救えなかった手と、それでも伸ばした手 ~元自衛官が行く、異世界戦記~ 作:ホビット
遼が最初に気づいたのは、
「音がない」ということだった。
アイゲンシルトから、程近い草原。
そこに駐留した王国軍は、
丘を越えた瞬間、
誰一人として言葉を発せなかった。
地平の先に広がるのは、
三層の円環から成る白い大都市
――帝都オルドハルト。
装飾を削ぎ落とし、
直線と角度のみで切り出された灰白色の巨躯は、
都市というよりは巨大な「機構」のように見えた。
放射状に伸びる道路。
円環ごとに閉ざされた区画の壁。
不満が一点に集中しないよう、
意図的に分散され、整理された街区。
――完璧な、避難所だ。
遼の喉の奥で、
得体の知れない苦いものがせり上がった。
自衛官時代、幾度となく地図の上に描き。
しかし、
現実には一度も間に合わせることができなかった、
「誰も死なない場所」の設計図が、
そこに完成された形で存在していた。
正しい。
恐ろしいほど、正しい。
だからこそ、直視していられなかった。
「……なん、ですか。あれ」
ミレイユの呟きに、遼は答えられなかった。
**
王国軍の軍議幕舎は、熱を帯びていた。
アイゲンシルトをセリアの停戦によって通り抜けたという事実は、
若い騎士たちを増長させるに十分だった。
「今こそ、この勢いのまま帝都へ乗り込むべきです!」
「門を抜かれ、敵は動揺している!
門を潜れば、民衆も我々の旗に呼応するはずだ!」
拳を振り上げ、略図を叩く騎士たち。
エリシアは上座で、その激論を静かに聞いていた。
「……皆様、お気持ちは痛いほど分かります」
オルウェンが、慈愛に満ちた声で立ち上がる。
「ですが、少しだけ。
想像してみてください。
いま、我々が武力で帝都に攻め込めば、
口さがない者たちは、こう言うでしょう。
――結局、玉座が欲しかっただけではないか、と」
オルウェンの言葉に、
さっきまでの熱気が急速に冷えていく。
「お主にしては、珍しい言い方じゃな」
ローデンが、少しだけ興味深そうに呟く。
その言葉に小さく返礼し、オルウェンは続ける。
「我々が掲げるのは、救済の旗です。
帝都の民の平穏を壊すことは、
姫殿下の本意では無い、と愚考しました」
その言葉に、ローデンは鼻を鳴らした。
オルウェンは、
続けて、遼に視線を向ける。
穏やかで、
しかし、少しだけ試すような目線だった。
「リョウ殿、貴方はどう思われますか?」
「……正面から突っ込むのは、
色んな意味でリスクが高すぎる」
短く答えながら、
遼は自分の言葉に居心地の悪さを覚えていた。
自分の経験則が、
オルウェンの正論を補強している。
これで正しいのか。
間違っていないが、
それで終わっていいのか。
遼の疑問に答えが出されぬまま、
幕舎の議論はさらに続いた。
**
エリシアが口を開いたのは、
議論が一周したあとだった。
「……皆の意見は聞きました」
声は静かだったが、
瞳には、揺れが無い。
「帝都の民が何を思い、どう生きているのか。
それを見ずに、この先の決断を下すことは不可能です。
……私自身が、中に入ります」
幕舎が、一瞬で静まった。
最初に動いたのはオルウェンだった。
いつもの柔和な笑みを湛えたまま、
しかし、今度は少しだけ前に踏み出す。
「……姫殿下」
声のトーンは変わらない。
だが、その一歩だけが、いつもと違った。
「潜入は、あまりに危険です。
万一、姫殿下のお身元が知れれば、
停戦の条件そのものが崩れかねません。
この軍全体が、道を失う」
正論。
エリシアは一瞬だけ目を伏せ、
しかしすぐに顔を上げた。
「分かっています」
「ならば」
「ええ。
……供として、
ミレイユと遼を連れて行きます。
これで、ご納得頂けますか」
オルウェンは、エリシアをじっと見つめる。
少しだけ、目が細められた。
そして。
「……承知いたしました。
出過ぎた発言、ご容赦ください」
オルウェンは深く頭を下げる。
「いいえ。
私の安全を配慮して頂いたと理解しています。
その代わり、潜入するにあたり、
司祭の手をお借りさせて頂いても良いでしょうか?」
「勿論でございます。
姫殿下の、御心のままに」
オルウェンは、頭を下げたまま、
了承の返事をした。
幕舎の空気が、静まりかえる。
他に、反対の意見を言い出せる者はいなかった。
**
潜入には、荷馬車の底を使った。
オルウェンの手配した物資輸送の一便に、
三人は積み荷の隙間に身を縮めて潜り込んだ。
検問所は、二重三重の槍列だった。
馬車が止まると、板一枚を隔てた真上から、
帝国兵の無機質な声が落ちてきた。
「荷の確認だ。属州からの保存食か」
「はい。停戦のおかげで、ようやく運べましてな」
ザシュッ!
次の瞬間、
石突で荷を叩く音が始まる。
容赦のない突き方だった。
遼は息を止め、全身を板に押しつける。
隣でミレイユの指が、
音もなく遼の腕を強く掴んだ。
その指の力が、強い。
遼は視線だけを横に向けた。
ミレイユは前を向いたまま、表情一つ変えない。
だが、掴んでいる手だけが、正直だった。
「……馬車から降りろ。積み荷を全部出せ」
別の声が降ってきた。
先ほどより若く、融通の利かない声だ。
御者が愛想笑いで何か言っているが、声が遠い。
遼は頭の中で素早く計算する。
今すぐ動くか。動いてどこへ逃げる。
この石畳の上で三人、武器もなく、逃げ場は――。
遼が動きかけた、その時。
腕を握られる感触が、強くなった。
とっさに、ミレイユの方を見る。
彼女は黙って、首を横に振った。
すると。
「……ちっ、手間かけさせやがって」
別の、より年嵩らしい声が割り込む。
「いいから通せ。
この商会の荷は一昨日も通ってる。
お前ら、そんなことも覚えられんのか?」
「しかし、規則では――」
「口答えするな、さっさとしろ」
ピシャリと言い放つ声。
その声に続いて、
ブツブツと文句を呟く声とともに、
重い閂が外れる鈍い音が響いた。
「通れ。第七区画へ直行しろ」
御者は軽く礼を言うと、
再び、馬車を進め始めた。
**
馬車の荷の隙間から、
遼は、流れていく帝都の街並みを眺めていた。
板の隙間から、流れていく地面が見える。
泥も埃も溜まっていない、白灰色の石畳。
完璧に水平な路面。
遼はその「正しさ」を肌に感じながら、
なぜか妹の名前を思い出した。
結衣。
あの日、自分が守れなかった妹を、
こういう「隙のない場所」に置いてやれたなら。
何度、思っただろう。
だが。
ここにあるのは、
その夢の成れの果てのようなものだった。
ミレイユの手が、
まだ遼の腕を掴んでいた。
彼女は気づいていないのかもしれない。
遼も、何も言わなかった。
馬車の揺れの中で、
ただその温度だけが、
妙にはっきりと感じられた。
**
オルドハルトの三層構造のうち、
第二区画・市民区。
検問を通過した三人は、
身分を隠し、市街を歩いていた。
石畳の街道には、
落ち葉一つ溜まっておらず、
等間隔に配置された排水溝からは、
澄んだ水が音もなく流れている。
街灯の配置に死角はなく、
広場では、子供たちが、
噴水の周りを無邪気に駆け回っていた。
物乞いも、喧嘩も、崩れかけた建物も、ない。
(やっぱり、ここは)
「……リョウ、お嬢様。
この街を、どう思いますか」
ミレイユが、憂いに満ちた表情で、
おずおずと口を開く。
「……私は。
帝国も、帝都も。
故郷を奪ったものが。
大嫌い、でした。
…………ですが」
そこまで言い、目を伏せる。
遼も、エリシアも、
返す言葉を見つけらなかった。
――カラカラ、カラ。
不意に、荷車の音が、
舗装された道路の方から響いてきた。
振り向くと、パンの屋台だった。
「旅の人かい。道にでも迷ったか?」
荷車を引くパン屋の男が、
愛想笑いで声をかけてきた。
日に焼けた顔。分厚い手のひら。
腰には、使い込まれたエプロンの紐が巻かれている。
「いや」
遼は銀貨を差し出した。
「この街は、暮らしやすいか?」
「そりゃあな」
男は銀貨を慣れた手つきで受け取り、
少し胸を張った。
「最近は何かと物騒だが、
陛下の代になってからは、特にな」
焼きたてのパンを包みつつ、
男は言葉を続ける。
「野盗に怯えることもなけりゃ、
物価が跳ね上がることもねぇ。
隣のセニアは、先月に息子を徴兵で取られたらしいが…。
俺ぁ、今日も仕事ができて、客に売るパンがある。
それだけで、十分に幸せだな」
「解放されたい、などとは、
考えないのですか?」
エリシアが、眉を下げながら、
静かに問いを投げる。
すると、男は困った子供を諭すような、
微妙な笑顔を向け、答えた。
「噂の王女様とやらが、
税金を半分にしてくれる、ってぇなら、
そうかもしれねぇがな?」
冗談めかした口調で続ける。
「けどな、お嬢さん。
王国軍が来たあと、
今の日常が続く保証はないだろ?
俺たちゃあ、難しいことは分からねぇ。
そんなことより、
今日の稼ぎを考えるだけで精一杯なのさ」
「それに、さっきも言ったが。
陛下の代になってから、随分と暮らしやすくなったしな。
今以上の贅沢を望んだら、バチが当たるってもんよ」
愛想よくパンを手渡しながら、
男は最後に付け加えた。
「お嬢さんにゃあ、まだ難しい話かもしれないがな。
……毎度あり!」
**
荷車を押す男の背中を眺めながら、
エリシアは、動けなかった。
――シャー、と。
噴水の水音が不意に耳へ届いたのと同時に、
広場の喧騒が戻ってきた。
子供の笑い声。噴水の水音。
整然と続く、誰も苦しんでいない日常。
手の中の、焼きたてのパンの香り。
ふと、エリシアの視線が、噴水の水面に落ちた。
揺れながら映っているのは、自分の顔だ。
青い旗を手にした、亡国の王女の顔。
水面がわずかに揺れ、その像が崩れて、また戻る。
遼は、エリシアの横顔を見た。
何も言わなかった。言う必要もなかった。
少し後ろでミレイユも、同じようにエリシアを見ていた。
しかし何かに気づいたように視線をずらし、今度は水面を見た。
水面には三人分の輪郭が、ぼんやりと映っている。
誰も、口を開かなかった。
**
日が傾き始めた頃。
潜伏先の倉庫へ戻る路地の角で、
遼は足を止めた。
市民区の壁の向こう、第二環の軍事区がわずかに見える。
その石壁の上に、人影があった。
黒い外套を纏った、長身の影。
こちらを見ていない。
ただ市民区の全体を、一枚の地図を確認するように、
静かに見下ろしていた。
数秒で、人影は消えた。
何でもないことかもしれない。
だが遼は、自分たちがすでに「見られている」という
可能性を頭から追い払えなかった。
「……行くぞ」
低く言って、歩き出す。
ミレイユとエリシアが、音もなく続いた。
三人分の足音が、石畳に吸い込まれていく。
空には、二つの月が出始めていた。
帝都の整然とした街並みを、不気味なほど均等に照らしながら。