救えなかった手と、それでも伸ばした手 ~元自衛官が行く、異世界戦記~ 作:ホビット
ローデンと出会った日の夜。
エリシアは毛布を肩にかけたまま、窓の外を見つめていた。
砦の小部屋は冷えていた。
古びた石壁に触れると、夜の冷気がそのまま指先に伝わってくる。
村を出てから、まだ一週間も経っていない。
けれど、もう随分遠くへ来てしまった気がした。
いつもより、夜気が寒く感じる。
(……私は、本当に“王”として歩き出してしまったのだろうか)
「王国騎士団の伝令」と名乗った老人の顔が浮かぶ。
跪かれた瞬間、逃げ場がなくなった気がした。
不意に、村の人々の顔が浮かぶ。
守りきれなかった。
けれど、背を向けることもできなかった。
「……強くならなきゃ」
小さく呟いたその声は、
自分に言い聞かせるように震えていた。
**
「お嬢様、まだ起きておられたのですね」
ミレイユは、そっと部屋に入った。
エリシアの肩に毛布を掛け直しながら、
その横顔を見つめる。
幼い頃からずっと見てきた顔。
泣き虫で、優しくて、誰よりも人を信じる少女。
その少女が今、
“王”として前に立とうとしている。
(……守れなかった。あの国も、あの人たちも)
苦い思いと共に、
亡国の夜の記憶が、ふとよみがえる。
「ミレイユ……私は、間違っていないでしょうか」
エリシアの声は弱かった。
その弱さを見せられるのは、ミレイユだけだ。
「間違ってなどいません。
お嬢様が歩く道が、正しい道になります」
それは慰めではなく、
ミレイユがずっと信じてきた真実だった。
だが──
その道の先に、あの“翼槍隊”がいる。
(空から落ちてくる影……
本当に存在するのなら……)
ミレイユは無意識に拳を握りしめた。
**
押し黙るミレイユの様子に、
エリシアは所在なさげに視線を動かす。
すると、広間の方から、微かな明かりが漏れていた。
どうやら、誰かがまだ起きているらしい。
「……リョウでしょうか」
エリシアが呟く。
ミレイユは一瞬だけ迷い、視線で許可を得ると、
静かに部屋を出た。
**
砦の広間には、まだ地図が広げられたままだった。
遼はその前で腕を組み、黙って考えていた。
(……高地、翼槍隊、ガルド・ヴァルグ)
どれも未知。
どれも危険。
どれも“この世界の戦争”の重さを象徴している。
自分はただの異世界転移者だ。
いまは自衛官ではないし、まして英雄でもない。
けれど──
エリシアの背中を見た時、
逃げるという選択肢は消えていた。
理由を言葉にするのは難しい。
ただ、彼女の瞳には、
かつて自分が失った"何か"があった。
「リョウ」
思考に耽っていると、不意に背中から声を掛けられた。
振り返ると、ミレイユが立っていた。
灯りに照らされたその表情は、
いつもの冷静さの奥に、わずかな揺らぎを含んでいた。
「ひとこと、私からも礼を。
村では、助かりました」
一礼。流麗な動作だった。
その後、少しだけ口ごもった後、ミレイユは続けた。
「お嬢様のことは……
これからも、どうか、よろしくお願いします」
それは命令でも、懇願でもない。
ただ、長年寄り添ってきた者の“願い”だった。
遼は少しだけ息を吸い、
正直に言葉を返した。
「……正直、分からないことだらけだ。
でも……できる限りのことはする」
ミレイユの瞳が、わずかに揺れた。
「……当然です。
あなたには、それをしていただかないと困ります」
言葉は厳しいのに、
声はどこか静かだった。
ミレイユ自身、その変化に気づいていないようだった。
**
ミレイユが去った後、
遼は再び地図に視線を落とした。
(……やるしかない)
その呟きを、廊下の影で聞いていた者がいた。
「……リョウ?まだ、寝ていなかったのですか?」
エリシアが広間に入ると、
遼は驚いたように振り返った。
「エリシア?……お前こそ、さっさと寝ないと、身体が持たないだろ」
「それはそうなのですが……眠れなくて」
苦笑しつつ、エリシアは遼のそばまで歩み寄り、
広げられた地図を見つめた。
数秒間の沈黙。
「リョウは……怖くないのですか」
エリシアがぽつりと呟いた。
その問いは、王ではなく、一人の少女のものだった。
遼は少しだけ考え、正直に答えた。
「怖いよ。分からないことだらけだしな。
でも……やるしかないだろ」
エリシアは目を伏せ、そして小さく笑った。
「……そうですね。
私も、怖いです。
でも……あなたがいると、少しだけ前を向けます」
その言葉に、遼は返す言葉を失った。
誰かの支えになっている、という感覚が、
こんなにも重く、温かいとは思っていなかった。
そんな遼の様子に気づかぬまま、エリシアは続けた。
「明日、私はまた“姫”として皆の前に立ちます。
でも……今だけは、少し弱くてもいいでしょうか」
「弱くていい。……人間は、弱いからな」
遼は静かに頷いた。
エリシアの肩が、わずかに震えた。
泣いているわけではない。
ただ、張り詰めていたものが少しだけ緩んだのだ。
「……ありがとうございます」
その声は、誰よりも静かで、誰よりも強かった。
**
エリシアは眠れぬまま夜を越え、
ミレイユはエリシアのそばで静かに寄り添い、
遼は地図の前で責任の重さを噛みしめた。
三人の想いは交わらない。
けれど、同じ方向を向いていた。
砦の窓から、朝日が差し込んだ。
それぞれの覚悟を、等しく照らすように。