絵とバレーボール。この関係に名前はない。   作:an-ryuka

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高校を卒業してから、宮侑の世界は少し広くなった。

 

体育館は変わった。

 

ユニフォームも変わった。

 

周りにいる選手も、観客の数も、取材のカメラも、求められる結果の重さも変わった。

 

けれど、ボールが指に触れる瞬間だけは変わらない。

 

白い球が手の中に来る。

 

誰を跳ばせるか決める。

 

一瞬で空気を読む。

 

相手のブロックを裂く。

 

味方の限界を引き出す。

 

そのたびに、宮侑は思う。

 

千景に見せたい。

 

そう思ってから、少し遅れて、自分で笑う。

 

今さらだった。

 

青砥千景は、もう宮千景でもある。

 

戸籍上は。

 

けれど画家としての名前は、ずっと青砥千景のままだった。

 

侑はそれを一度も不満に思わなかった。

 

むしろ、少し誇らしかった。

 

青砥千景の絵は、どこかへ勝手に飛んでいく。大会ポスターになり、雑誌の表紙になり、ギャラリーに飾られ、知らない誰かの部屋に届く。

 

でも、宮侑を一番近くで描く人間は、自分の妻だった。

 

その事実が、侑にはたまらなく嬉しかった。

 

「宮」

 

練習後、ロッカールームでチームメイトの一人が鼻をひくつかせた。

 

「お前、今日もなんか絵の具みたいな匂いするな」

 

侑はタオルで髪を拭きながら、眉を上げる。

 

「そうか?」

 

「油絵? なんか、あの、画材屋みたいな匂い」

 

別の選手が笑った。

 

「あー、わかる。たまにめっちゃする」

 

「洗ってないとかちゃうぞ」

 

「誰も言ってねえよ」

 

侑は不機嫌そうに返しながらも、口元は少し緩んでいた。

 

昨夜、千景が遅くまで描いていた。

 

アトリエの床に座り込んで、侑の試合映像を横目に流しながら、何枚も何枚も紙を替えていた。侑が寝ろと言っても、千景は「今のトス、線が残ってる」とだけ返して、筆を止めなかった。

 

結局、侑が横から毛布をかけ、差し入れみたいにおにぎりを置き、眠そうになった千景を抱えてベッドへ運んだのは夜明け前だった。

 

だから匂いが移ったのだろう。

 

油絵の具。

 

溶き油。

 

紙。

 

千景のアトリエの匂い。

 

侑はタオルを首にかけたまま言った。

 

「嫁が画家やねん」

 

ロッカー室が一瞬静かになった。

 

「嫁?」

 

「お前、結婚してんの?」

 

「早くね?」

 

「え、宮ってそういうの言わないタイプ?」

 

侑は面倒くさそうにロッカーを閉めた。

 

「聞かれてへんし」

 

「いや、聞かれなくても言えよ」

 

「妻一筋なんで」

 

さらっと言ったつもりだった。

 

けれど、ロッカールームの空気は変な方向へ爆発した。

 

「うわ」

 

「急に強い」

 

「ファン泣くぞ」

 

「ていうかお前、そういうこと言うタイプなんだな」

 

侑は平然としていた。

 

「言うやろ。事実やし」

 

チームメイトたちは顔を見合わせ、それから一斉に笑った。

 

その日から、宮侑には新しい噂がついた。

 

絵の具の匂いがする男。

 

嫁が画家のセッター。

 

ファンサはそこそこ、妻の話になると急に顔が緩むやつ。

 

侑本人は否定しなかった。

 

ファンに声をかけられても、昔より余裕ができていた。

 

ただし、線引きは昔と同じだった。

 

「侑くん、彼女いますか?」

 

「妻おります」

 

「えっ、結婚してるんですか!?」

 

「はい。妻一筋なんで」

 

「写真見せてください!」

 

「嫌です」

 

「えー!」

 

「見世物ちゃうんで」

 

笑顔のまま、そこだけは絶対に譲らない。

 

誰かが千景に踏み込もうとすれば、侑は今でもすぐ怒る。

 

けれど昔のように、怒りで自分を燃やし尽くすことは少なくなった。

 

守るものがある。

 

帰る場所がある。

 

その場所に、絵の具の匂いをまとった千景がいる。

 

それだけで、侑のバレーは前より遠くへ伸びた。

 

千景の方も、生活は大きく変わらなかった。

 

朝起きる。

 

描く。

 

食べるのを忘れる。

 

侑に怒られる。

 

また描く。

 

たまに試合を見に行く。

 

観客席の端で、誰にも気づかれないようにスケッチブックを開く。

 

侑の試合では、もう遠慮しない。

 

許可はある。

 

名前もある。

 

関係もある。

 

それでも彼女は、顔を描く時だけ必ず一度、侑を見る。

 

描いていい?

 

声に出さなくても、侑にはわかる。

 

コートの中から、侑はほんの少しだけ顎を上げる。

 

ええで。

 

それだけで、千景の鉛筆は走り出す。

 

ある年の秋、宮治がおにぎり屋を始めた。

 

店はまだ新しく、木の香りと炊きたての米の匂いが強かった。開店祝いの花が並び、知り合いから届いたサインや写真が壁に飾られている。

 

侑と千景は、閉店後に店を訪れた。

 

「おめでとう、治くん」

 

千景はそう言って、大きな包みを差し出した。

 

治は少し警戒する。

 

「何ですか」

 

「絵」

 

侑が横からにやにやした。

 

「ええやつやぞ」

 

「お前が言うと不安やねん」

 

治は包みを開いた。

 

中から出てきたのは、稲荷崎の抽象画だった。

 

白と赤。

 

黒い線。

 

床の光。

 

ネット。

 

跳ぶ影。

 

けれど中心にあるのは、ボールではなかった。

 

握られた米。

 

湯気。

 

誰かの腹を満たすための丸い形。

 

稲荷崎のバレーと、治の作るおにぎりが、同じ絵の中で繋がっていた。

 

治は黙った。

 

侑も黙った。

 

店内には炊飯器の保温音だけが、低く響いていた。

 

「……これ、俺?」

 

治が言う。

 

千景は頷いた。

 

「治くんと、稲荷崎」

 

「なんで俺に」

 

「大事にすると思ったから」

 

治は絵から目を離さなかった。

 

昔、侑と千景の間でうじうじしたものを無理やり押し出したのは自分だった。面倒くさい二人に呆れて、放置すると決めたこともある。

 

それでも、こうして絵を渡されるとは思っていなかった。

 

治は小さく息を吐いた。

 

「……ありがとうございます」

 

千景は少しだけ首を傾げる。

 

「飾れる?」

 

「飾ります」

 

「汚れそうなら、複製でもいい」

 

「原画は?」

 

「持って帰る」

 

「せやと思った」

 

治は笑った。

 

結局、店には複製が飾られた。

 

有名選手のサインや開店祝いの札に混じって、その絵は静かに置かれた。

 

客の中には、気づく者もいた。

 

「あれ、バレーのポスター描いてる人の絵じゃない?」

 

「ほんとだ、サイン同じ」

 

「なんでおにぎり屋に?」

 

治はそのたびに、少しだけ得意げに言う。

 

「身内みたいなもんなんで」

 

その言い方に、侑は一度だけ文句を言った。

 

「身内みたい、やなくて身内やろ」

 

治は米を握りながら、淡々と返す。

 

「お前は身内やけど、千景さんは巻き込まれた側や」

 

「なんやと」

 

「事実やろ」

 

千景はその横で、おにぎりを食べながら言った。

 

「巻き込まれてよかったよ」

 

侑と治が同時に黙った。

 

治は少し照れたように視線を逸らし、侑はわかりやすく嬉しそうな顔をした。

 

「ほら聞いたか」

 

「うるさい。米粒ついとる」

 

「取れや」

 

「自分で取れ」

 

千景はそのやり取りを見て、スケッチブックを開いた。

 

「今の二人、描く」

 

「俺かっこよくな」

 

「治くんは米の線」

 

「俺は?」

 

「うるさい金」

 

「なんやそれ」

 

「そのまま」

 

治が吹き出した。

 

侑は不満そうにしながらも、どこか嬉しそうだった。

 

年月が少し進むと、青砥千景の絵はバレーボールの世界でよく見かけるものになった。

 

大会ポスター。

 

記念冊子。

 

チームの企画展。

 

選手を直接描いていないのに、誰よりも選手の熱を描く絵。

 

線だけで跳躍を思い出させる絵。

 

色だけで歓声を聞かせる絵。

 

その作者が、宮侑の妻だと知る人は増えていった。

 

けれど千景は変わらなかった。

 

試合後の侑が帰宅すると、アトリエの床で寝落ちしている。

 

「千景」

 

「……終わった?」

 

「試合はとっくに終わった」

 

「勝った?」

 

「勝った」

 

「描く」

 

「寝ろ」

 

「勝った線、今ある」

 

「飯食ってから描け」

 

「線が逃げる」

 

「俺は逃げへん」

 

千景はその言葉に、眠そうな目を開けた。

 

「それは、いいね」

 

侑はため息をつきながら、彼女を抱き上げる。

 

「ほんま、手ぇかかる嫁やわ」

 

「ツムも手がかかる」

 

「俺のどこがや」

 

「すぐ怒る」

 

「怒らせる方が悪い」

 

「すぐ嫉妬する」

 

「してへん」

 

「絵に」

 

侑は黙った。

 

千景は侑の肩に頬を預けたまま、ぽつりと言う。

 

「でも、そこも描きたい」

 

侑は負けたように笑った。

 

「好きにせえ」

 

彼女は本当に好きにした。

 

宮侑という人間を、長く描き続けた。

 

勝った侑。

 

負けた侑。

 

怒った侑。

 

笑った侑。

 

眠っている侑。

 

指先だけの侑。

 

背中だけの侑。

 

誰にも見せない侑。

 

そして時々、あの破れたスケッチブックを開く。

 

顔の真ん中に傷が残った、怒鳴る侑の絵。

 

千景はもう、それを見ても痛みだけではなくなっていた。

 

その紙には、始まりがある。

 

壊れたもの。

 

失くしたもの。

 

戻ってきたもの。

 

全部が残っている。

 

侑はそれを見るたび、今でも少し苦い顔をする。

 

けれど千景は言う。

 

「これがあったから、今の絵がある」

 

侑は黙って、彼女の隣に座る。

 

「それでも、俺は嫌や」

 

「うん」

 

「でも、捨てろとは言わん」

 

「うん」

 

「俺が見る時は、隣におる」

 

千景は侑を見る。

 

「じゃあ、大丈夫」

 

侑はその言葉を聞いて、彼女の手を握った。

 

紙は破れた。

 

線はずれた。

 

けれど、それでも絵は残った。

 

宮侑も、青砥千景も、きっとそういうふうに続いていく。

 

バレーと絵。

 

金色の線と、白い紙。

 

体育館の音と、アトリエの匂い。

 

そしてどこかの大会会場で、また新しいポスターが貼られる。

 

そこには、跳ぶ選手の顔は描かれていない。

 

けれど見る人が見れば、わかる。

 

この線は、誰かを心から見てきた人間にしか描けない。

 

この金色は、宮侑を知っている。

 

そして宮侑は今日も、試合前にスマホを開く。

 

待ち受けには、千景が描いた最初の金色の抽象画。

 

スマホケースの内側には、白い紙と二本の手の絵。

 

侑はそれを一度だけ見て、コートへ向かう。

 

観客席のどこかに、千景がいる。

 

スケッチブックを開いて、自分を見ている。

 

それだけで、彼は今日も高く跳ばせる。

 

誰よりも鮮やかに。

 

誰よりも傲慢に。

 

妻の絵に残るほど、美しく。

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