救えなかった手と、それでも伸ばした手 ~元自衛官が行く、異世界戦記~ 作:ホビット
夜明け前。
王国軍の野営地には、まだ霧が残っていた。
オルウェンは、天幕の外で空を仰いでいた。
夜明け前の、灰色の空だった。
昨日の作戦会議から、ずっと考えている。
(……あの表情は)
机を叩き、会議室を出て行く時の、エリシアの顔。
あれは、覚悟を決めた者の顔だった。
世間知らずの子どもだと思っていた。
しかしあの娘は、何かを見ている。
(ならば)
オルウェンは、静かに息を吐く。
急ぎすぎた。
それは認めよう。
柔和な笑みを、もう一度顔に乗せる。
夜明けの空が、少しずつ白んでいた。
**
朝。
途中解散となってしまった会議について、
続きを改めて話すため、幹部や騎士たちは、
エリシアの天幕に集まっていた。
皆、表情には、
まだ昨日の戸惑いが残っている。
エリシアは、全員が集まったことを確認する。
小さく頷いた後、上座から声を降ろした。
「まず、皆さんにご報告があります」
場が静まる。
「オルウェン司祭には、これまで、
物資の調達から民の支援まで、
数多くの場面でお力添えを頂いてきました」
護衛騎士たちが、オルウェンへ視線を向ける。
頷く者。微笑む者。
「本日より、正式に、
陣営の一員としてお迎えしたいと思います」
騎士の一人が、立ち上がり頭を下げた。
「司祭殿、今後ともよろしくお願いします」
続いて、いくつかの祝辞が続く。
オルウェンは、柔和な笑顔で一礼した。
いつも通り、完璧な作法だった。
「身に余る光栄です。
微力ながら、精一杯お支えいたします」
パチパチ、と拍手があがる。
ローデンは、腕を組んだまま、
黙って前を見ていた。
遼は、その横顔を一瞬だけ見た。
複雑そうな表情だった。
何も言わないのが、ローデンなりの答えだった。
「もう一つ、お話することがあります」
エリシアは、続けた。
再び、天幕が静まる。
「遼と、ミレイユを、
引き続き私のそばに置きます」
場の空気が、わずかに変わった。
「これは命令ではなく、私自身の意思です。
……誰の進言によっても、変えるつもりはありません」
一瞬の沈黙。
その静寂を、柔らかな声が破った。
「……姫殿下」
オルウェンだった。
声のトーンは、いつも通りだった。
穏やかで、慎重で、心配そうだった。
「ひとつだけ、よろしいでしょうか」
エリシアは、視線を向けた。
「突出した兵士たちの件について……
皆さま、それぞれに思うところがあったかと存じます」
場の空気が、また重くなった。
「民も、兵も、今は不安を抱えています。
そのような時こそ、姫殿下には、
揺るぎない象徴としての姿を、
皆に示していただく必要があるのでは、と」
言葉を切る。
「……リョウ殿とミレイユ様の存在を、
否定するものでは決してありません。
ただ、姫殿下の安定が、
皆の安心に繋がると、私は考えています」
断言はしなかった。
提案のように、包んでいた。
正論だった。
善意だった。
だからこそ、逃げ場がなかった。
遼は、じっとエリシアの背中を見ていた。
ミレイユも、動かなかった。
場の視線が、静かにエリシアへ集まっていく。
オルウェンの言葉に、
頷きかけている者が、何人かいた。
その言葉に。
エリシアは、俯かず、顔を逸さなかった。
オルウェンの言葉を、最後まで聞いた。
エリシア自身も、正論だ、と思った。
だが。
「……受け入れられません」
静かに、言い切った。
誰かの「…え?」という声とともに、
場に、困惑の静寂が訪れる。
エリシアは、続けた。
「司祭の仰ることも、
皆が不安を抱えていることも、分かっています」
一歩も下がらない。
「ですが、私は、
誰かのために象徴であろうとするのを、
やめることにしました」
一瞬、遼とミレイユに、視線を送る。
遼は、小さく、強く頷く。
ミレイユは、ただ、
エリシアを見守っていた。
「私がそばに置きたいから、置きます。
それが、私の選択です」
**
オルウェンは、エリシアを観察していた。
(……なるほど)
何かが、腑に落ちた。
昨日の覚悟を決めた顔。
あの目の意味が、今、分かった。
この娘は、もう動かない。
象徴として消費しようとしていた。
だがこの動き方は、その計算の外になる。
ならば。
オルウェンは、深々と頭を下げた。
「……差し出がましいことを申してしまい、
申し訳ございませんでした」
「あとは、姫殿下の御心のままに」
それ以上は、言わなかった。
**
ローデンが、鼻を鳴らした。
だが、その目は、どこか満足そうだった。
遼は、小さく息を吐いた。
ミレイユは、じっと見つめたまま、
かすかに肩の力が抜けていた。
「それと、さらにもう一つだけ。
この場で皆に伝えておくことがあります」
エリシアは、
すぅ、と一息を吸い、瞑目する。
『選びなさい』
『何を捨てるのか』
あの問いに、まだ答えを伝えられていない。
エリシアに問いを投げた、
セリアの表情も、言葉も、理由は分からない。
けれど。
決意を、伝えねばならない。
そう、思った。
皆が注目する中。
小さく息を吐き、目を開ける。
エリシアは、決然と言い放った。
「セリア将軍と、一騎打ちをします」
息を飲む音が、部屋中から鳴る。
場の空気が、一瞬で変わった。
「……な」
「姫殿下、それは」
「お待ちください!」
声が重なる。
反対意見は、当然だった。
「相手は帝国随一の将です!
正気とは思えません!」
「万一のことがあれば、
この陣営はどうなるのですか!!」
遼は、声を上げなかった。
ただ、静かに、
拳を握った。
エリシアは、反対の声に、
耳を傾けていた。
遮らなかった。
急がなかった。
全て聞き終わり、声が収まる。
重苦しい静寂の中、また、言い放った。
「それは、
私の意思で、決めます」
エリシアの目は静かだった。
だが、揺れていなかった。
「アイゲンシルトは、正攻法で落とせない。
ですが、このまま膠着が続けば、
無駄な流血が増えるだけです。
私が行くことで、止められるなら、
私が行きます」
「ですが、危険です。
他の方法が――」
「……エリシア」
誰かの反論を、別の声が遮った。
ミレイユだった。
表情は見えない。
顔を俯かせ、
唇を噛んでいることだけ、分かった。
いつもの彼女なら、止める。
絶対に、止める。
それでも。
「……あなたを、信じます」
絞り出すような声だった。
場が、静まった。
エリシアは、何も言わず、
ただ静かに、ミレイユへ頷いた。
**
午後。
アイゲンシルト城塞。
セリアは、執務室の中で、
帝都からの報告書に目を通していた。
『属州の一部にて反乱の兆しあり』
『アイゲンシルトへの物資輸送計画は要修正』
どれも、良い報せではない。
(帝国の支配に、揺らぎが出ている。
……あの娘、か)
会談で出会った時に見せた、
怯えていたような表情。
一方で、ここまで辿り着いた事実。
セリアが物思いに耽っていると、
不意に、背後から声をかけられた。
「セリア将軍」
振り返ると、伝令兵だった。
顔には、隠しきれない困惑が浮かんでいる。
「反乱軍の使者から、伝言がありました。
敵将エリシアより、セリア殿下へ申し入れがあるそうです」
「内容を報告してください」
淡々と、伝令に続きを促す。
すると、何やら言いづらそうに、報告した。
「……それが、その……。
敵将エリシアより、セリア殿下へ、
……『明日の夕方、一騎打ちを望む』と」
部屋の中の空気が、変わる。
戸惑いと緊張が、静かなざわめきになった。
「……将軍」
古参のひとりが、慎重に口を開いた。
「率直に申し上げます。
一騎打ちに応じるメリットは、ありません」
真っ当な意見だった。
「現状、我々は城塞で守りを固めています。
このままでも、我々に敗北は無い。
わざわざ、将軍が出る必要は、どこにもありません」
正論だ。
何人かが、頷く。
「…………」
セリアは、答えなかった。
脳裏に、あの娘の顔が浮かぶ。
(――確かめなければならない)
セリアは、静かに口を開いた。
「受けます」
ざわめきが広がった。
「し、将軍!?
先ほど申し上げたとおり、戦略的に――」
「ルヴァンを失い、帝国の生産力は減少しています。
……属州にも不穏な動きがあるなか、
これ以上の流血があれば、致命傷となりかねません」
「私が手を下す。
……それが、最も早い解決方法です」
淡々と、理由を告げる。
続けて、わずかに目が細くなった。
「それと。
――この私が、負けるとでも?」
試すような言葉。
周囲の空気が、少しだけ強張った。
「……そ、それはそうですが」
「では、問題ありません」
言い切ると、セリアは、
それきり何も言わなかった。
その様子に、
副官も、周りの部下たちも、
それ以上言えなかった。
(……選ばせる)
セリアは、内心で静かに決めた。
あの娘に、選ばせる。
命か、理想か。
それが、自分にできることだ。
レオンハルトは、
部屋の端で、黙って眺めていた。
(……嬢ちゃん)
何も言わず。
ただ、見ていた。
**
翌日の夕方。
前回、会談があったのと同じ場所で、
二人の将が立っていた。
白銀の将が、静かに歩み寄る。
金髪の姫が、決然と相立つ。
セリアは、エリシアを見た。
前回と、目が違う。
あの時は、縋るような目をしていた。
今は、違う。
(……何かが変わった)
「……また、お会いしましたね」
「はい」
エリシアは、下がらなかった。
二人分の、剣を抜く音。
風が、細く鳴いた。
**
遼は、少し離れた場所から、
二人が間合いを取るのを見ていた。
セリアの構えに、無駄がない。
感情でも憎悪でもない。
ただ必要な力が、必要な場所に収まっていた。
対して、エリシアの構えは、懸命だった。
(……実力差は、明らかだ)
ギリ、と歯を食いしばる。
拳にも、自然に力が入った。
その隣では、
ミレイユが祈るように手を組んでいた。
**
最初の一撃。
エリシアが、弾かれた。
足が、一歩後退する。
二撃目。
また、下がる。
セリアの剣は、速く、迷いがなかった。
対するエリシアの剣は、震えていた。
恐怖ではない。
何かを伝えようとして、
言葉の代わりに剣を握っている人間の、
必死の震えだった。
何合かの打ち合いを経て。
セリアが、問いかけた。
「なぜ、あなたは。
『諦めるべき』と分かっていても、
戦えるのですか」
「この城塞は落とせない。
帝国も、まだ終わっていない。
それを知っていて、なぜ」
問いと共に、セリアの剣が振られる。
なんとか防いだが、
エリシアの足が、また一歩下がった。
それでも、剣を捨てない。
腕は痺れている。
足は崩れかけている。
それでも。
「捨てたくない、から」
小さな声だった。
「……選べなかった人を」
ほんの一瞬、
大切な二人に目を向ける。
遼。ミレイユ。
二人の顔を見るだけで、勇気が湧いた。
「私は。
自分の選んだ結果を、捨てたくない。
だから私は、ここに立ち続けます」
その言葉に。
ほんの一瞬、セリアの身体が硬直した。
しかし、次の瞬間。
今までよりも重い一撃が、エリシアを襲う。
エリシアは表情を歪め、歯を食いしばった。
それでも、目だけは逸らさない。
一撃。
二撃。
セリアは、力のままに、剣を振った。
**
レオンハルトは、
セリアの剣に、変化があったことに気付いた。
(……嬢ちゃん)
レオンハルトは、唇を噛んだ。
身体は、動かなかった。
**
エリシアは、押されていた。
腕が限界に近い。
足が、崩れかけている。
これまで耐えられたこと自体、
奇跡的と言えるだろう。
このまま続ければ、
間違いなく、死ぬ。
それでも、目を逸らさなかった。
セリアの目を、見ていた。
あの目の奥に、何かがある。
怒りではない。
冷静でもない。
何か、もっと深いところにある、
燃えているものがある。
ガキィン!!
乾いた音が、平野に響いた。
ついに、エリシアの手から、
剣が弾き飛ばされていた。
膝が、折れる。
地面に手をつく。
空気が、止まった。
**
セリアは、剣を構えたまま、
エリシアを見下ろした。
(……終わりです)
諦念に似た、静かな決意だった。
終わらせなければならない。
これ以上引き延ばすことは、
残酷なだけだ。
エリシアは、顔を上げていた。
倒れたまま。
剣もないまま。
それでも、目だけは、逸らさなかった。
(……なぜ)
逸らさないのか。
セリアは、剣を振り上げた。
**
剣が振り下ろされる、その一瞬。
遼は、思わず駆けだす。
ミレイユは、祈る様にギュッと目を瞑る。
エリシアの目には、
剣を振るセリアの動きが、
やけにゆっくり見えた。
白銀の刃が煌めき、
エリシアの表情が、一瞬、映り込む。
手に、剣は、もう無い。
それでも、決して目だけは、逸らさない。
誰かが、何かを叫んだ。
**
ガキンッ!!
金属同士のぶつかり合う音が、
静寂の戦場に、よく響いた。
――レオンハルトの槍が、
寸でのところで止めていた。
「……レオンハルト。
なぜ、止めるのですか」
一段、低い声だった。
レオンハルトは、セリアの、
この声を何度も。
ーーそう、何度も、耳にしてきた。
「……嬢ちゃん」
かつての呼び方のまま、
レオンハルトは、静かに言った。
「もう、終いにしようや」
場が、シンと静まった。
セリアの目が、わずかに揺れた。
「……終い、とは」
「嬢ちゃんは、十分やった」
低く、だが、はっきりと。
「切り続けた。守り続けた。
ずっとずっと、一人で背負い続けた」
「……余計なことを」
「余計じゃない」
セリアの言葉を遮る。
レオンハルトは、引かなかった。
「あんたが苦しんでいるのを、
俺たちはずっと、見てた」
レオンハルトは、ゆっくりと、
セリアに視線で促す。
その動きに促されるまま、
セリアは、周囲を見渡した。
部下たちの顔があった。
長く、隣で戦ってきた顔。
命令に従い続けてきた顔。
その目が。
レオンハルトと、同じだった。
責めていない。
憐れんでもいない。
ただ。
―ー休んで、いい。
そういう、目だった。
(……)
セリアは、何も言えなかった。
剣を持つ手が、わずかに止まる。
――「私が、引き受けますから」
かつての自分の声。
だが。
(……いつから、これが)
地面に膝をついたまま、
エリシアが、まだ、こちらを見上げていた。
目を、逸らさないまま。
「……」
セリアは、長い間、
その目を見ていた。
そして。
ゆっくりと。
剣を、下げた。
「……見極めさせてもらいます」
静かに、言った。
「あなたが、何を背負えるか」
エリシアは、頷いた。
「……はい」
エリシアの返事に、セリアは背中を返す。
場の空気が、静かに変わった。
遠くで、誰かが息を吐く音がした。
自陣に向けて、セリアは歩き出す。
続くように、レオンハルトが隣に並んだ。
二人は、何も言わなかった。
ただ、並んで歩いた。
風が、二人の間を、静かに抜けていった。
**
一騎打ちの余韻も冷めぬまま、
セリア軍は、整然と引き上げていた。
遼は、その背を見送りながら、
エリシアに声をかけた。
「……立てるか」
「……すみません。
腰が、抜けてしまいました……。
腕も、もう、力が入りません……」
エリシアが、困ったように笑う。
ミレイユが、そっと隣に寄り添い、
一言だけ呟いた。
「……相変わらず、無茶しすぎです」
「全くだな。見ているこっちの身になってほしい」
遼も、頭を掻きながら、
ミレイユの言葉に同意した。
どことなく、むず痒い雰囲気。
エリシアは、少しだけ恥ずかしそうに、
視線を落とした。
すると。
「……さぁ」
声とともに、落とした視線の先で、
二人分の手が差し出されていた。
顔を上げると、
遼も、ミレイユも、何も言わず。
ただ、静かに微笑んでいた。
エリシアは、もう一度だけ俯き、
何かを飲み込むと。
二人に支えられて、立ち上がった。
夕陽に染まる荒野。
顔を上げた先に、
赤く染まるアイゲンシルト城塞が見える。
その門は、静かに。
しかし、ゆっくりと、開いていた。