救えなかった手と、それでも伸ばした手 ~元自衛官が行く、異世界戦記~   作:ホビット

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第三十一章 統治の歪み

 帝都オルドハルトの外周部。

 

 都市の外から運び込まれた物資は、

 三層構造の外側にある、

 この倉庫地区に積み込まれる。

 

 昼間は、

 積み込みの為の大声が、

 あちこちから聞こえて来る、この場所。

 

 夜になったいま、

 そこは、シンと静まりかえっていた。

 

 たまに、鼠や野良猫のような、

 小さな動物たちの動く影が、

 月明りの地面に映っている。

 

 その中にある、大きな木箱の一つ。

 

 埃っぽい空気の中で、

 遼、エリシア、ミレイユの3人は、

 静かに息を潜めていた。

  

**

 

(……あの影。

 ただの思い過ごしなら良いけど。

 もう見張っていないとは、限らない)

 

 遼は、木箱の隙間から、

 外の様子を伺っていた。

 

 空には、月が2つ、

 雲の切れ目に浮かんでいる。

 

「……そろそろ、時間のはずだ」

 

 この世界では、

 月同士の間隔から、

 ある程度の時間を測ることが出来る。

 

 遼の呟きに、ミレイユも小さく頷き、

 そっと、エリシアの肩に手を置いた。

 

「ええ。

 ……お嬢様。どうか、もう少しだけご辛抱を」

 

「ありがとう、ミレイユ。

 ……迎えは、心配していません。

 ……ただ」

 

(市街で話した、パン屋のおじさん。

 それに、帝都の子どもたちの表情)

 

 エリシアは、木箱の中、

 暗闇に視線を落としながら、

 消え入る様に言った。

 

「……ただ。帝都の暮らしを見て。

 私のやっていることは、正しかったのか、と」

 

「エリシア」

 

 遼が、

 少しだけ声を張る。

 硬い、声だった。

 

「今は脱出に専念しよう。

 考えるのは、いったん後回しだ。

 ……声を上げて、バレたらまずい」

 

 エリシアは、

 なにか口を開きかけて。

 

 小さく息を吐くと、口を閉じた。

 

 そして、木箱の天井を見上げ、

 隙間の月を、ただ黙って眺め始めた。

 

「……」

 

 ミレイユもそれに倣い、

 目を閉じ、静かに佇んだ。

 

 この時。

 暗闇の中で。

 

 遼の背中が、

 微かに震えていることに、

 二人は気づいていなかった。

 

**

 

 しばらくして。

 

 トン、トン、トン。

 バンバン!

 トントン。

 

 事前の合図通り、木箱が叩かれる。

 

 遼たちが箱から顔を出すと、

 市民の恰好をした、数人の男の姿が目に入った。

 

「オルウェン司祭に依頼されました。

 さぁ、こちらです」

 

 必要最低限。

 言葉少なく、男たちは案内を始めた。

 

 エリシアたちは、

 黙って案内に従った。

 

 その中で。

 

 遼は、帝都の方を、

 一度だけ振り返る。

 

 夜闇の中、帝都の灯りは、

 規則正しく並んでいた。

 

**

 

 3人は、

 人目を避けつつ、深夜に帰陣した。

 

 帰るころには、

 足取りも重くなっていた。

 

 王国軍の天幕には、

 まだ松明が焚かれている。

 

 入口では、

 オルウェンが出迎えしてくれた。

 

「姫殿下。それにお二人も。

 よくぞ、ご無事で戻られました。

 ……皆様、お疲れでしょう。

 まずは、帰ってお休みされるのが宜しいかと」

 

 普段より、柔らかい声。

 エリシアたちの手荷物を受け取りながら、

 オルウェンは提案した。

 

「そう、ですね。

 遼、ミレイユ。今日は、お疲れ様でした」

「ああ。……悪いけど、俺も横になる」

「おそばに居る事が、私の役目ですから。

 お嬢様こそ、お早めにお休みください」

 

 遼は、軽く伸びをして。

 ミレイユは、恭しく礼をして。

 

 それぞれ、天幕の中に戻っていった。

 

「……私も、寝ないと」

 

 エリシアは、一言だけ呟く。

 

 遠く見える、オルドハルトは、

 王国軍の陣地を見下ろすように、

 煌々と規則正しい灯りを照らしている。

 

 あの灯りの下で、寝ている人々もいる。

 だけど、今日は眠れそうにもない。

 

 エリシアの夜は、長くなりそうだった。

 

**

 

 翌朝。

 

 王国軍の陣前には、

 見慣れない馬車が停められていた。

 

 困惑しつつ、兵士が応対すると、

 中から現れたのは、初老の男だった。

 

 杖をついてはいるが、背筋はピンと伸びている。

 服装も華美では無いが、皺ひとつない。

 

「私は、皇帝陛下の使いとして参りました。

 内務大臣の職を務めている、

 クラウス・シューベルト、という者です」

 

「此度は、陛下の勅命により、

 エリシア殿下への使者として参上しました。

 急な来訪となり大変恐縮ですが、

 どうか、お目通り願いたい」

 

 思いがけない大物の登場に、

 兵士たちがざわめく。

 

 クラウスは、

 モノクルから、その様子を鋭く観察していた。

 

**

 

 仮設された天幕の中。

 

 急遽、

 会談のために作られた場で、

 エリシアたちはクラウスと、

 卓を囲んで向かい合っていた。

 

「エリシア殿下。

 まずは、急な来訪にも関わらずご対応頂き、

 誠に感謝いたします」

 

 クラウスは起立し、謝罪の言葉を述べる。

 

 胸に手をつき、腰を折り曲げているが、

 堂々とした態度だった。

 

「はい。

 ……それよりも、内務大臣、でしたか。

 そのような、お忙しい方が、

 何故、急な来訪を?」

 

 クラウスの謝罪を受け入れたエリシアは、

 単刀直入に真意を聞いた。

 

 クラウスは着席すると、

 1枚の羊皮紙を懐から取り出す。

 

 白に近い厚手の羊皮紙。

 黒紐で巻かれ、

 留め具には、深紅の封蝋。

 

 見るからに上質なそれを卓上に広げ、

 自身の訪問について説明した。

 

「私は、陛下からの勅命で、

 あなた方のところへ伺わせて頂きました。

 こちらが、陛下からの親書です。

 ……どうぞ、お改めください」

 

 ――皇帝からの親書。

 その言葉に、身体を硬くしながら、

 エリシアは受け取り、中身に目を通す。

 

(敵のトップからの手紙。

 ……いったい、どんな内容なんだ…?)

 

 遼も、眉根を寄せる。

 

 しばらく、

 エリシアが羊皮紙をめくる、

 パラリという音だけが、天幕の中に包まれた。

 

 やがて。

 

 目を通し終わったエリシアが、

 戸惑いながらも、口を開いた。

 

「……会談のお誘い、ですか。

 場所は、郊外の教会」

「はい。

 使者として、私もおおまかな内容は、

 陛下から伺わせて頂いております。

 お互いに、最低限の護衛で立ち合い、

 教会の中では非武装で、との仰せです」

「罠じゃ、ないんだろうな?」

 

 思わず、遼の口から声が出た。

 

 ミレイユが、ジロリ、と

 窘めるように遼を見る。

 

 遼は己の失態に気付くと、

 慌ててクラウスに頭を下げた。

 

「申し訳ない。失礼な物言いだった」

「いいえ。

 ――あなたは、リョウ殿ですね。

 我が国の精鋭を倒した英雄、ですとか。

 そのようなお方であれば、

 ご懸念は正しいかと存じます」

 

 遼の呟きにも動じず、

 クラウスの視線が遼を射抜いた。

 

 モノクル越しに、

 遼を品定めするような目線。

 

 失言を放ってしまった気まずさと、

 見つめられる心地の悪さから、

 遼は、目線を逸らす。

 

「クラウス閣下。

 あまり、私の仲間を、

 じろじろと見ないで頂けますか?」

 

 エリシアが、硬い声で遮った。

 

「……ふむ。

 若き英雄に、私も思わず、

 興味が湧いてしまいました。

 リョウ殿、不躾な態度を謝罪いたします」

 

 クラウスは、向き直ると、

 軽く頭を下げた。

 

「……いえ。

 余計なことを言ったのは、俺の方でしたから。

 お相子、ということにしてください」

 

 遼は、軽く手を振った。

 

「分かりました。

 寛大な対応、ありがとうございます」

 

 クラウスは謝辞を受け取ると、

 改めて、エリシアに向き直る。

 

 そして、

 毅然とした態度で伝えた。

 

「罠についてですが。

 陛下は、帝都に無駄な血を流さない。

 ……セリア将軍、あなたも、よくご存じでしょう」

 

 天幕の片隅。

 これまで、ただじっと沈黙していた、

 白銀の降将に向けて、クラウスの言葉が放たれた。

 

「……そうですね。

 騙し討ちでエリシア殿下を殺せば、

 この軍は怒りに任せ、帝都に雪崩れ込む。

 それを、陛下は望まないでしょう」

 

 セリアは少しだけ意見を述べると、

 また瞑目し、口を閉じた。

 

 やや、気まずい沈黙が落ちる。

 

「あなた方も、昨日は帝都をご覧になったでしょう。

 陛下は、帝都の民の生活を、第一に考えておられます」

 

 ―-やはり、見られていた。

 クラウスの言葉で、

 エリシアの表情に、僅かに緊張が走る。

 

 それを振り払うように、

 エリシアは、オルウェンに意見を募った。

 

「オルウェン司祭。

 あなたのご意見はどうでしょう?」

 

「……おおむね。

 クラウス閣下と、セリア将軍の仰る通りです。

 ただ、私としましては、

 姫殿下の身の安全。それだけが、心配です」

 

 司祭の意見も、同意するものだった。

 

 エリシアは、最後に、

 遼とミレイユの顔を見る。

 

「……二人は、どう、思いますか」

 

「私は、少しだけ、怖いです」

 

 ミレイユが、目を伏せながら呟いた。

 

「私の帰る場所は、二度も失った。

 ……その、相手ですから」

 

 ミレイユの声は少しだけ震え、

 視線は腰の短剣に落ちていた。

 

「……ですが。

 お嬢様の思う通りにすれば良い。

 ……今までも、これからも。

 私は、それで十分です」

 

 ミレイユが言い切った後、

 数瞬の間、天幕の空気が静かになる。

 

「俺は……皇帝に、会ってみたい」

 

 遼の言葉が、部屋の静寂に落ちた。

 

「直接話してみることで、

 何か、分かるかもしれない」

 

 遼は、

 机に広げられた羊皮紙を見つめつつ、

 どこか、遠くを見る様に続けた。

 

 エリシアは、少しだけ目を瞑りながら、

 二人の意見を静かに聞いていた。

 

 やがて。

 

「……わかりました。

 その条件で、会談をお受けいたします」

 

 その言葉を受けて、

 クラウスは、エリシアに深々と頭を下げた。

 

「ご快諾、ありがとうございます。

 ……これで、陛下への務めを果たせます」

 

**

 

 その日の夕方。

 

 遼たちは、予定よりも早く、

 指定された場所を訪れていた。

 

 帝都の三層の、更に外周。

 森の中の、小さな教会だった。

 

 古い、石造りで出来た小さな建物。

 ステンドグラスの一部は割れ、

 石壁の一部は、苔むした緑が覆っている。

 

 中の聖堂では、

 大きめのテーブルだけが、

 存在感を出していた。

 

 トップ同士の会談というには、

 あまりに不釣り合い。

 

 どちらかというと、

 寂れた村に、ポツンと佇んでいる。

 そんな雰囲気の場所だった。

 

「ミレイユ。そっちはどうだ」

「はい。

 ……セリア将軍の言っていた通り、

 罠の様なものは、見当たりません」

 

 遼は、ミレイユと協力し、

 念のため会場周辺を調べていたが、

 杞憂に終わっていた。

 

(安全が確保されているのは良いんだが……

 真正面から話し合う、か)

 

 遼は、消化不良の思いを抱いたまま、

 チラリ、とエリシアの方を見る。

 

 彼女も、緊張した面持ちで、

 拳を握りしめていた。

 

**

 

 しばらくして。

 

 ――パカラッ、パカラッ。

 

 遠くから、整然とした馬の足音が

 だんだん近づいてくる。

 

 教会の前の林道に目を凝らすと、

 1台の馬車が見えた。

 

「……」

 

 三人の間を、沈黙が落ちる。

 誰も、何も言えなかった。

 

 やがて。

 

 馬車は、教会の前に停まる。

 

 御者が、手際よく絨毯を教会まで敷く。

 従者の一人が、扉に手をかけると、

 他の従者たちが一斉に整列し、頭を垂れた。

 

 そして。

 ドアが開かれ、中から人影が降りてきた。

 

 年齢は、40~50ほど。

 髪は黒く、一部に白髪が混じっている。

 長身痩躯の身体に、華美さを排した、

 どこか儀礼的な黒衣を纏っている。

 

 足取りは、ゆっくり。

 しかし、はっきりとした歩き方。

 

 表情は、落ち着いている。

 威圧的でも、感情的でもない。

 

 何より特徴的だったのが、

 彼の目だった。

 

 こちらを見ているようで、見ていない。

 近くを見つめている様で、遠くを眺めている。

 

 そんな、矛盾した眼差しが、

 静かな迫力となり、物理的な重みを感じさせた。

 

「……待たせた。

 余が、カルビナ帝国皇帝。

 ゲオルグ・フォン・カルビナ3世。その人である」

 

 低く、全員に行き渡るような声が、

 古教会前の広場に響いた。

 

 遼も、自然と頭が垂れそうになる。

 なんとか堪えていると、エリシアが口を開いた。

 

 その表情は、

 泣いているような、

 怒っているような、

 何かを耐えているような。

 

 複雑な、表情だった。

 

「……あなたが、皇帝」

「アルディア王家の娘よ。

 余への言い分は、あるだろう。

 ……まずは、中で話すとせぬか」

 

 落ち着いた返答。

 

 その態度に、

 エリシアは、激発しそうになった。

 

 だが。

 

 ミレイユが、そっと。

 エリシアの手を、引いていた。

 

 ミレイユの表情も、

 憂いに満ちている。

 

 それでも止めてくれたことに、

 エリシアは内心で感謝すると、

 一息ついた後、皇帝に返した。

 

「……分かりました。

 まずは、中へ入りましょう」

「良い、従者を持ったな」

 

 皇帝は、一言だけ言い切り、

 中へ入っていった。

 

「……ッ!」

 

 また、反射的に沸騰する心を無理やり沈め、

 エリシアは、皇帝に続いた。

 

**

 

 教会の中の大きなテーブルに、

 エリシアと、皇帝は向かい合っていた。

 

 日は沈み、

 月光と僅かな蝋燭の明かりだけが、

 部屋の中を照らしている。

 

 最初に口火を切ったのは、

 エリシアの方だった。

 

「皇帝陛下。

 あなたは、無駄な流血を望まない。

 そう、伺いました。

 ……アイゲンシルトは落ち、

 いまや趨勢は決しています。

 ご決断を、頂けないでしょうか」

 

 遼は、目を見開いた。

 

 エリシアは、

 どんな相手だろうと、

 まずは尊重から入る。

 

 なのに、いきなり、

 ここまで強硬な姿勢を示すのは、

 初めてだった。

 

(……いきなりかよ)

 

 遼は、不安げに、

 皇帝の表情を伺う。

 

 だが、皇帝は、

 特に気分を害した様子も無かった。

 

「……降伏、か。

 確かに“帝都の盾”は剥がれ、

 貴様らの軍は目前。

 帝都の民を思うならば、

 降伏の選択肢も、視野に入れねばならぬ」

 

 静かに。

 ただ、淡々と。

 

 皇帝は、自分の国の話を、

 どこか他人事のように口にした。

 

 ――堪らず。

 

 バンッ!!

 エリシアは、机に手を叩きつける。

 

「だったら!!

 そこまで理解しているならーー」

 

「だが」

 

 エリシアの言葉を、

 皇帝の低い声が、途中で遮った。

 

 部屋の空気が、

 一瞬にして冷える。

 

「人を統べる者として。

 ――資質を、見極める必要がある」

 

「……見極める?」

 

 エリシアの戸惑いの声は、

 震えていた。

 

 しかし、

 皇帝は、意に介さず、

 懐から小さなパンを取り出した。

 

「……ここに、ひとつのパンがある」

 

 机の上のパンを見つめながら、

 皇帝は静かに語りはじめた。

 

「一人の父が、

 腹を空かせた子のために、これを取る。

 ――父親としての責任だ」

 

 パンを、遼の前に置く。

 

「商人が、より高く買う者へ、これを売る。

 その結果、富が生まれ、家族に裕福な暮らしを与える。

 ――商人としての責任だ」

 

 パンを、ミレイユの前に置く。

 

「国家が、飢えた難民のため、これを徴発する。

 そうすれば、より多くの命が繋がれる。

 ――国家としての責任だ」

 

 パンを、エリシアの前に置く。

 

 天井から漏れる月明かりが、

 皇帝の顔に差し込む。

 

 皇帝は目線を上げ、

 三人の顔を順番に射抜いた。

 

「さて。このパンは、誰のものだ」

 

 突き付けられた、パンに。

 誰も、言葉を発せなかった。

 

「答えられないのは、当然だ」

 

 皇帝は続ける。

 声に、感情はない。

 

「父が正しく、商人が正しく、国家が正しい。

 三つの正しさが、一つのパンを奪い合う。

 ――これは、人が人として生きる限り、抗えぬ」

 

 厳然と。

 ただ、事実を置くように、言い切った。

 

 皇帝は、更に続ける。

 

「そして更に。

 このパンは、飢えた獣にも狙われる。

 ――獣の名は、周辺諸国」

 

「獣からパンを守るため、国家は軍を作る。

 すると、軍を養うため、

 さらに多くのパンを民たちから取り上げる。

 ――そして、民は疲弊し、隣国を羨み、

 国家はやがて、獣に堕ちる」

 

「誰かが悪いのではない。

 ……人とは、そういうものなのだ」

 

 皇帝が言い切ると、

 部屋に重苦しい沈黙が落ちた。

 

 空の月が、雲で陰る。

 部屋の明かりは、

 蝋燭の、か細い橙色の炎だけになった。

 

 影が揺れる中、

 エリシアが、なんとか、

 震える声で、口を開いた。

 

「……それでも。

 それでも、大切な誰かを、救うことは出来ます」

「そうだ」

 

 皇帝は即答し、

 ここにきて、初めてニヤリと笑った。

 

 遼は、笑顔を見たのにも関わらず、

 ゾクリと、背中に冷たいものが走った。

 

「お前の言う通り、

 目の前の誰かを助けることは出来る。

 ……その裏で『お前にとって、大切でない誰か』が、

 救われない、がな」

「………ッ」

 

 その切り返しに、

 エリシアは絶句する。

 

 冷や汗が流れ、得体の知れない不快感が、

 全身を駆け巡った。

 

 遼は、

 ただ、黙って話を聞いていた。

 

 頭では、

 必死に反論の言葉を探している。

 なのに、何も、出てこない。

 

 それどころか。

 

 自衛官時代。

 上層部の判断。

 合理的な切り捨て。

 二次被害を防ぐための、諦め。

 椀を受け取れなかった難民の、恨めし気な表情。

 

 そういった記憶ばかりが、

 ぐるぐる回る。

 

 遼は、無意識に、

 自分の手を見つめていた。

 

 開いたままの、手のひら。

 

 村で、少年の傷を押さえた手だった。

 落燕谷で、起爆装置を握った手だった。

 ミレイユが、泣きながら縋ってきた時。

 受け止めた、手だった。

 

 その手が。

 今、何も握っていなかった。

 

 皇帝の言葉が、

 耳の奥で静かに反響している。

 

 古教会から見える、星空。

 この世界に来て、いつも見上げていたソレと、

 あの夜のベランダから見た星空が、重なった。

 

 何もかもどうでもよくなっていた、あの夜の。

 冷たい空気が、肺の奥まで戻ってくるような気がした。

 

「これが統治だ。

 誰かの皿は、必ず空になる」

 

 皇帝は、

 再び三人を見渡した。

 

「だからこそ、余は選ぶ。

 奪う先を。捨てる者を。

 そして、国民のため、最大多数の利益を追求する」

 

 一拍。

 

「それを理解せぬ者に、余は統治をさせぬ」

 

 静かだった。

 怒っていない。蔑んでもいない。

 

 ただ、事実を置いた。

 それだけだった。

 

**

 

 去っていく馬車。

 その姿を、追える者はいなかった。

 

 エリシアは、唇を噛んでいた。

 言葉が出なかった。反論できなかった。

 

 それでも。

 あの村の子供の顔が、浮かんだ。

 少年の涙が。

 ミレイユの声が。

 遼の背中が。

 

 エリシアの脳裏から、消えなかった。

 

 言葉にはならない。まだ、答えは出ない。

 それでも、自分が手を伸ばし、抗うことは分かっていた。

 

 ミレイユは、俯いたままだった。

 何も言えなかった。

 言える言葉を、持っていなかった。

 

 けれど。

 静かに、エリシアの隣に寄った。

 それだけで、十分だった。

 

 遼は、まだ、

 窓の外を見ていた。

 

 蝋燭の火が、消えかけて。

 やがて、燃え尽きた。

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