救えなかった手と、それでも伸ばした手 ~元自衛官が行く、異世界戦記~   作:ホビット

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第七章 伝令の羊皮紙

辺境守備隊との戦いから、一夜が明けた。

遼は、旧王国軍の砦とされる古い建物の一室で、

粗末な机に地図を広げていた。

 

砦は荒れ果てていたが、村よりは守りやすい。

ここで、次の一手を決めなければならなかった。

 

昨日の余韻は、まだ身体のどこかに残っている。

村を出てからの数時間は、誰もほとんど口を開かなかった。

 

――あの夜、エリシアは泣かなかった。

泣く代わりに、前を向いた。

その背中を見て、遼は静かに覚悟を決めていた。

 

**

 

机に広げた地図を眺めながら、

遼は内心でため息をついていた。

(……この地図じゃ、判断材料が足りない)

 

線は歪み、距離も曖昧。

だが、今ある情報はこれだけだ。

 

これでやるしかないのか。

そう考えていた矢先、しわがれた声が部屋に響いた。

「その地図では足りん」

 

声に振り替えると、杖をついた男が歩み出てくる。

五十代半ば、片足を引きずり、顔には古い傷。

隣村の隅で静かに暮らしていた老人——ローデンだった。

 

「ローデンさん……?」

「あんた、生きてたのか……?」

 村人たちがざわめく。

 

ローデンは、古びた羊皮紙を机に置いた。

「アルディア王国がまだ健在だった頃の地図です。

 わしは王国騎士団の伝令でした。

 この辺りの地形は、叩き込まれています。」

 

エリシアが息を呑む。

「あなたが……王国騎士団……」

 

ローデンは、エリシアに片膝をつく。

そして、頭を垂れながら、感無量といった様子で続けた。

「アルディア王家の旗を、再び拝する日が来ようとは……」

 

エリシアは一瞬だけ言葉を失った。

それからゆっくりと、頭を上げるように言った。

「頭を上げてください。

 ……私はまだ、何も成し遂げていません」

 

ローデンはゆっくりと立ち上がる。

「いいえ、姫殿下。

 旗を掲げた時点で、あなたは“王”の責務を背負われたのです。」

 

続いて、遼の方を向いた。

「そして……そちらの若者。

 あなたが、この軍を率いるのですか?」

「まあ、そんな感じだ。

 ただ、この土地のことは何も知らない。

 だから助かる。」

 

ローデンは遼をじっと見つめた。

「……戦を避けてここへ逃げ込んだ者に見える」

 

遼は言葉を返さなかった。

否定も肯定もできない。

 

「だが……妙に落ち着いている。

 戦を知らぬ者の落ち着きか、

 それとも……別の理由か」

 

評価は、まだ“保留”だった。

 

その横で、ミレイユが静かにエリシアのそばへ寄った。

言葉はない。

ただ、守るべき相手の前に立つという、いつもの動きだった。

 

**

 

ローデンは羊皮紙を広げ、

中央から上の方に位置する、黒い山塊を指で叩いた。

 

「姫殿下、まず最初に越えねばならぬのは、

 この“シュヴァルツ高地”です。

 

 昔から帝国が押さえている厄介な場所で……

 この山を背にした軍は、よく負けました。」

 

遼が眉をひそめる。

「負けた?なんでだ?」

 

ローデンは少し困ったように首を振る。

「理由は分かりません。

 ただ、昔から“この山を無視して進む軍は滅ぶ”と……

 そう語り継がれてきました。」

 

ミレイユの肩がわずかに揺れた。

声は出さないが、危険の匂いに反応しているのが分かる。

 

遼は地図を覗き込み、静かに言った。

「……なるほどな。

 この位置関係なら、理由は簡単だ。」

 

ローデンが驚いたように顔を上げる。

「理由が……?」

 

遼は頷くと、地図を指しながら説明した。

「まず、高地を押さえられてるってことは、

 こっちの動きは全部見られる。

 部隊の移動も、準備も、奇襲も隠密行動も成立しない。」

 

エリシアが息を呑む。

「そんな……」

「それだけじゃない。」

 

地図の街道を指でなぞり、続ける。

「この高地を背にしたまま進軍したら、

 どこへ行っても背後から挟まれる。

 どの街を目指しても、だ。」

 

ローデンは深く頷いた。

「……そういうことだったのか。

 わしらは“昔からそうだ”としか言えなかったが……

 道理が通った。」

 

ミレイユは遼を横目で見た。

その瞳には、警戒と……否応なく芽生えつつある認識の変化があった。

だが、表情は変えない。

あくまで静かに見守るだけだった。

 

ローデンは地図の高地部分を指でなぞりながら、

声を低くした。

 

「……それと、姫殿下。

 この高地には、帝国の“翼槍隊”がいます。」

 

エリシアが眉をひそめる。

「”翼槍隊”……?」

「詳しいことは分かりません。

 わしら地上の兵には、

 “空から落ちてくる影”とか、

 “音が聞こえたら終わり”とか……。

 そういう、噂ばかりが広まっております」

 

遼が目を細める。

「空から……?」

「はい。

 帝国でも、あの隊は“ガルド・ヴァルグ”という男のためだけにあるとか。

 他の将が真似できるものではない……と。」

 

ローデンは首を振った。

「わしらには、何がどう飛んでいるのかすら分からんのです。

 ただ、あれに睨まれた軍は、皆……」

 

言葉を濁す。

その先は、十分だった。

 

遼は地図を見つめたまま、静かに言った。

「……実際に見てみないと分からないな。」

 

エリシアは地図を見つめ、静かに言った。

「……つまり、

 最初に越えるべきは、この高地なのですね。」

 

遼は頷いた。

「ああ。

 ここを落とさない限り、どこにも進めない。」

 

ローデンも頷く。

「姫殿下、リョウ殿の言う通りです。

 まずはこの山を越えねばなりません。」

 

ミレイユはエリシアの隣に立ち、静かに頭を下げた。

「……おそばにおります。」

 

エリシアは何も返さなかった。

ただ、少しだけ肩の力が抜けた。

 

**

 

砦はまだ荒れている。

兵も、訓練されていない。

それでも、ここで立ち止まる時間は、もうない。

 

最初の壁、シュヴァルツ高地。

その頂には、帝国軍“翼槍隊”と、

ガルド・ヴァルグが待ち構えている。

 

遼は地図を折りたたみ、静かに言った。

 

「……行こう。

 ここを越えない限り、何も始まらない。」

 

エリシアは力強く頷いた。

「はい。

 ここからが、私たちの戦いの始まりです。」

 

ミレイユはその横に立ち、静かに息を整えていた。

――二度と、お嬢様を失わない。

その決意だけが、彼女を支えていた。

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