救えなかった手と、それでも伸ばした手 ~元自衛官が行く、異世界戦記~   作:ホビット

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第三十章 秩序の街並み

 遼が最初に気づいたのは、

 「音がない」ということだった。 

 

 アイゲンシルトから、程近い草原。

 そこに駐留した王国軍は、

 丘を越えた瞬間、

 誰一人として言葉を発せなかった。

 

 地平の先に広がるのは、

 三層の円環から成る白い大都市

 ――帝都オルドハルト。

 

 装飾を削ぎ落とし、

 直線と角度のみで切り出された灰白色の巨躯は、

 都市というよりは巨大な「機構」のように見えた。

 

 放射状に伸びる道路。

 円環ごとに閉ざされた区画の壁。

 不満が一点に集中しないよう、

 意図的に分散され、整理された街区。

 

 ――完璧な、避難所だ。

 

 遼の喉の奥で、

 得体の知れない苦いものがせり上がった。

 

 自衛官時代、幾度となく地図の上に描き。

 

 しかし、

 現実には一度も間に合わせることができなかった、

 「誰も死なない場所」の設計図が、

 そこに完成された形で存在していた。

 

 正しい。

 恐ろしいほど、正しい。

 だからこそ、直視していられなかった。

 

「……なん、ですか。あれ」

 

 ミレイユの呟きに、遼は答えられなかった。

 

**

 

 王国軍の軍議幕舎は、熱を帯びていた。

 

 アイゲンシルトをセリアの停戦によって通り抜けたという事実は、

 若い騎士たちを増長させるに十分だった。

 

「今こそ、この勢いのまま帝都へ乗り込むべきです!」

「門を抜かれ、敵は動揺している!

 門を潜れば、民衆も我々の旗に呼応するはずだ!」

 

 拳を振り上げ、略図を叩く騎士たち。

 エリシアは上座で、その激論を静かに聞いていた。

 

「……皆様、お気持ちは痛いほど分かります」

 

 オルウェンが、慈愛に満ちた声で立ち上がる。

 

「ですが、少しだけ。

 想像してみてください。

 いま、我々が武力で帝都に攻め込めば、

 口さがない者たちは、こう言うでしょう。

 ――結局、玉座が欲しかっただけではないか、と」

 

 オルウェンの言葉に、

 さっきまでの熱気が急速に冷えていく。

 

「お主にしては、珍しい言い方じゃな」

 

 ローデンが、少しだけ興味深そうに呟く。

 その言葉に小さく返礼し、オルウェンは続ける。

 

「我々が掲げるのは、救済の旗です。

 帝都の民の平穏を壊すことは、

 姫殿下の本意では無い、と愚考しました」

 

 その言葉に、ローデンは鼻を鳴らした。

 

 オルウェンは、

 続けて、遼に視線を向ける。

 穏やかで、

 しかし、少しだけ試すような目線だった。

 

「リョウ殿、貴方はどう思われますか?」

「……正面から突っ込むのは、

 色んな意味でリスクが高すぎる」

 

 短く答えながら、

 遼は自分の言葉に居心地の悪さを覚えていた。

 

 自分の経験則が、

 オルウェンの正論を補強している。

 

 これで正しいのか。

 間違っていないが、

 それで終わっていいのか。

 

 遼の疑問に答えが出されぬまま、

 幕舎の議論はさらに続いた。

 

**

 

 エリシアが口を開いたのは、

 議論が一周したあとだった。

 

「……皆の意見は聞きました」

 

 声は静かだったが、

 瞳には、揺れが無い。

 

「帝都の民が何を思い、どう生きているのか。

 それを見ずに、この先の決断を下すことは不可能です。

 ……私自身が、中に入ります」

 

 幕舎が、一瞬で静まった。

 

 最初に動いたのはオルウェンだった。

 いつもの柔和な笑みを湛えたまま、

 しかし、今度は少しだけ前に踏み出す。

 

「……姫殿下」

 

 声のトーンは変わらない。

 だが、その一歩だけが、いつもと違った。

 

「潜入は、あまりに危険です。

 万一、姫殿下のお身元が知れれば、

 停戦の条件そのものが崩れかねません。

 この軍全体が、道を失う」

 

 正論。

 

 エリシアは一瞬だけ目を伏せ、

 しかしすぐに顔を上げた。

 

「分かっています」

「ならば」

「ええ。

 ……供として、

 ミレイユと遼を連れて行きます。

 これで、ご納得頂けますか」

 

 オルウェンは、エリシアをじっと見つめる。

 少しだけ、目が細められた。

 

 そして。

 

「……承知いたしました。

 出過ぎた発言、ご容赦ください」

 

 オルウェンは深く頭を下げる。

 

「いいえ。

 私の安全を配慮して頂いたと理解しています。

 その代わり、潜入するにあたり、

 司祭の手をお借りさせて頂いても良いでしょうか?」

「勿論でございます。

 姫殿下の、御心のままに」

 

 オルウェンは、頭を下げたまま、

 了承の返事をした。

 

 幕舎の空気が、静まりかえる。

 他に、反対の意見を言い出せる者はいなかった。

 

**

 

 潜入には、荷馬車の底を使った。

 

 オルウェンの手配した物資輸送の一便に、

 三人は積み荷の隙間に身を縮めて潜り込んだ。

 

 検問所は、二重三重の槍列だった。

 馬車が止まると、板一枚を隔てた真上から、

 帝国兵の無機質な声が落ちてきた。

 

「荷の確認だ。属州からの保存食か」

「はい。停戦のおかげで、ようやく運べましてな」

 

 ザシュッ!

 次の瞬間、

 石突で荷を叩く音が始まる。

 

 容赦のない突き方だった。

 遼は息を止め、全身を板に押しつける。

 

 隣でミレイユの指が、

 音もなく遼の腕を強く掴んだ。

 その指の力が、強い。

 

 遼は視線だけを横に向けた。

 ミレイユは前を向いたまま、表情一つ変えない。

 だが、掴んでいる手だけが、正直だった。

 

「……馬車から降りろ。積み荷を全部出せ」

 

 別の声が降ってきた。

 先ほどより若く、融通の利かない声だ。

 

 御者が愛想笑いで何か言っているが、声が遠い。

 遼は頭の中で素早く計算する。

 

 今すぐ動くか。動いてどこへ逃げる。

 この石畳の上で三人、武器もなく、逃げ場は――。

 

 遼が動きかけた、その時。

 腕を握られる感触が、強くなった。

 

 とっさに、ミレイユの方を見る。

 彼女は黙って、首を横に振った。

 

 すると。

 

「……ちっ、手間かけさせやがって」

 

 別の、より年嵩らしい声が割り込む。

 

「いいから通せ。

 この商会の荷は一昨日も通ってる。

 お前ら、そんなことも覚えられんのか?」

「しかし、規則では――」

「口答えするな、さっさとしろ」

 

 ピシャリと言い放つ声。

 

 その声に続いて、

 ブツブツと文句を呟く声とともに、

 重い閂が外れる鈍い音が響いた。

 

「通れ。第七区画へ直行しろ」

 

 御者は軽く礼を言うと、

 再び、馬車を進め始めた。

 

**

 

 馬車の荷の隙間から、

 遼は、流れていく帝都の街並みを眺めていた。

 

 板の隙間から、流れていく地面が見える。

 泥も埃も溜まっていない、白灰色の石畳。

 完璧に水平な路面。

 

 遼はその「正しさ」を肌に感じながら、

 なぜか妹の名前を思い出した。

 

 結衣。

 あの日、自分が守れなかった妹を、

 こういう「隙のない場所」に置いてやれたなら。

 

 何度、思っただろう。

 

 だが。

 

 ここにあるのは、

 その夢の成れの果てのようなものだった。

 

 ミレイユの手が、

 まだ遼の腕を掴んでいた。

 

 彼女は気づいていないのかもしれない。

 遼も、何も言わなかった。

 

 馬車の揺れの中で、

 ただその温度だけが、

 妙にはっきりと感じられた。

 

**

 

 オルドハルトの三層構造のうち、

 第二区画・市民区。

 

 検問を通過した三人は、

 身分を隠し、市街を歩いていた。

 

 石畳の街道には、

 落ち葉一つ溜まっておらず、

 等間隔に配置された排水溝からは、

 澄んだ水が音もなく流れている。

 

 街灯の配置に死角はなく、

 広場では、子供たちが、

 噴水の周りを無邪気に駆け回っていた。

 物乞いも、喧嘩も、崩れかけた建物も、ない。

 

(やっぱり、ここは)

「……リョウ、お嬢様。

 この街を、どう思いますか」

 

 ミレイユが、憂いに満ちた表情で、

 おずおずと口を開く。

 

「……私は。

 帝国も、帝都も。

 故郷を奪ったものが。

 大嫌い、でした。

 …………ですが」

 

 そこまで言い、目を伏せる。

 

 遼も、エリシアも、

 返す言葉を見つけらなかった。

 

 ――カラカラ、カラ。

 

 不意に、荷車の音が、

 舗装された道路の方から響いてきた。

 

 振り向くと、パンの屋台だった。

 

「旅の人かい。道にでも迷ったか?」

 

 荷車を引くパン屋の男が、

 愛想笑いで声をかけてきた。

 

 日に焼けた顔。分厚い手のひら。

 腰には、使い込まれたエプロンの紐が巻かれている。

 

「いや」

 遼は銀貨を差し出した。

 

「この街は、暮らしやすいか?」

「そりゃあな」

 

 男は銀貨を慣れた手つきで受け取り、

 少し胸を張った。

 

「最近は何かと物騒だが、

 陛下の代になってからは、特にな」

 

 焼きたてのパンを包みつつ、

 男は言葉を続ける。

 

「野盗に怯えることもなけりゃ、

 物価が跳ね上がることもねぇ。

 隣のセニアは、先月に息子を徴兵で取られたらしいが…。

 俺ぁ、今日も仕事ができて、客に売るパンがある。

 それだけで、十分に幸せだな」

「解放されたい、などとは、

 考えないのですか?」

 

 エリシアが、眉を下げながら、

 静かに問いを投げる。

 

 すると、男は困った子供を諭すような、

 微妙な笑顔を向け、答えた。

 

「噂の王女様とやらが、

 税金を半分にしてくれる、ってぇなら、

 そうかもしれねぇがな?」

 

 冗談めかした口調で続ける。

 

「けどな、お嬢さん。

 王国軍が来たあと、

 今の日常が続く保証はないだろ?

 俺たちゃあ、難しいことは分からねぇ。

 そんなことより、

 今日の稼ぎを考えるだけで精一杯なのさ」

 

「それに、さっきも言ったが。

 陛下の代になってから、随分と暮らしやすくなったしな。

 今以上の贅沢を望んだら、バチが当たるってもんよ」

 

 愛想よくパンを手渡しながら、

 男は最後に付け加えた。

 

「お嬢さんにゃあ、まだ難しい話かもしれないがな。

 ……毎度あり!」

 

**

 

 荷車を押す男の背中を眺めながら、

 エリシアは、動けなかった。

 

 ――シャー、と。

 噴水の水音が不意に耳へ届いたのと同時に、

 広場の喧騒が戻ってきた。

 

 子供の笑い声。噴水の水音。

 整然と続く、誰も苦しんでいない日常。

 手の中の、焼きたてのパンの香り。

 

 ふと、エリシアの視線が、噴水の水面に落ちた。

 揺れながら映っているのは、自分の顔だ。

 

 青い旗を手にした、亡国の王女の顔。

 水面がわずかに揺れ、その像が崩れて、また戻る。

 

 遼は、エリシアの横顔を見た。

 何も言わなかった。言う必要もなかった。

 少し後ろでミレイユも、同じようにエリシアを見ていた。

 しかし何かに気づいたように視線をずらし、今度は水面を見た。

 

 水面には三人分の輪郭が、ぼんやりと映っている。

 誰も、口を開かなかった。

 

**

 

 日が傾き始めた頃。

 

 潜伏先の倉庫へ戻る路地の角で、

 遼は足を止めた。

 

 市民区の壁の向こう、第二環の軍事区がわずかに見える。

 その石壁の上に、人影があった。

 

 黒い外套を纏った、長身の影。

 こちらを見ていない。

 ただ市民区の全体を、一枚の地図を確認するように、

 静かに見下ろしていた。

 

 数秒で、人影は消えた。

 

 何でもないことかもしれない。

 だが遼は、自分たちがすでに「見られている」という

 可能性を頭から追い払えなかった。

 

「……行くぞ」

 

 低く言って、歩き出す。

 ミレイユとエリシアが、音もなく続いた。

 

 三人分の足音が、石畳に吸い込まれていく。

 

 空には、二つの月が出始めていた。

 帝都の整然とした街並みを、不気味なほど均等に照らしながら。

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