救えなかった手と、それでも伸ばした手 ~元自衛官が行く、異世界戦記~ 作:ホビット
アイゲンシルト城塞の内部は、
静かだった。
石造りの廊下。
冷えた空気。
遠く、兵の足音が規則正しく続いている。
その奥、応接室として使われている一室に、
エリシアたちは通された。
遼。ミレイユ。ローデン。
そして、向かいに、セリア。
その隣に、レオンハルト。
机の上には、何も置かれていない。
飾りもなく、守将の性格が出ているようだった。
窓の外には、まだ夕陽の残りが、
城塞の石壁を赤く染めていた。
最初に口を開いたのは、セリアだった。
「座ってください」
エリシアは、静かに椅子を引いた。
遼も、ミレイユも、それに続く。
ローデンだけは、
しばらく腕を組んだまま立っていたが、
やがて低く唸り、腰を下ろした。
「停戦の条件を、確認します」
セリアは、淡々と言った。
「ひとつ。交戦の一時停止。
ふたつ。負傷兵・捕虜の相互引き渡し。
みっつ。」
そこで、ほんのわずか、間があった。
「……帝都への使者を、通すこと」
場の空気が、わずかに変わった。
「帝都……?」
ローデンが、眉間に皺を寄せる。
「つまり、皇帝への打診、ということですか」
「そうです」
セリアの答えは、短かった。
「私の権限で停戦はできます。
ですが、それ以上は、私では決められない」
「……皇帝は、どう出る」
遼が静かに問う。
「分かりません」
即答だった。
「ただ」
セリアは、窓の外へ視線を向けた。
「ガルドを失い、
レクトールを失い、
――アイゲンシルトの門も開きました。
……帝国が、このまま何も変えない理由は、もう、無い」
断言ではない。
予測でもない。
ただ、現実を置くような言い方だった。
ミレイユは、セリアを見ていた。
一騎打ちの後。
剣を下げた、あの瞬間。
あの時、
セリアの目に浮かんでいたのは、何だったのか。
勝利でも、慈悲でもない。
何か、もっと古い場所にある、
疲れ切ったものが、ようやく息をついたような。
そんな目だった。
(……この人も、ずっと一人だったのかもしれない)
ミレイユは、静かにそう思った。
「ひとつ、聞いてもいいですか」
エリシアが、口を開く。
皆の視線が集まる中、エリシアは続けた。
「セリア将軍は……なぜ、停戦を受けいれたのですか」
部屋が静まった。
「たとえ一騎打ちで敗れたとしても、
戦略上の優位は、将軍の側にありました」
エリシアは、真っ直ぐセリアを見ていた。
「それでも、兵を退いてくださった。
……理由を、知りたいんです」
セリアは、しばらく黙っていた。
レオンハルトが、横目でセリアを見る。
何も言わない。
やがて、セリアは静かに口を開いた。
「あなたが、目を逸らさなかったから」
「……え?」
「剣を失っても。
膝をついても。
私が剣を振り上げても」
セリアは、テーブルの上に視線を落とす。
「逸らさなかった」
一拍。
「私は……ずっと、捨ててきた。
守るために、切り捨ててきた。
そうしないと、守れなかったから」
淡々とした声だった。
感情を押し込めているのではない。
もう、そこに感情がないのだ。
「だから、あなたの目が……分からなかった」
「捨てずに、あそこに立てる理由が」
セリアは、
エリシアを直接見た。
「確かめたかったのです」
エリシアは、少し俯いた。
なんと返せばいいのか、分からなかった。
"捨てずに立てた"のが、本当に強さなのか、
それとも、まだ気づいていない愚かさなのか、
エリシア自身にも、まだ分からない。
「……私も、分からないんです」
静かに言った。
「捨てなくて良かったのか、
まだ、答えは出ていません。
……ただ」
エリシアは、顔を上げた。
「捨てたくなかった。
だから、逃げなかった。
……それだけです」
セリアは、エリシアを見ていた。
長い間、見ていた。
かつての自分も、最初はそう思っていた。
捨てたくなかった。
だから、全部守ろうとした。
そして、守れなかった日。
全部を守れる方法を、探すのをやめた。
(……それが、今の私だ)
正しかった。
間違っていなかった。
だが。
目の前の娘は、
同じ道の入口に立ちながら、
まだ諦めていない。
(なぜ)
理由が、分からなかった。
それが、今日、ここに来た理由だった。
まだ、答えは、分からない。
答えなど、始めから無いのかもしれない。
一度、頭を横に振ると、
セリアは、遼に視線を向けた。
「リョウ殿」
「なんですか」
「あなたは……あの娘の、何なのですか」
問い方が、妙だった。
護衛でも、参謀でも、
そのどちらでもない問い方だった。
遼は少し考え、素直に答えた。
「……逃げなかった人間、ですかね」
「逃げなかった?」
「いろいろと。
それだけです」
セリアは、遼をじっと見た。
何かを、確認するように。
「……そうですか」
短く言った。
それ以上は聞かなかった。
「……はぁぁ」
レオンハルトが、ため息をつく。
「嬢ちゃん、あんまり詰問みたいになると、
向こうさんも困るだろ」
明け透けな言い様に、セリアの眉が上がる。
ジロリ、と横目を送りつつ、セリアは嗜めた。
「……余計なことを
言わないでいただけますか」
レオンハルトは、肩を竦める。
「いやいや、事実だろうが。
真っ直ぐなのは良いが、
昔から目の前のことに集中しすぎだ」
「……レオンハルト」
セリアの目が更に細まる。
レオンハルトは、
手を挙げて降参の意思を示すと、
ローデンに顔を向けた。
ローデンも、難しい顔のまま、
少しだけ口の端を動かした。
「……年寄り同士、後ろで茶でも飲んどるか」
「だな。そうさせてもらう」
二人は、立ち上がった。
場の空気が、わずかに軽くなる。
**
残されたのは、四人。
エリシア。遼。ミレイユ。セリア。
レオンハルトとローデンが部屋を出た後、
静寂が戻った。
だが、さっきとは違う静寂だった。
硬い静寂ではなく、少し柔らかい静寂。
「……ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
今度は、ミレイユが口を開いた。
エリシアが少し驚いたように横を見る。
遼も、黙って待った。
セリアが、軽く頷く。
「将軍は……帝国軍に入ってから、
ずっと、一人で判断してきたのですか」
不思議な問いだった。
セリアは、少しだけ目を細める。
「……そのつもりでした」
「そのつもりで、あった、と」
ミレイユは、静かに続ける。
「でも、レオンハルト様は、
ずっと隣にいた」
「……」
「あの時。
止めに出てきたのも、彼だった」
セリアは、答えない。
「止めてほしかったのではないか、と。
……思いました」
部屋が、静まり返った。
窓の外で、風が鳴った。
城塞の石が、低く唸るような音。
セリアは、長い間、何も言わなかった。
やがて。
「……余計なことを言う侍女ですね」
声は、硬くなかった。
ミレイユは、深々と頭を下げた。
「大変、失礼いたしました」
「……いや」
セリアは、視線を窓の外に向けた。
「間違ってはいません」
それだけ言って、また黙った。
**
遼は、セリアとエリシアを、交互に見ていた。
全く違う道を歩いてきた二人が、
同じ場所に辿り着いた。
それが何を意味するのか、
遼には、まだ分からない。
だが。
(……なんか、これでいい気がする)
上手く言えない。
言葉にならない。
ただ、胸の奥の何かが、
静かに、そう言っていた。
「停戦の件、正式に承りました」
空気を戻すように、エリシアが言った。
「使者を、帝都に送ってください。
私は、待ちます」
セリアが頷く。
「……ひとつだけ、言っておきます」
「はい」
「皇帝は、あなたの言葉を聞くかもしれない。
ですが」
セリアは、真っ直ぐエリシアを見た。
「彼は、あなたとは違う答えを持っています」
「……分かっています」
「本当に?」
問い返す声は、鋭くなかった。
ただ、確認するように。
「あなたの言う"捨てない"が、
彼には"愚かさ"に見える」
エリシアは、少しだけ目を伏せた。
「……きっと、そうなんだと思います」
そして。
もう一度顔を上げ、真っ直ぐ見つめなおした。
「それでも、話したいんです」
**
セリアは、エリシアを見た。
最後まで、目を逸らさない娘だ、とまた思った。
「……難しい相手ですよ」
「はい」
「論破できない」
「はい」
「感情で揺さぶれない」
「……はい」
セリアは、小さく息を吐いた。
「それでも行くのですか」
「行きます」
間髪入れなかった。
**
窓の外。
夕陽が落ち切り、
空が、濃い青に変わっていた。
最初の星が、一つだけ、
静かに光り始めていた。
セリアは立ち上がった。
「……では、使者の手配をします」
扉へ向かいかけて、一度だけ振り返った。
「エリシア殿下」
「はい」
「ひとつだけ」
セリアは、エリシアを見た。
「……お気をつけて」
エリシアは、静かに頷いた。
「ありがとうございます」
**
セリアが部屋を出た後。
しばらく、誰も言葉を発しなかった。
遼が、ゆっくりと息を吐く。
「……思ったより、ちゃんと話せたな」
「……そうですね」
エリシアも、力が抜けたように肩を落とした。
ミレイユが、静かに言った。
「お嬢様。少し、休んでください」
「……うん」
素直に頷いた。
**
廊下では。
レオンハルトとローデンが、
並んで壁にもたれていた。
「……終わったか」
「みたいじゃな」
レオンハルトが、天井を見上げる。
「嬢ちゃんの、あの顔……久しぶりに見たよ」
「どんな顔じゃ?」
「答えが出ないのに、
どっかで楽になってる、みたいな顔」
ローデンが、鼻を鳴らした。
「……ふん。
こっちの姫殿下も、大したものじゃ。
あの状況で、セリア将軍にそんな顔をさせるとは」
「あの娘はなんつーか……
ほっとけないんだろうなぁ」
レオンハルトが、苦く笑う。
「そういう人間が、一番厄介でよ。
最後まで、折れなかったりするんだ。
だから……
誰かが、止めてやらねぇと、な」
**
野営地の端にある、小さな天幕の中。
オルウェンは、ひとり、瞑目していた。
外から見れば、
信徒が祈りを捧げている様に見える。
だが、彼の脳内では、
別のことが考えられていた。
(……"捨てたくなかった"、か)
セリア将軍とエリシアが何を話したか、
オルウェンはおおよそ把握している。
情報を集めるのは、彼の習慣だ。
周りの人間の反応。ちょっとした噂話。
それだけで、おおよそ分かる。
オルウェンは、静かに息を吐いた。
(……計算が、一つ足りなかった)
オルウェンが見誤っていたのは、
エリシアの「捨てない」が、
単なる未熟さではないということだった。
世間知らずの理想だと思っていた。
孤立を深め、善意の鎖で縛れば、
いずれ削れると思っていた。
それが、削れない。
(あの、二人)
遼。ミレイユ。
あの二人の存在が、エリシアを象徴から、
人間に繋ぎ止めた。
最後には、“最も信頼できる将”と言われた、
セリア将軍でさえ、剣を下げた。
祈祷書の上で、指先が止まる。
帝都への使者が、今朝、出た。
つまり、皇帝との対話が、現実になる。
(……では、私に出来ることは何か)
オルウェンは考える。
民衆の声を束ね、形にすること。
帝都の外側から、皇帝の構造を揺さぶること。
エリシアが皇帝と向き合っている間、
世界が動いていることを示すこと。
(……それが、私の戦い方だ)
様々な状況を想定し、脳内で打算を組む。
オルウェンは、窓の外を見た。
青い旗が、朝風に揺れている。
あの旗を、見た時のことを思い出す。
あの時、オルウェンは思った。
これは、使える、と。
今もそう思っている。
(……ただ)
あの娘たちが進む先。
その景色を、見てみたい。
頭の片隅から、
その思いを消すことができなかった。
やがて。
「オルウェン司祭。
……ここにおられましたか。
祈りの時間になりましたので、ご足労願えますか?」
兵士の一人が、時刻通りに
オルウェンに声をかける。
「……ええ。勿論です」
促しに、微笑み返す。
その笑顔は、いつも通り完璧だった。