救えなかった手と、それでも伸ばした手 ~元自衛官が行く、異世界戦記~ 作:ホビット
その夜。村の集会所には血と薬草の匂いが満ちていた。
撃たれた少年は、遼の応急処置で、なんとか一命を取り留めた。
だが、流れ弾を受けた、彼の母親と老人は、助けられなかった。
二人分の白い布に、遼はやるせなく下唇を噛みしめていた。
守備隊は一度引いたが、予断を許す状況ではない。
連中は必ず戻ってくる。
次は徴発のためではなく、村を反乱分子として「処理」するために。
エリシアは少年の寝台の前で、膝をついたまま動かなかった。
「私が交渉に出なければ……」
ぽつりと漏れた声は震えていた。
村人の命も、少年の涙も、すべて自分の肩に乗っていると信じ込んでいた。
「私が、もっと上手く伝えられたら――」
「違います」
ミレイユがきっぱり言った。だが、彼女の肩も震えていた。
「悪いのは撃った兵士です。横暴な隊長です。決して、お嬢様ではありません」
「でも……」
「もう一度言います。お嬢様は、何も悪くないのです」
ミレイユは、エリシアではなく、まるで自分自身に
言い聞かせるように言い切った。
その様子に、エリシアも気まずげに押黙ってしまう。
遼は、二人の会話を静かに聞いていた。
エリシアの後悔は間違っているが、完全には間違っていない。
彼女の言葉は、なぜか人の心に希望を抱かせる。
だが、希望を与えることは、同時に誰かを危険に近づけることでもあるのだ。
**
「……ここ、は……?」
寝台から声が聞こえた。少年が目を覚ましたのだ。
「はい。ここは集会所ですよ。
あなたは、ちょっとケガしちゃっただけなの。
もう怖いことはないから、ゆっくり休んでくださいね?」
エリシアが、安心させるように、笑顔を向ける。
「……リョウ、おにい、さん……」
喉の奥で、かすれた声が途切れる。
「……かけざん……できた……」
息を吸うのが、少し遅れる。
「……みず……ひとりで……」
視線がぼんやり天井を彷徨う。
「……お母さん……」
そこで一度、止まる。
「……いたのに……」
言葉にならないまま、唇だけが動く。
「……音……」
小さく肩が震える。
「……バァンって……」
それきり、しばらく黙る。
「……なんで……」
続かない。
「……ぼく……」
目が閉じかける。
「……わるい……の……かな……」
最後はほとんど呼吸に溶けるように消える。
少年は、再び眠りについた。
誰も、しばらく動かなかった。
薪のはぜる音だけが、やけに大きく聞こえた。
遼は、少年の顔を見つめたまま、胸の奥に沈む重さを飲み込んだ。
目の下の涙の跡は、現代人である遼にも、消せなかった。
**
遼は、胸の奥に沈む重さを押し殺すように口を開いた。
「逃げるなら、今だ」
エリシアが顔を上げ、ミレイユの視線が遼を射抜く。
「森へ逃げれば、あなたとミレイユだけなら生き延びられるかもしれない」
「村は?」
「焼かれるだろう。……隣村と同じように」
「なら、逃げません」
即答だった。
ミレイユが叫ぶ。
「お嬢様!」
「ミレイユ。
私はもう、守られるだけの存在ではいられません」
「あなたは生きなければいけない方です!」
「だからこそ、生きて何をするかを、選ばなければいけない」
少年の方を、一度だけ見た。
「……もう、こんなことは起きて欲しくないのです」
エリシアは立ち上がった。
その顔は青ざめ、涙の跡も残っていた。
それでも、目だけは逃げていなかった。
**
その姿を見た瞬間、遼の胸に鈍い痛みが走った。
――また誰かが、壊れていく。
――また誰かが、自分と同じ後悔に沈んでいく。
少年の涙。
母親の亡骸。
伸ばした手が届かなかった、あの日の濁流。
遼は知っている。
“守れなかった後悔”は、生きながら死ぬのと同じだ。
そして、エリシアがその道に踏み込もうとしているのが、
どうしようもなく嫌だった。
遼は深く息を吐き、自分を落ち着かせるように言った。
「……分かった。
けど、守るなら、感情ではなく段取りで守る。
勝つんじゃない。生き残るために、相手の雑さを利用する」
地面に炭で地図を描き、淡々と説明を始めた。
ミレイユが鋭く、射抜くような視線を向ける。
「あなたは何者ですか」
「救助も、戦闘も、……上手くいかないことも。
全部、現場で見てきた人間だ」
「だから何なのです?
あなたの言葉に従って、なんとかなる根拠はあるのですか?」
ミレイユが詰るように、さらに問いかける。
遼は、少しだけ考えたあと、続けた。
「そんなものは無い。だが、このままでは死ぬ」
ミレイユは、拳を握ったまま下を向いた。
反論しようとして、できなかった。
「根拠はない」——その言葉は、嘘ではない。だが、嘘もない。
この男は、都合よく誤魔化さなかった。
長い沈黙のあと。
エリシアが、静かに口を開いた。
「……私はリョウを信じます。
みんなを守るために、あなたの力を貸してください。」
エリシアの真摯な言葉に、遼は静かに頷いた。
もう後戻りはできない。それでも、彼女は守ると決めたのだ。