

「……何を言っている」

「条件は二つ」

 

 感情を挟まず、続ける。

 

「ひとつ。この地の民の安全。

 ふたつ。配下の兵の助命。

 それを対価に――」

 

 ほんのわずか、言葉が詰まる。

 

 石造りの薄暗い一室で、

 一瞬、ランタンの灯りが揺らめいた。

 

「私は、帝国に降ります」

 

 言い切った。

 

「ふざけるな!」

「裏切り者が!」

 

 即座に、怒声が上がる。

 誰かの叩きつけた拳でインク瓶が倒れ、

 羊皮紙に――不要になった救援要請の文面に――

 黒い染みが広がった。

 

 その中で。

 

「……嬢ちゃん」

 

 低い声が、落ちた。

 レオンハルトだった。

 

「……まだ、やりようはあるんじゃないのか」

 

 それは。

 

 提案ではない。

 ――願いだった。

 

 セリアは、ゆっくりと視線を向ける。

 

「ありますか」

 

 問い返す。

 

「……」

 

 言葉が、続かない。

 分かっているからだ。

 

 補給はない。援軍もない。

 打てる手は、もう――

 

「……っ」

 

 レオンハルトは、歯を食いしばる。

 

 この、誰よりも強く、優しい少女を止めるため、

 何か、何かを、言わなければ。

 

 だが。

 この現実を覆す言葉は、出てこない。

 

「……将軍としての判断です」

 

 セリアは、静かに言った。

 

「守るために、戦ってきました。

 守れない戦いを選ぶなら――」

 

 一拍。

 

「それは、将ではありません」

 

 レオンハルトは、目を伏せた。

 

 反論できない。

 ――正しいからだ。

 

「……条件は、通るのか」

 

 絞り出すような声。

 

「通します」

 

 即答だった。

 

 その瞬間。

 レオンハルトは、理解した。

 

 ――この子は。

 もう、決めている。

 

「……」

 

 口を開きかけ、だが、閉じた。

 ――何も言えなかった。

 

 その沈黙が、

 決定を、肯定した。

 

**

 

 降伏の使者が出され、

 条件は、通った。

 

 その日、

 この地で、死んだ者は――

 

 ひとりもいなかった。

 

 その代わりに。

 

 セリア・ヴァルステッドは。

 “裏切り者”になった。

 

**

 

 石が、飛ぶ。

 罵声が、降り注ぐ。

 

「売国奴!」

「帝国の犬!」

「信じていたのに!」

「私の息子は無駄死になんですか!?」

 

 その中を。

 セリアは、歩いた。

 

 投げられた石が、鎧に当たる。

 鈍い音が、嫌に耳に響く。

 

 それでも。

 

 止まらず。振り返らず。

 ただ、前だけを見て。

 

 レオンハルトは、その後ろを歩いた。

 何も、言えなかった。

 

**

 

 帝国軍の陣中。

 

 新たに与えられた天幕の中で、

 セリアは地図を見ていた。

 

 見慣れたはずの地形。

 守ってきたはずの土地。

 

 だが――

 配置されている駒は、

 すべて帝国のものだった。

 

「……妙な気分ですね」

 

 ぽつりと呟く。

 

 その背後で。

 

「そりゃそうだろうよ、嬢ちゃん」

 

 レオンハルトが、低く返した。

 

「昨日まで、ぶっ倒してた相手だ。

 今日からは“味方”だとよ」

 

 皮肉だった。

 だが、責める響きではない。

 

 レオンハルトが減らず口を叩いていると、

 不意に、伝令が命令書を届けに来た。

 

「命令が来ています」

 

 平坦な声。

 

 セリアは、顔を上げた。

 

「……読み上げてください」

 

「はっ。前線南部、反抗の兆しあり。

 統制のため――」

 

 一瞬、言葉が詰まる。

 

「……村一つを、見せしめに焼き払え、とのことです」

 

 沈黙。

 風が、天幕を揺らす音だけが響く。

 

「……場所は」

 

 セリアの声は、変わらない。

 

「この地点です」

 

 指し示された場所。

 見覚えがあった。

 

 ――去年、水路を整備した村だ。

 皆で汗を流しながら、必死に繋いだ。

 

 出来上がった水路の水に、

 子供たちが歓声を上げていた。

 

「……そうですか」

 

 短く、答える。

 

「嬢ちゃん」

 

 レオンハルトが呼ぶ。

 

 低く。

 だが、はっきりと。

 

「まだ、やりようはある」

 

 かつてと同じ言葉。

 だが今回は。

 

 その意味が、違った。

 

「見逃すことも出来る。

 遅らせることも出来る。

 ――やらない、って選択もな」

 

 数秒の沈黙。

 

 レオンハルトは、静かに口を開いた。

 

「……やれば、どうなる」

「……おそらく、統制は取れます。

 反抗の芽を潰し、秩序は、保たれます」

「見逃したら?」

「他の村が焼かれます。

 ……もっと、酷い形で」

 

 それが、帝国だった。

 

 目を閉じる。

 

 浮かぶのは、

 笑っていた顔。

 

 水に手を伸ばした子供。

 

 『手を伸ばしてあげないと、拾えないでしょう?』

 

(……違う)

 

 心の中で、否定する。

 

(手を伸ばせば、全ては拾えない。

 ――だから、捨てる)

 

 分かっている。

 理解している。

 

 それでも。

 胸の奥が、軋む。

 

「……実行します」

 

 言った。

 はっきりと。

 

「……そうか」

 

 レオンハルトは、それ以上何も言わなかった。

 反論の余地は、なかった。

 

**

 

 火が、上がる。

 夜空を、赤く染める炎。

 

 遠くからでも分かるほどの、

 はっきりとした“結果”。

 

「……セリア様」

 

 部下の一人が、炎に揺らめく背中に、

 遠慮がちに声をかけた。

 

「これで、よろしかったのでしょうか」

 

 答えは、分かっている。

 誰もが、分かっている。

 それでも、聞かずにはいられない。

 

「……ええ」

 

 セリアは、炎を見つめたまま、

 振り返らず、答えた。

 

「……これが、最善だったのです」

 

 一瞬、

 川沿いの陣地に、風が吹く。

 

 セリアの後ろ姿が、炎と共に、

 揺らめいて見えた。

 

**

 

 その夜。

 天幕の中で。

 

 セリアは、一人だった。

 

 膝の上に置いた手が、

 わずかに震えている。

 

 呼吸は、乱れていない。

 涙も、出ていない。

 

 ただ。

 ほんの少しだけ。

 

 指先に、力が入らなかった。

 

「……嬢ちゃん」

 

 入口の外から、声がした。

 レオンハルトだった。

 

「……なんですか」

「……寝ろ」

 

 短い言葉。

 

「明日も、“仕事”だ」

「……はい」

 

 足音が、遠ざかる。

 

 静寂が戻る。

 セリアは、ゆっくりと目を閉じた。

 

 眠れはしない。

 分かっている。

 

 それでも。

 横になる。

 

(……大丈夫です)

 

 かつて、何度も口にした言葉。

 

 だが、今は。

 誰にも届かない。

 

(……私が、引き受けますから)

 

 その言葉の意味は。

 もう。

 ――変わってしまっていた。

 

**

 

 数日後。

 帝国軍は、反抗勢力の掃討を続けていた。

 

「第七中隊、孤立しました!」

 

 伝令の声が、鋭く響く。

 

「敵の包囲を受け、後退不能!

 救援を要請しています!」

 

 地図に、駒が置かれる。

 

 囲まれた位置。距離。敵の数。

 計算は、一瞬で終わる。

 

「……救援を出せば?」

 

 誰かが言う。

 

「中央の戦線が薄くなります。

 この状況で崩れれば、全体が瓦解します」

 

「だが、このままでは第七は――」

 

「……壊滅するでしょう」

 

 沈黙。

 誰もが、分かっている。

 選択肢は、二つしかない。

 

「……嬢ちゃん」

 

 レオンハルトが、低く呼ぶ。

 

「間に合う可能性は?」

「低いです」

「ゼロじゃねぇんだな」

「……はい」

 

 その“わずかな可能性”が。

 場の空気を、重くする。

 

「……第七には、誰がいる」

 

 セリアが問う。

 

「はっ。隊長は――ゴウセルです」

 

 その名に、空気がわずかに揺れた。

 

 降伏の時。

 最後まで剣を抜こうとしていた男。

 「まだ戦える」と、叫んでいた。

 

 あの時。

 最後に、セリアを睨んだ目。

 

 ――裏切り者、と。

 言葉にせずとも、そう言っていた。

 

 目を閉じる。

 ほんの一瞬だけ。

 

「……撤退を優先します」

 

 開いた時には、決まっていた。

 

「……見捨てるのか」

 

 誰かの声。

 責めるでもなく。

 ただ、確認するような。

 

「全体を守るためです。

 第七中隊は、もう、手遅れです」

「……あいつらには、どう伝える」

 

 レオンハルトの声。

 

「……伝えません」

 

 一瞬。

 誰も、意味を理解できなかった。

 

 空気が、凍る。

 

「救援が来ると思った方が、長く持ちます」

 

 淡々とした説明。

 

「――その方が、全体の損耗は減ります」

 

 誰も、言葉を返せなかった。

 

 その中で、レオンハルトだけが。

 

 剣を持つセリアの手が、

 柄を強く握りしめていることに気づいた。

 

**

 

 遠く。

 信号が上がる。

 

 第七中隊の、救援要請。

 何度も。何度も。

 

 やがて。

 それは、途切れた。

 

 その晩。

 報告が届く。

 

「……第七中隊、壊滅」

「……そうですか」

 

 セリアは、短く答えた。

 

 その場を離れる。

 足取りは、変わらない。

 呼吸も、乱れない。

 

 だが。

 

「……嬢ちゃん」

 

 背後から、レオンハルトが呼ぶ。

 返事はない。

 

 セリアは、止まらなかった。

 

 ただ。

 ほんの少し。

 拳を握る手に、力が入った。

 

**

 

 セリアは、優秀だった。

 

 その後も、帝国軍の作戦に従事し、

 功績を立て続けた。

 

 そして、今。

 彼女は。

 

 “最も信頼できる将”。

 

 人々に、そう呼ばれている。

 

**

 

 アイゲンシルト城塞。

 

 崖壁から吹き下ろす風が、頬を撫でる。

 セリアは、ゆっくりと目を開けた。

 

「……将軍」

 

 レオンハルトの声。

 振り返るまでもない。

 

「敵軍、再編を完了。

 ――進軍の兆しあり」

「……そうですか」

 

 短く、応じる。

 

 視線の先。

 遠く――小さく見える、青い旗。

 

 何も捨てられない、哀れな将。

 ――かつての私。

 

(あのまま進めば、必ず壊れる)

 

「ここで止める。

 ――それが、私の役目です」

 

 誰に向けた言葉かも分からないまま、

 セリアは、ぽつりと呟いた。

 

「嬢ちゃん」

 

 レオンハルトが、低く呼ぶ。

 

「……今は将軍ですよ」

 

 セリアが、嗜める。

 

「……今度は、何を切る」

 

 静かな問いだった。

 

 責めるでもなく。

 試すでもなく。

 

 ただ、確認するように。

 セリアは、答えなかった。

 

 ただ、目を細める。

 

 脳裏に浮かぶのは――

 

 笑っていた子供。

 炎に包まれた村。

 途切れた信号。

 

 そして。

 ――「私が、引き受けますから」と言っていた、自分。

 

「……分かっています」

 

 小さく、呟く。

 その声は、かすかに掠れていた。

 

「全部は、守れない」

 

 はっきりと

 言い切る。

 

 ゆっくりと、息を吐く。

 

 そして。

 野営地にたなびく、青い旗を見据えた。

 

 ぽつりと、零す。

 

「――私のように、選びなさい」

 

 何かを思い出すように、目を閉じる。

 一瞬の沈黙の後、ゆっくりと、目を開いた。

 

「何を、捨てるのか」

 

(同じ選択をさせなければ、

 ――私は、ただの裏切り者になる)

 

 風が止む。

 夕陽が、戦場を赤く染める。

 それは、血の色にも似ていた。

 

(……全部を守ろうとした、その先で)

(私は、これを選んだ)

 

 目を逸らさない。

 ただ、前を見る。

 

「――逃げるな」

 

 それが誰に向けた言葉なのか、

 セリア自身にも、もう分からなかった。

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