救えなかった手と、それでも伸ばした手 ~元自衛官が行く、異世界戦記~ 作:ホビット
辺境守備隊との戦いから、一夜が明けた。
遼は、旧王国軍の砦とされる古い建物の一室で、
粗末な机に地図を広げていた。
砦は荒れ果てていたが、村よりは守りやすい。
ここで、次の一手を決めなければならなかった。
昨日の余韻は、まだ身体のどこかに残っている。
村を出てからの数時間は、誰もほとんど口を開かなかった。
――あの夜、エリシアは泣かなかった。
泣く代わりに、前を向いた。
その背中を見て、遼は静かに覚悟を決めていた。
**
机に広げた地図を眺めながら、
遼は内心でため息をついていた。
(……この地図じゃ、判断材料が足りない)
線は歪み、距離も曖昧。
だが、今ある情報はこれだけだ。
これでやるしかないのか。
そう考えていた矢先、しわがれた声が部屋に響いた。
「その地図では足りん」
声に振り替えると、杖をついた男が歩み出てくる。
五十代半ば、片足を引きずり、顔には古い傷。
隣村の隅で静かに暮らしていた老人——ローデンだった。
「ローデンさん……?」
「あんた、生きてたのか……?」
村人たちがざわめく。
ローデンは、古びた羊皮紙を机に置いた。
「アルディア王国がまだ健在だった頃の地図です。
わしは王国騎士団の伝令でした。
この辺りの地形は、叩き込まれています。」
エリシアが息を呑む。
「あなたが……王国騎士団……」
ローデンは、エリシアに片膝をつく。
そして、頭を垂れながら、感無量といった様子で続けた。
「アルディア王家の旗を、再び拝する日が来ようとは……」
エリシアは一瞬だけ言葉を失った。
それからゆっくりと、頭を上げるように言った。
「頭を上げてください。
……私はまだ、何も成し遂げていません」
ローデンはゆっくりと立ち上がる。
「いいえ、姫殿下。
旗を掲げた時点で、あなたは“王”の責務を背負われたのです。」
続いて、遼の方を向いた。
「そして……そちらの若者。
あなたが、この軍を率いるのですか?」
「まあ、そんな感じだ。
ただ、この土地のことは何も知らない。
だから助かる。」
ローデンは遼をじっと見つめた。
「……戦を避けてここへ逃げ込んだ者に見える」
遼は言葉を返さなかった。
否定も肯定もできない。
「だが……妙に落ち着いている。
戦を知らぬ者の落ち着きか、
それとも……別の理由か」
評価は、まだ“保留”だった。
その横で、ミレイユが静かにエリシアのそばへ寄った。
言葉はない。
ただ、守るべき相手の前に立つという、いつもの動きだった。
**
ローデンは羊皮紙を広げ、
中央から上の方に位置する、黒い山塊を指で叩いた。
「姫殿下、まず最初に越えねばならぬのは、
この“シュヴァルツ高地”です。
昔から帝国が押さえている厄介な場所で……
この山を背にした軍は、よく負けました。」
遼が眉をひそめる。
「負けた?なんでだ?」
ローデンは少し困ったように首を振る。
「理由は分かりません。
ただ、昔から“この山を無視して進む軍は滅ぶ”と……
そう語り継がれてきました。」
ミレイユの肩がわずかに揺れた。
声は出さないが、危険の匂いに反応しているのが分かる。
遼は地図を覗き込み、静かに言った。
「……なるほどな。
この位置関係なら、理由は簡単だ。」
ローデンが驚いたように顔を上げる。
「理由が……?」
遼は頷くと、地図を指しながら説明した。
「まず、高地を押さえられてるってことは、
こっちの動きは全部見られる。
部隊の移動も、準備も、奇襲も隠密行動も成立しない。」
エリシアが息を呑む。
「そんな……」
「それだけじゃない。」
地図の街道を指でなぞり、続ける。
「この高地を背にしたまま進軍したら、
どこへ行っても背後から挟まれる。
どの街を目指しても、だ。」
ローデンは深く頷いた。
「……そういうことだったのか。
わしらは“昔からそうだ”としか言えなかったが……
道理が通った。」
ミレイユは遼を横目で見た。
その瞳には、警戒と……否応なく芽生えつつある認識の変化があった。
だが、表情は変えない。
あくまで静かに見守るだけだった。
ローデンは地図の高地部分を指でなぞりながら、
声を低くした。
「……それと、姫殿下。
この高地には、帝国の“翼槍隊”がいます。」
エリシアが眉をひそめる。
「”翼槍隊”……?」
「詳しいことは分かりません。
わしら地上の兵には、
“空から落ちてくる影”とか、
“音が聞こえたら終わり”とか……。
そういう、噂ばかりが広まっております」
遼が目を細める。
「空から……?」
「はい。
帝国でも、あの隊は“ガルド・ヴァルグ”という男のためだけにあるとか。
他の将が真似できるものではない……と。」
ローデンは首を振った。
「わしらには、何がどう飛んでいるのかすら分からんのです。
ただ、あれに睨まれた軍は、皆……」
言葉を濁す。
その先は、十分だった。
遼は地図を見つめたまま、静かに言った。
「……実際に見てみないと分からないな。」
エリシアは地図を見つめ、静かに言った。
「……つまり、
最初に越えるべきは、この高地なのですね。」
遼は頷いた。
「ああ。
ここを落とさない限り、どこにも進めない。」
ローデンも頷く。
「姫殿下、リョウ殿の言う通りです。
まずはこの山を越えねばなりません。」
ミレイユはエリシアの隣に立ち、静かに頭を下げた。
「……おそばにおります。」
エリシアは何も返さなかった。
ただ、少しだけ肩の力が抜けた。
**
砦はまだ荒れている。
兵も、訓練されていない。
それでも、ここで立ち止まる時間は、もうない。
最初の壁、シュヴァルツ高地。
その頂には、帝国軍“翼槍隊”と、
ガルド・ヴァルグが待ち構えている。
遼は地図を折りたたみ、静かに言った。
「……行こう。
ここを越えない限り、何も始まらない。」
エリシアは力強く頷いた。
「はい。
ここからが、私たちの戦いの始まりです。」
ミレイユはその横に立ち、静かに息を整えていた。
――二度と、お嬢様を失わない。
その決意だけが、彼女を支えていた。