救えなかった手と、それでも伸ばした手 ~元自衛官が行く、異世界戦記~ 作:ホビット
セリアとの一騎打ちから、
三日が経った。
アイゲンシルト城塞の内部は、
静かな緊張に満ちていた。
死傷者の収容。
武器の整理。
食料の再配分。
戦いの後の作業は、
どれも地味で、重い。
遼は、倉庫の端に立ち、
積み上げられた補給物資の目録を確認していた。
矢。薬草。
保存食。馬の飼葉。
数字を追いながら、
頭の別の部分で考えていた。
(……帝都、か。
いったい、どんな場所なんだ)
手を動かしていると、
ローデンが、羊皮紙を広げて近づいてきた。
「リョウ。最新の情報じゃ」
地図の上に、数本の線が引き足されていた。
「セリア将軍側の協力で、
補給路が三本、判明しておる」
「どれが一番安全だ」
遼の問いに、
渋い顔でローデンが答える。
「安全、という言葉が通じる道は、
一本もない」
遼は、地図を見た。
帝都オルドハルト。
大陸の中央。
帝国の心臓部。
「……東回りは?」
「山越えが二箇所ある。
今の時期は雪が残っておるだろう」
「南は」
「帝国軍の補給路と重なっておる。
セリア将軍の停戦は効いておるが、
完全に安全とは言えん」
「中央街道は」
「最短じゃ。ただし……」
ローデンは、地図の一点を指で叩いた。
「ここに、帝国の通行門がある。
規模は小さいが、無視はできん」
遼は、眉をひそめた。
(……どれも一長一短だな)
「もう少し考える。
ローデン、これ借りていいか」
「構わんぞ」
ローデンから地図を受け取り、
もう一度、目録に視線を落とす。
一息だけついた遼は、
再び、確認作業に戻った。
**
その夜。
遼は、机に地図を広げたまま、
作業を続けていた。
蝋燭の光が、羊皮紙に揺れる。
街道の線。関門の位置。
周辺の地形。季節の気候。
一つずつ確認していく。
その時、扉が小さくノックされた。
「……入っていいですか?」
エリシアの声だった。
「ああ」
扉が開き、エリシアが入ってきた。
手に、小さな椀を持っている。
「茶です。
ミレイユが、そろそろ寒くなる、と」
「助かる」
遼は椀を受け取り、地図の端に置く。
エリシアは、地図を見て、
遼の隣に、そっと座った。
「……帝都への、道ですか」
「ああ」
「遠いですね」
「遠い」
蝋燭の揺れる灯りが、
地図を見つめるエリシアの横顔を照らす。
地図には、様々なことが書いてあった。
遼が引いた線。
ローデンが記した注釈。
その先に、「オルドハルト」という文字がある。
小さな文字だった。
なのに、
その文字が、やけに重く見えた。
「……リョウ」
「なんだ」
「皇帝は、どんな人だと思いますか」
「……そうだな」
遼は顎に手を当て、少し考える。
「これまでの噂や、帝国兵を見た限りだと、
……正しい人、だと思う」
椅子に背をもたせかけ、
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「正しい?」
「ああ。
悪いとか、冷酷とか、そういうんじゃなくて。
……救えないことを、最初から知ってる人。
その上で、壊れない形を選んできた人」
エリシアは、確認するように、
遼の方へ顔を向ける。
「……だから、怖い?」
「だから厄介だ」
遼は、率直に言った。
「悪人なら、倒せばいい。
正しい人間と向き合うのは、
倒す、じゃなくて……別の何かが要る」
エリシアは、再び、
地図に視線を落とす。
「セリア将軍も……。
最初は、捨てたくなかったんだと思います」
「……そう、なのかな」
「でも、守るために、切り捨てることを選んだ」
「ああ」
「それは……間違いだったのでしょうか」
遼は、すぐには答えなかった。
椀を持ち上げ、中身を口に含ませる。
心地よい温かさが、口内に広がる。
飲み込むと、地図に目を向けながら、
呟いた。
「……間違いかどうかは、俺には分からない。
セリアが切り捨てた選択で、
死ななかった人もいる。
それは、本当のことだ」
「……はい」
「だから、俺には簡単に否定できない」
エリシアは、目を伏せる。
「でも」
遼は続けた。
「お前が逃げなかったことも、
本当のことだ」
部屋が静かになった。
また、蝋燭が、小さく揺れた。
「……皇帝の言葉が、正しかったら」
エリシアが、ぽつりと言った。
「どうするんですか」
「どうするって?」
「もし、皇帝と向き合って。
全部を救うことは出来ないと、
言われたら」
遼は、エリシアを見た。
その目は、怯えていなかった。
ただ、真剣に、答えを求めていた。
「……お前は、どうしたい?」
「分からないから、聞いています」
「俺も分からない」
「……そうですか」
「ただ」
遼は、少し考えてから言った。
「お前が、"分からないまま向き合う"ことから、
逃げ出してない。
それは、俺も、ミレイユも、分かってる」
エリシアが顔を上げた。
「それで、いいと思う。
少なくとも、俺は」
エリシアは、再び、地図を見た。
帝都の文字。
近づくにつれ、
どんどんリアルになってくる。
最初は、ただの「次の目標」だった。
辺境の村でガルドのことを聞いた時。
ルヴァンでレクトールと向き合った時。
セリアと剣を交えた時。
そのたびに、
帝都は少しずつ、遠い霞から、
確かな形に変わってきた。
そして今。
地図の上の文字ではなく。
そこに、誰かがいる。
(……皇帝)
会ったことはない。
顔も知らない。
それでも、その存在の重さが、
今夜初めて、胸の奥まで届いた気がした。
「……怖いんです」
エリシアが、小さく言った。
「怖い、ですよ。
当然でしょうか」
「当然だ」
「でも、逃げたいとは思わない。
それも、本当のことで」
「ああ」
「……矛盾してますね」
「別に」
遼は、地図に視線を戻した。
「怖いまま前に進むのが、
お前のやり方だろ。
最初の村からずっと、そうだったじゃないか」
エリシアは、少し黙った。
そして、弱く微笑み、呟くように言った。
「……そう、でしたね」
「だから……。今さら変えなくていい」
「はい」
静かな返事だった。
しばらく、二人は黙って地図を見ていた。
遼は、街道の線をなぞりながら、
頭の中で経路を組み直していた。
エリシアは、帝都の文字を見ながら、
何かを考えていた。
何を考えているかは、遼には分からない。
だが、それでいい、とも思う。
全部分かる必要はない。
エリシアと遼は、
蝋燭の明かりが燃え尽きるまで、
ただ、寄り添っていた。
**
翌朝。
眠りが浅かった遼は、
少し早起きをしてしまった。
気分転換のため外に出ると、
顔を洗うため、水場へ足を運んだ。
「……少し、寒いな」
外の空気はまだ冷えており、
足下の草には、朝露が残っている。
急ぎ気味で、井戸の滑車の綱を引く。
ロープが上がり、バケツに入った水を、
持ってきた桶に流し込む。
一息ついた遼が、
顔を洗おうと、
桶に手を伸ばし、覗き込んだ瞬間。
水面に揺れる自分の顔が、
なぜか、妹の顔と重なった。
結衣。
あの日、届かなかった手。
その重さは、ずっと、胸の奥にある。
救えなかったことは、変わらない。
だが。
エリシアに会った。
ミレイユに会った。
ローデンに会った。
ガルドを倒した。
レクトールに勝った。
オルウェンと話した。
セリアとの一騎打ちを見届けた。
それは、何かを意味しているのか、
遼にはまだ分からない。
(……それでも、ここまで来た)
バサバサッ!
「うおっ!」
唐突に、鳥が近くを横切った。
遼は驚いて、桶を慌てて持ち直す。
桶の水が、大きく波打ち、
水面に静寂が戻った後。
妹の顔は、もう映っていなかった。
遼は、一度だけ息を吐き、
バシャバシャと、乱暴に顔を洗った。
**
「リョウ」
背後から声がした。
振り向くと、ミレイユが立っていた。
朝の空気に、白い息が混じっている。
「朝食の準備が出来ています。
来ますか」
「ああ、行く」
遼は、平野へ、
最後にもう一度視線を向けた。
朝靄の向こう。
見えないが、確かにある帝都。
「……ミレイユ」
「なんですか」
「お前は、怖いか。
皇帝のところへ行くのが」
ミレイユは少し考えた。
「怖いです」
即答だった。
「ただ」
続ける。
「お嬢様が行くなら、
私は行きます。
それだけです」
「……シンプルだな」
「そう、ですか?」
ミレイユは、少し首を傾げ。
そして、静かに微笑んだ。
「私にとっては、
一番大事なことを選んでいるだけです」
**
朝食の席。
エリシアと遼とミレイユと、ローデン。
久しぶりに四人だけで、
ゆっくりと食べた。
大きな話はしなかった。
ローデンが昨夜の見回りで転んだ話。
ミレイユが干し肉の味について文句を言う話。
遼が地図の縮尺を読み間違えて恥をかいた話。
他愛のない話ばかりだった。
エリシアは、笑っていた。
作った笑顔ではなく、
力の抜けた笑顔だった。
**
食事の後、ローデンが席を立ちながら言った。
「明後日には出発できるじゃろう」
「そうですね」
「補給は問題ない。
セリア将軍側からも、通行の許可が取れた」
「ありがとうございます、ローデン」
ローデンは、ふふん、と鼻を鳴らした。
「礼はいらん。
わしは、ただやるべきことをやっておるだけじゃ」
そう言いながら、
その目は、どこか嬉しそうだった。
**
明後日。
帝都へ向けて、出発する。
その朝は、まだ来ていない。
だが遼は、
今日の朝食の席を見ながら、
静かに思う。
(……ここまで来た)
出発の朝が来れば、
また怖くなるだろう。
帝都が近づけば、
また迷うだろう。
皇帝と向き合えば、
答えが出ないまま立ち尽くすかもしれない。
それでも。
今この瞬間、
笑っているエリシアを見ながら、遼は思う。
逃げなくて、よかった。
それだけが、
今の遼に分かることの全てだった。
**
二日後の夜明け。
青い旗が、
朝風の中で、静かに揺れた。
旗が向く先。
帝都オルドハルトへ。
一行は、歩み出した。