救えなかった手と、それでも伸ばした手 ~元自衛官が行く、異世界戦記~   作:ホビット

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第三十三章 救えなかった手

 小競り合いの翌朝。

 遼の天幕の、すぐ近く。

 

 どんよりとした雲が、空を覆っていた。

 空気は、まだ少し冷たい。

 

 ミレイユは、朝食を運ぶため、

 遼の天幕へ向かっていた。

 

 盆の上には、簡単な陣中食。

 木椀に注がれた麦粥からは、

 湯気が揺らめいていた。

 

(昨日のリョウは……)

 

 ミレイユは歩きながら、

 昨日のリョウを振り返っていた。

 

 あの背中と、声色。

 それに、何よりも。

 

(リョウ自身は無意識でしたが。

 あの、手を見つめる仕草……)

 

 初めて出会ったときから。

 

 痛ましい事件がある度、

 自分の手を見つめる癖があった。

 

 空っぽの手。

 掴めなかった何かを、

 忘れられないような。

 

 しばらく、ぼうっと考えている内に、

 遼の天幕の前に到着した。

 

「リョウ。朝食を持ってきました」

 

 ミレイユが、幕内に声を掛ける。

 

 すぐには、返事が来ない。

 兵士たちが起き始めた声だけが、

 遠くから聞こえた。

 

 しばし、無言の後。

 

「……ああ」

 

 返事と共に、

 中から天幕がめくられた。

 

 遼の表情は、硬い。

 目にはうっすらとクマが残り、

 髪の毛もボサボサだ。

 

「すまない」

 

 一言だけ。

 遼は呟くと、木椀を受け取る。

 

「……疲れているようですが。

 まだ、休んでいた方が良いのでは?」

 

 ミレイユは、遼の顔を覗き込むように

 上目遣いで声を掛けた。

 

「いや、大丈夫だ」

 

 また、一言だけ。

 

「……」

 

 ミレイユは、何も言えなかった。

 

「……じゃあ、仕事に戻るから」

 

 そう言うと、

 遼は、天幕を降ろし、部屋に戻っていく。

 

(……いまは、そっとしておくべきでしょうか)

 

 天幕が、風で揺蕩った。

 たった一枚の布切れが、やけに重く感じた。

 

「……今日は、雨でしょうか」

 

 黒雲に覆われた空を見上げながら、

 ミレイユは呟いた。

 

**

 

 補給部隊の野営地。

 

 黒ずんだ荷物と、微かな焦げ臭さが、

 昨日の爪痕を残している。

 

 朝食を終えた遼は、

 燃えてしまった物資について状況確認をするため、

 オルウェンと共に、そこへ足を運んでいた。

 

「……これもダメか。

 オルウェン、そっちはどうだ?」

 

 硬い声で、遼がオルウェンに尋ねる。

 

「こちらは無事の様でございます。

 ですが、そちらがダメとなりますと……」

 

 オルウェンも、

 目を走らせながら答える。

 

 しかし、顔には汗が滲み、

 小さく眉を下げていた。

 

 遼は、その言葉に表情を硬くする。

 努めて低い声で、オルウェンに問いを投げた。

 

「……単刀直入に、聞く。

 このまま、駐留を続けることは可能か?」

「可能でございます。

 ……ただし」

 

 遼の質問に、肯定の意を示す。

 しかし、オルウェンにしては珍しく、

 歯切れの悪い様子で続けた。

 

「……ただし、

 避難民の炊き出しについては、

 日を改める必要があるのではないか、と」

「……足りなくなった、ってことか?」

「端的に言うと、そうなります」

 

 オルウェンは、目を伏せる。

 

「……お前の方で、

 何とかカンパを募れない、のか?」

 

 遼は、縋る様にオルウェンへ問う。

 

「……残念ながら。

 帝都内ならともかく、周辺に募れるアテを、

 私は持っておりませぬ。

 追加については、ルヴァンへ依頼しておりますが、

 輸送部隊の到着には、しばし時間が掛ります」

 

 しかし、

 返ってきたのは、頭を横に振る姿。

 

「……そう、か。

 すまない、無茶だった」

「いいえ。

 リョウ殿の優しさは、姫殿下の思いそのもの。

 私こそ、己の非力さを恥じ入るばかりです」

 

 オルウェンは、痛ましげに下を向きながら、

 腰を深々と折り曲げた。

 

 その様子を見ながら、

 遼は、何も持っていない、

 煤まみれになった自分の手を見つめていた。

 

**

 

 見聞が終わり、

 遼は、ひとり、

 また自分の天幕へ戻ろうとしていた。

 

 そこへ。

 複雑な表情をした兵士が、

 遼の元へ駆け込んできた。

 

「リョウさん。

 少し、問題が」

「なんだ?」

「西方からの難民と名乗る一団が、

 陣地に来ています。

 なんでも、姫殿下の噂を聞きつけた、とか」

 

 遼は、息を呑んだ。

 

**

 

 黒雲が、いつからか、

 雨を降らしている。

 

 ぬかるむ陣地の前には、薄汚れた一団が、

 身を寄せ合っていた。

 

 遠くに見える、帝都の白に比べて、

 まるで、掃き出された塵芥の様だった。

 

 遼が現場に着く頃には、

 エリシアとミレイユの姿もあった。

 

 エリシアは、

 遼の姿を見つけると、

 雨に打たれるのも気にせず、すぐさま声を掛けた。

 

「リョウ!

 来てくれましたか。

 ……その、物資の方は?」

「ダメだ」

 

 遼は、自分でも驚くほど即答した。

 

 思わず、エリシアの目が見開く。

 側に立つミレイユも、表情を強張らせた。

 

 雨が、エリシアの頬を伝う。

 遼の表情は、濡れた前髪で、よく見えない。

 

「さっき、俺自身の目で確かめて来た。

 あのバカどものせいで、俺たちの分のメシしかない」

「……オルウェン司祭に頼んでみては?」

「もう聞いた。

 ……残念だが、あいつでも無理らしい」

「……そんな」

 

 悲観的な応酬が続く。

 

 避難民の一部も、周りの兵士たちも。

 皆、不安そうに、

 それを見守っていた。

 

 やがて。

 

 避難民の少女が、前に出た。

 手には、泥塗れの。

 

 小さな、クマのぬいぐるみを、

 大切そうに抱えていた。

 

「……わたしたち、見捨てられちゃうの……?」

 

 ひどく怯えた様子。

 無垢な視線が、遼に突き刺さる。

 

 雷に打たれたように。

 遼は、硬直した。

 

**

 

 遼の耳に、

 雨の音がやけに大きく響く。

 

 クマのぬいぐるみ。

 幼い少女。

 

 遼は、動けない。

 

 身体とは裏腹に、

 過去の記憶が、走馬灯の様に駆け巡った。

 

 雪山で、あの父親を見捨てた。

 炊き出しを受け取れなかった、あの少年。

 ――異音と共に、濁流に飲まれた妹。

 

 助けられなかったのは、

 己の力不足だったと思っていた。

 

 異世界に来て。

 エリシアの信頼に応え。

 ミレイユの弱さを支えて。

 

 少しは、変われたのだ、と。

 こんな自分でも、

 誰かを助けられるように、成長したのだ、と。

 ――思い上がっていたのだ。

 

 だけど。

 

『誰かの皿は、必ず空になる』

 

 皇帝の言葉が、脳裏に過ぎる。

 

(……そんなこと、ずっと前から。

 ……わかって、いたさ)

 

 ――本当は。

 誰のせいでも無かったのだ。

 

(……それに、あの時。俺は)

 

 皆が諦めていない中、

 自分だけが、南へ向かうと口にしたのだ。

 

 誰にも罰せられない、己の罪。

 

 ――結局は。

 この世界も、自分自身も、

 誰かを救えない、犠牲を強いることは、必然だったのだ。

 

 ただ、それが。

 それだけが。

 

 遼の知る、残酷な世界だった。

 

 ならば。

 

(だったら、俺が)

 

 昏い決意と共に、

 ゆらり、とエリシアに背を向ける。

 

 エリシアに、この決断は下せない。

 ――させたくない。

 

 遼は、自分の手に視線を落とす。

 

 両手とも、

 雨に汚れた煤で、真っ黒になっている。

 

 遼は十四歳の、あの大雨の日。

 あの日も。

 両手とも、雨と泥まみれだった。

 

 その黒を吸うように、一度深く呼吸して。

 

 遼は、ゆっくりと、少女に向き直した。

 

**

 

「……リョウ、待ってください」

 

 雨に濡れた金髪の少女が、

 遼の腕を引いた。

 

「私は、あなたの前で言いました。

 ――捨てたくない、と」

 

 一歩、前に出る。

 遼は、後退った。

 

「それは、今も変わりません」

 

 エリシアの瞳が、真っ直ぐ遼を射抜く。

 

「……だったら、なんだ」

 

 遼は、足元の水溜りに視線を落としながら、

 吐き捨てる様に返した。

 

「物資は燃えたんだ。

 しかも、この雨だ。輸送部隊の到着は、

 いつになるか分からない。

 ……こいつらに食わせるモノは、無い」

「はい」

「俺たちは、何のためにここまで来たんだ?

 お前の、国を取り戻すためじゃないのか?」

「違いません」

 

 エリシアは、それでも。

 遼から目を逸らさず、答え続ける。

 

「じゃあ!……見捨てるしかないだろ」

「いいえ。

 私は、見捨てたくありません」

「子供じゃないんだ。

 ……分かれよ、エリシア……」

「……分かりたく、ありません。

 それに。

 ……そんな顔をするリョウは、見たくありません」

 

 エリシアの答えに、

 遼の中で、何かが切れた。

 

「いい加減にしろよ!!」

 

 遼は、遂に激昂し、地団駄を踏んだ。

 バシャバシャと、耳障りな水溜り音が雨音に混じる。

 

「何度やっても、届かないんだよ!!」

 手を伸ばして、伸ばして、それでも届かなくて!!」

 

 声に、怒りでは無い、別の感情が混じり始めた。

 

「俺は何度も……何度も……!!」

 ……何度も、見て来たんだ……ッ!」

 

「……もう、嫌なんだ……ッ!

 ……疲れたんだよ……」

 

 燃え上がった蝋燭が、

 最後の火を振り絞ったように。

 

 遼の言葉は、そこで途切れた。

 

 雨は降り続いている。

 俯く遼の頬から、水が垂れた。

 

 エリシアは、ただ黙って、

 遼の言葉を受け止めている。

 

 自分より大きな体格。

 諦めきった表情。

 絞り出すような声。

 

 どれも、大人の男性の特徴なのに。

 

 エリシアには、なぜか、

 遼の姿が、泣いている子供のように見えた。

 

 雨音だけが、

 エリシアと遼の間を包む。

 その間にも、遼の頬から、水は落ち続けていた。

 

 やがて。

 

 決然と。

 兵士たちの方に向き直ると、

 号令をかけた。

 

「兵たちの皆さん。

 私から、お願いがあります」

 

 突然の宣言。

 兵士たちに、緊張が走る。

 

「皆さんの食事を。

 ここにいる、難民の方々に、分けて頂けるでしょうか?」

 

「これは、私の我儘です。

 従う必要はありません。

 ……ですが、もし。

 ご協力頂けるなら、前へ、来てください」

 

 エリシアは、真摯に。

 ただ、前を向いていた。

 

**

 

 俯いたまま。

 遼の耳にも、その宣言は聞こえていた。

 

(何を、言ってるんだ?)

 

 王国軍の懐事情は、依然として悪い。

 実際、僅かな食料を分け合うことへ、

 不満を漏らす兵がいたことも、遼は知っている。

 

 まして、今回の件は。

 一部の兵たちの暴走。

 無関係な難民。

 

(こんなの、誰も……)

 

 協力するはずか無い。

 遼は、水溜りを見つめながら、

 そう思っていた。

 

 だが。

 

 ――バシャリ。

 

 遼の耳に、誰かが、

 水溜りを踏み抜く音が響いた。

 

**

 

「エリシア様は、前からそういう方でしたね」

 

 苦笑と共に、前に出たのは、

 レムルから付き添う、古参の男。

 

「……しゃあねえ!男を見せるか!!」

「ま、俺たちは、ガルドに殺されてた様なもんだからな。

 あの時に比べりゃあ、ちょっとのメシ抜きくらい、

 我慢できるってもんさ!」

 

 落燕谷で戦ったゲリラたちが、

 豪快に笑いながら、それに続く。

 

「……あの人たちは、私と同じ。

 見捨てる訳にはいきません」

 

 ルヴァンで寝返った、属州兵。

 彼もまた、神妙な様子で足を進めた。

 

 更に。

 

「……おいおい、随分カッコつけるじゃねえか」

 

 レオンハルトの声だった。

 彼は、セリアの部下たちの方へ向き直る。

 

「お前ら!

 王国軍がこんだけカッコつけてるんだ!

 ……まさか、自分たちは止める、ってのは無ぇな?」

「いやいや!まさか!」

「腹ペコの連中に威張っても、意味ないですよ!」

 

 ニヤニヤと笑みを浮かべながら、

 レオンハルトの言葉に同調する。

 

「嬢ちゃん。

 ……いいな?」

 

 レオンハルトは、

 いまだ鉄面皮の上司に、許可を求める。

 

「……………」

 

 セリアは、何も言わない。

 目を瞑り、暫くの沈黙の後。

 

「……軍務は減らしません」

 

 一言だけ、静かに言って。

 レオンハルトたちに、背を向けた。

 

 その背中から、歓声が上がる。

 

 セリアは、ただ、黙って。

 空を見上げていた。

 

**

 

「な……んで…………」

 

 遼は、目の前の光景が、

 この世のものとは思えなかった。

 

 掠れる声で、震える身体で。

 それを、ただ、呆然と眺めていた。

 

「分かりませんか」

 

 気がつくと、ミレイユが隣に立っていた。

 薄く微笑みながら、遼を見つめている。

 

「あなたが。

 これまで、繋いできたモノです」

「ええ。ミレイユの言う通りです」

 

 エリシアも、その言葉に続けた。

 

「あなたの過去は、わかりません。

 きっと、私の想像も出来ないような、

 苦しみも悲しみも、あったのでしょう」

 

 その痛みに寄り添えないことに。

 エリシアは、目を伏せた。

 

「ですが」

 

 顔を上げる。

 

「あの日。

 あなたが、私を助けてくれたから。

 諦めずに、ここまで連れてきてくれたから。

 ……リョウが、手を伸ばし続けたから、

 いま、この光景が、あるのです」

 

 エリシアは、目を細め、

 愛おしそうに目の前を見つめた。

 

 苦笑しながら、パンを渡す兵士たち。

 何度も頭を下げながら、受け取る難民たち。

 久しぶりの食事に、満面の笑顔の子どもたち。

 

「……私も」

 

 ミレイユが、呟く。

 

「あなたに救われた一人なんです。

 ……だから」

 

 微笑みながら、

 遼を慈しむように、語りかけた。

 

「だから、胸を張ってください。

 ……あなたのしてきたことは、

 何にも代え難いことなのですから」

 

 ミレイユの言葉に、

 遼は、唇を震わせる。

 

 そして。

 

 ――パシャパシャ。

 

 小さな足音が、遼の方へ近づいて来る。

 

 振り向くと、そこには、

 あの少女が、笑っていた。

 

「……あ……っ。ああっ……ッ!!」

 

 遼の視界が、遂に、滲んだ。

 両目から、大粒の涙が止めどなく溢れ出る。

 

 嗚咽とともに、遼は膝から崩れ落ちる。

 そのまま、思わず、目の前の少女を抱きしめた。

 

「お兄ちゃん、どうしたの?

 どこか、痛いの?」

「ああっ……!!ああああっっ………!!」

 

 少女の場違いな心配の声に、

 遼の慟哭はさらに強まる。

 

 エリシアとミレイユは、

 ただ黙って、遼を見守っていた。

 

 ――そうだった。

 

 腕の中にある、

 確かな温もりを感じながら、

 遼は、遠い日のことを思い出す。

 

 あの日。

 嵐とともに流されてしまった、

 ありふれた日々の記憶。

 

 そうだ。

 妹は、結衣は。

 

 いつもああやって、笑っていたんだ。

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