救えなかった手と、それでも伸ばした手 ~元自衛官が行く、異世界戦記~ 作:ホビット
エリシアの宣言があった日の昼頃。
村の北側から、だらしない靴音が近づいてきた。
遼は物陰に身を沈め、兵士たちの会話に耳を澄ませていた。
「はぁ……かったりぃ……」
「昨日も言ってただろ」
「だってよ、あの村、やたら遠いんだよ。歩くのもラクじゃねぇっての」
「帰ったら酒飲みてぇな……」
遼は眉をひそめた。
緊張感がない。隊列も乱れている。
これは軍隊ではない。武装した酔っ払いの群れだ。
その後ろで、隊長らしき男が苛立ち混じりに怒鳴る。
「おい、遊びに来てんじゃねぇぞ!さっさと片付けるんだよ!」
“片付ける”。
その言葉に、遼の胃が冷たくなる。
彼らにとって村は、仕事の一つでしかないのだ。
やがて、兵士の一人が前方を指した。
「隊長、村に到着しました」
「よし。突っ込め。さっさと終わらせて帰るぞ!」
軽口と命令が混ざったまま、兵士たちはだらだらと前進する。
遼は深く息を吸い、村の方へ視線を送った。
ここから先は、段取りで守るしかない。
罠は仕掛けた。
村人たちの配置も確認した。
あとは、敵が“雑さ”を晒してくれるかどうかだ。
**
遼は、手の中の笛を握りしめた。
「……来た」
木柵の陰に伏せていた村人たちが、緊張で喉を鳴らす。
遼は手で合図し、最前列の男に銃を構えさせた。
「撃つな。引きつけるだけでいい」
男が小さく頷く。
銃口の先、兵士たちは相変わらず緩んだ足取りで近づいてくる。
「へっ、なんだよあのバリケード。子供の遊びか?」
「撃ってこねぇなら突っ込め!」
遼は、兵士たちの距離を測る。
十歩……七歩……五歩。
今だ。
「正面、引きつけろ!」
村人の銃が一発だけ鳴った。
乾いた音が山に跳ね返り、兵士たちが一瞬だけ足を止める。
「ビビらせてんじゃねぇぞ!前へ——」
隊長の怒声が途切れた。
遼が蹴り倒した柵が、軋みを上げて崩れ落ちたからだ。
ザザザッ!
地面が沈むような音と共に、
兵士たちの足元が、まとめて落ちる。
「うわっ——!?」
「足が……!?」
「穴だ、落とし穴だ!!」
遼は短く息を吐いた。
よし、かかった。
落とし穴は浅い。致命傷にはならない。
だが、統率の取れていない集団には十分すぎる罠だ。
遼が視線を送ると、屋根に上がっていた村人たちが、
灰と小石を一斉に投げ落とした。
白い灰が風に乗り、兵士たちの視界を奪う。
「上だ!屋根の上を見ろ!」
「目が……見えねぇ!」
「くそ、煙か!?」
「違う、灰だ!上からだ!!」
怒号と悲鳴が入り混じる。
遼はその混乱を冷静に観察した。
思った以上に脆い。
これなら、押し返せる。
だが、油断はできない。
混乱は長く続かない。
敵が態勢を立て直す前に、次の手を打つ必要がある。
遼は笛を口に運びかけ——
その瞬間、嫌な気配を感じて顔を上げた。
落とし穴から這い出した隊長が、
村人の一人を腕で締め上げ、短剣を首に押し当てていた。
「動くな!!こいつを殺すぞ!」
遼の背中に冷たい汗が流れた。
最悪だ。ここで膠着されたら終わる。
怒声が灰の舞う空気を裂く。
村人たちが息を呑み、遼は笛を握りしめたまま動けなかった。
撃てない。
この角度、この距離……誤射すれば、人質が、死ぬ。
「おい! 昨日の交渉に出てきたガキはどこだ!
あれが代表なんだろうが!」
隊長の叫びに、遼の心臓が跳ねた。
エリシアを狙っている。
ここで引きずり出されたら——
「待ってください!」
その声が、遼の思考を断ち切った。
エリシアが前に出ていた。
戦闘前、村人たちの前で掲げた青い旗を、そのまま握りしめている。
灰の中、青い布が揺れた。
「その人を放してください。
私が、この村の代表です」
「やっぱりお前かよ」
隊長は鼻で笑った。
「昨日はよくも偉そうに言ってくれたな。
ガキが代表なんて、笑わせんな」
遼は歯を食いしばった。
(なぜ前に出る……!)
分かっているはずだ、この状況がどれだけ危険か。
だが、エリシアは止まらない。
彼女の視線は、刃を突きつけられた村人に向けられていた。
――助けたい。
その一心だけで動いているのが、遼には分かった。
「お嬢様っ!」
少し後方で控えていたミレイユが、危険を察して駆け寄り、
エリシアの背に寄り添う。
短剣を握りしめ、いつでも飛び出せる姿勢だ。
緊張が高まる瞬間。
風が、吹いた。
青い旗が、空いっぱいに広がった。
遼の視界の端で、その色が鮮烈に揺れた。
敵兵の一人が、息を呑むような声を漏らした。
「……おい、あれ……」
「旗……?なんだよ、あの色……」
「青……? まさか……」
ざわり、と空気が変わった。
辺境の兵士たちは王家の顔も名前も知らない。
だが、“青い旗だけは掲げてはならない” と教えられている。
反乱の象徴。
帝国が最も嫌う色。
隊長だけが、その意味を正確に理解したようだった。
彼は辺境に回される前、帝都で“青い旗の処分命令”を耳にしたことがあった。
信じられないものを見た時のように、顔色がみるみるうちに変わる。
「お前ら、撃つな!!下がれ!!
その旗は……!」
だが、兵士たちは混乱して動けない。
“青い旗”という記号だけが、彼らの恐怖を刺激していた。
その一瞬の静止。
その一瞬の“間”。
――エリシアが銃を構えるには、十分だった。
エリシアは旗を握ったまま、
もう片方の手で銃を持ち上げた。
銃口は震えていた。
狙いなど、ついていない。
片手では、まともに構えることすらできない。
だが――
王家の銃に“狙い”は必要なかった。
遼は息を呑んだ。
笛を握る手が、動かない。
人質。旗。銃口。——全部が、一瞬に重なった。
人質は刃を突きつけられ、兵士たちは混乱し、
隊長はいつでも殺せる体勢。
遼が笛を吹く暇も、指示を出す隙もない。
――撃つかどうかを決められるのは、エリシアだけだ。
ミレイユがエリシアの背に寄り添い、
震える肩をそっと支える。
「お嬢様……」
「大丈夫です。
……この旗も、この銃も、離しません」
その言葉に、遼の胸が締めつけられた。
隊長はまだ村人の首に刃を当てている。
だが、青い旗を見た兵士たちは動けない。
恐怖と混乱で、場の空気が凍りついていた。
エリシアは、ゆっくりと隊長の顔を見た。
顔が見えた。
それだけで、王家の銃は“条件を満たした”。
「……その人を放しなさい」
その囁きと同時に、引き金が引かれた。
銃声は、驚くほど軽かった。
次の瞬間、隊長の胸が弾けた。
心臓を貫く、正確すぎる一撃。
エリシアの手は震え、
反動で身体が大きく揺れた。
旗がはためき、ミレイユが慌てて支える。
村人が解放され、地面に崩れ落ちる。
エリシアの頬に、隊長の血が一滴だけ飛んでいた。
頬の血が、ポタリ、と地面に落ちて。
ようやく、彼女は、ゆっくりと呟いた。
「……私は、守るために撃ちました」
その声は震えていた。
だが、旗を握る手だけは、決して震えていなかった。
**
隊長が胸を押さえて崩れ落ちた瞬間、
辺境守備隊の動きが完全に止まった。
誰も叫ばない。
誰も撃たない。
ただ、青い旗と、倒れた隊長を交互に見ていた。
恐怖と混乱。
そして、“理解できないもの”への本能的な畏れ。
「た、隊長……?」
「なんで……一発で……」
「心臓……だと……?」
兵士たちは後ずさりし、
やがて誰かが叫んだ。
「に、逃げろ!!」
その声を合図に、守備隊は蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
統率も、命令も、誇りもない。
ただ、青い旗と、あの銃から遠ざかりたいという恐怖だけが、
彼らを動かしていた。
**
遼は笛を吹く必要すらなかった。
戦いは、終わった。
だが、誰も喜ばなかった。
村人たちは呆然と立ち尽くし、
ミレイユはエリシアの肩を必死に支えていた。
エリシアは、まだ銃を握ったまま動けずにいた。
旗を握る手は強く、
銃を握る手は震えていた。
遼はゆっくりと近づき、
エリシアの前に立った。
「……終わった」
そう告げると、エリシアはようやく遼を見た。
その瞳は、恐怖でも後悔でもなく——
理解できない現実に追いつけない、迷子のような揺れがあった。
「リョウ……私……」
言葉が続かない。
遼は静かに頷いた。
「見た。全部」
エリシアは唇を噛み、
震える声でようやく言葉を絞り出した。
「……私、撃ちました。
人を……殺しました」
その瞬間、ミレイユの手がエリシアの背で強く震えた。
彼女もまた、エリシアの痛みを共有している。
遼はゆっくりと息を吸い、
彼女の目をまっすぐ見た。
「エリシア。
お前は“守るために”撃った。
それは事実だ」
「でも……でも……」
エリシアの声が震える。
旗を握る手は強いまま、銃を握る手だけが弱々しく揺れていた。
「私は……
この旗を掲げたのに……
人を……殺してしまった……」
遼は、そっとエリシアの銃を受け取った。
彼女の手は、触れた瞬間に力を失ったように震えた。
「エリシア。覚えておけ」
遼は静かに言った。
「“守るために撃つ”というのは、
お前が思っているより、ずっと重い。
でも――
その重さから逃げなかったお前は、強い」
遼の言葉に、エリシアの瞳に涙が滲む。
「……強くなんて、ありません……
怖かった……今も……怖い……」
「怖くていい。……怖いままでいい。
それでも、前に出たのが、お前だ」
エリシアは、ようやく膝をついた。
旗は地面に触れず、ミレイユがそっと支えた。
エリシアは顔を伏せ、
小さく、小さく震えながら呟いた。
「……守りたかったんです……
あの人を……この村を……
誰も……泣かせたくなかった……」
遼は、その言葉を聞き終えると、
そっとエリシアの肩に手を置き、噛みしめるように伝えた。
「……お前は、守れたんだ。
あの人の、命を。この村を。」
その言葉に、エリシアはようやく泣いた。
旗を握ったまま、
王家の象徴を手放さないまま、
ただ、ひとりの少女として泣いた。
ミレイユは、しばらく何も言わなかった。
慰める言葉を、全部飲み込んだ。そして、ただ隣にいた。