ようこそ死んだはずの俺が行く教室へ   作:ホムンクルス至上主義者

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誕生日なので!


第8話(回想)

砂埃の舞う公園の隅。さっきまで自身を追いかけていた甲高い男の子たちの声は、今の翼にとってはどこか遠い世界の出来事のように思えた。

 

街のどこかに明るさを調整するつまみがあり、誰かがそれをゆっくりと右へ回したのだろうか。青く澄んでいた空は、橙とも紫とも言い切れない絶妙なグラデーションを醸し出している。

 

翼は自身の擦りむいた膝をそっとさすった。その手の動きと同期するように、細かな砂利がパラパラと地面にこぼれ落ち、手のひらに赤い血がにじんで広がる。

 

幼い男児が、好意の裏返しとして対象をいじくり回すのは、なにも珍しいことではない。そして、相手が寡黙であればあるほど、その行為が助長されるのもまた世の常だった。

 

七瀬翼は容姿に恵まれていた。そして物静かで内向的な性格だった。

最初は些細なちょっかいから始まった。すでに出来上がっているコミュニティのなかに放り込まれた、引っ越してきたばかりの見ず知らずの見目麗しい女子。

 

結果は目に見えていた。次第にちょっかいはエスカレートしていく。女子たちは明確に翼を避け、自らのグループに入れまいと意図的な拒絶反応を示した。男子たちの行動はもっと直接的だった。彼女を追い回し、口からは悪口を投げ、手からは物を投げ飛ばした。

彼ら、彼女らは、それが翼に何をもたらすのか、その結果としてどのような歪みが生まれるのかを予期できるほど成熟してはいない。しかし、親の目を盗んで陰で実行する程度の悪知恵は持ち合わせていた。

 

運が良いのか悪いのか、翼は大人しく、そして聡すぎた。もしも普通の子供であれば、明らかに自分を狙って物が投げられ、悪口に瀕した時点で泣き叫んだだろう。親や周囲に助けを求めるために。それこそが正常な防衛反応だ。

それでも翼は耐えた。幼いながらも、親が『しごと』という様々な『じじょう』を抱えてこの地に引っ越してきたことを察していたからだ。ここで我慢せずに泣き叫べば、両親にどれほどの心労をかけるか、彼女にはわかってしまった。

 

だから、彼女は我慢を選んだ。悔しくて、惨めで、自己嫌悪に陥りそうになっても、ひたすら耐え忍んだ。

当然、両親には心配される。『なぜそんなに泥んこまみれなのか』と。『なぜそんなに擦り傷が出来ているのか』と。だから翼は、笑顔を作って答えた。『楽しくて』と。

両親はそれに納得した。翼はお転婆な女の子、元気があって可愛らしい、と。心配していた近所の子どもたちとも、どうやら打ち解けられたようでよかった、と。

彼女は両親に抱かれ、優しくアルコールを染み込ませたガーゼで傷口を覆われる。傷跡に薬品が染みるのと同じように、両親の純粋な愛が翼の心にも染み渡っていく。この瞬間が、彼女は大好きだった。

翼も両親も満足している。自分が少しだけ我慢すれば、何も壊れない。一定の納得。

 

誰もが納得しているかのように見えた。これなら問題ないはずだった。

けれど、たった一人、それに納得しない者がいた。

 

 

「七瀬っていじめられてんの?」

 

 

松雄栄一郎。翼の近所に住む一つ上の男の子だ。新天地に来て以来、彼女にとっては何かと関わりを持つことが多い存在であったが、どこか、自分をさらけ出さないというか、達観しすぎているというか、とっつきにくさのようなものを感じていた。

 

栄一郎と翼が出会ったのは、些細なきっかけからだった。引越し当初、父親が早速職場への挨拶と諸々の準備に出かけたため、母親は翼を連れて買い物に出かけることにした。夕飯の食材と、ささやかな引越し祝いの準備をするためだ。

その道中、いくつかの遊具が設置された公園を見つけた母親は、娘をそこで遊ばせておくことにした。人通りが多く住宅街もすぐ近くにある。危険な目に遭う可能性は限りなく低いだろう。そう判断してのことだった。

 

 

「翼、お母さんはちょっと買い出しに行くから、ここで遊んで待ってられる?」

 

「いや! わたしもお母さんと一緒に行く!」

 

「一緒に来ても楽しいことはないよ? だったらここで待ってた方が、お母さん、楽しいと思うな。すぐ戻るから、ね?」

 

「……だったら待ってる!」

 

 

エコバッグを片手に、優しい微笑みを浮かべて手を振る母親を見送り、翼は手を振り返して身を翻した。公園にはたくさんの遊具があった。ブランコ、滑り台、鉄棒、砂場、それから簡易的なアスレチックまで。

内向的とはいえ、この年代で身体を動かすことが明確に嫌いな子どもなどいない。目を輝かせた翼は、早速遊具へと駆け出した。

 

数十分後。母親の姿はまだ見えない。『すぐに帰ってくる』という言葉とは裏腹に遅れる時間に翼の心は徐々に曇り始めていった。

もしかしたら、このまま帰って来ないのではないか。途中で事故に遭ってしまったのかもしれない。私を置いて、どこかへ行ってしまったのでは。

ネガティブな思考ばかりが彼女の頭を埋め尽くしていく。大人にとってはたった数十分。それでも、幼い彼女にとっては膨大な時間であり、決して()()()と言えるものではなかった。

そんなはずはないと振り払おうとしても、薄暗い思考は頭の中で反芻し続ける。次第に、視界が涙で滲んできた。

 

 

「……っ、……ぅ……!」

 

「……、……っ、あ……」

 

「――っ、ひぐっ、……、……ッ!!」

 

 

考えたくない。それでも、考えなければいけない気がする。相反する思考が脳の回転を止め、事態をさらに悪化させた。

次第に足腰から力が抜け、まるで全身の骨が抜けてしまったかのように、ストンと地面に崩れ落ちた。

黒い蟻が素足を伝っていることなど気にも留めず、翼は泣き続けた。

公園のすぐ横、大通りを行き交う大人たちは皆、一瞬だけ彼女に目を向けるものの、気まずそうに視線を逸らして通り過ぎていく。

 

 

「……ひっ、ふ……あ、う……っ」

 

 

ポロポロと頬を伝った涙が顎のラインから滴り落ち、砂利の鋭角にぶつかって、四散する。

 

 

「おとうさん、おかあさん……っ! どこ、どこなの……っ!」

 

 

その時だった。

 

 

「どうしたの、迷子? はぐれちゃったの?」

 

 

突然、すぐ横から、機械的とも未来的ともつかない、それでいてどこか不思議な落ち着きを持った声がゆっくりと耳に届いた。

思わず顔を上げる翼。涙で霞む視界を向ければ、そこには中腰になり、こちらを覗き込むようにして困ったような顔をした男の子がいた。目のあたりまで伸ばした青い髪を横に軽く流した、翼と同世代に見える少年。幼いながらも、端正な顔立ちをしていると翼は直感した。

 

 

「それで、どうなの?」

 

 

またも、無機質さと人間味のある優しさが奇妙に混ざり合ったような声が投げかけられる。少年の困り顔はさらに深まっていた。

誰かが自分を気にかけてくれた、心配してくれたというその事実が、かえって翼の涙に拍車をかけた。

いよいよ困り果てた様子の少年は、激しく嗚咽を漏らす翼の小さな背中を、ただ静かに、優しくさすり続けた。

そこに言葉はなかったが、その一定のリズムを持つ手の温もりは、翼の震える心を徐々に、けれど確実に沈めていった。

 

 

 

 

 

 

 

「へー、お前4歳なんだ。俺の一個下じゃん」

 

 

男の子らしく、危険も顧みないスリルと爽快感を楽しむように、勢いよくブランコを漕ぎながら栄一郎が言った。

 

 

「『お前』ってやめて! わたしは七瀬、七瀬翼。あなたの名前は?」

 

 

すっかり落ち着きを取り戻した翼は、涙の跡で真っ赤になった顔を顰め、鋭く抗議した。その言葉とは裏腹に彼女自身は弱い風に靡くような緩やかな速度でブランコを漕ぎ、その揺れを楽しんでいた。

 

 

「ごめんごめん、七瀬……? 七瀬って聞いたことないな。この近くに住んでるの? あと、名前は松雄栄一郎。適当に呼んで」

 

 

「松雄……松雄さん……うぅん、最近引っ越してきたの。だから、ここがどこかもわからなくて……」

 

 

「なるほどね。知らない場所で一人は怖いもんな。なら、ここら辺案内しようか? 家が近いから、俺はこの辺詳しいぞ」

 

 

胸を張る栄一郎。さっきまでのぎこちない空気はどこへやら、自信ありげに言ってのける。

買い物を終えた母親が迎えに来るまでの短い時間、見知らぬ地で同世代の男の子と会話に興じていた翼の脳内からは、先ほどまでのネガティブな思考は綺麗に消し去られていた。

 

帰路の途中、かなりの近所に住まいを構えていることが判明した二人が、顔を合わせれば挨拶を交わし、言葉を交わすようになるのは当然の流れだった。

 

 

 

 

そんな出会いだった。新天地において、両親の次にぎこちないながらも、確かな関係性を築いていた存在からの突然の問いかけに翼はビクリと身体を震わせて栄一郎を見つめた。

 

 

「いじめられてないです! 遊んでいただけです!」

 

 

弁明するように、勢いよく言葉を弾き出す。悪いことをしているわけでもないのに、なぜか負い目のようなものを感じていた。

 

 

「い〜や、いじめられてたね。あれをいじめじゃないって言うなら、なんて言うんだよ」

 

「……見ていたんですか……松雄さん」

 

 

翼の声が微かに震える。

彼は怒っているわけでも、面白がっているわけでもない。ただ、なにかを観察する学者のような冷徹な目でじっと自分を見ていた。その自分を見せないスタンスが、子どもながらに少し怖かった。

 

 

「……言うんですか、私の両親に……」

 

「まあ、おばさんとおじさんには良くしてもらってるしな。可愛い可愛い娘さんがいじめられてるなんて聞いたら、心穏やか、とはならないだろうね」

 

 

その言葉に、翼の胸はさらに締め付けられる。

 

 

「言うか言わないかは、七瀬次第、かな」

 

「……私……次第、ですか……?」

 

「そう、七瀬次第。まずは話を聞かせてよ。俺はさっきまでの光景を見てただけだからさ」

 

 

栄一郎に促され、翼はぽつりぽつりと、事の経緯を言葉にしていった。

その間、栄一郎は『へー』とか『うわ』とか、どこか軽薄で単調な相槌を打つだけだったが、その表情だけは何かを深く思考するように固まったままだった。

 

 

「……七瀬は、やられたままで良いのか? 家の事情を考慮して、我慢するだけが唯一の選択肢なわけ? 一度でも、他の選択肢がないか考えたことはあるの?」

 

 

栄一郎は、それまでの軽薄さを削ぎ落とした、メリハリのある声で疑問を並べ立てた。その疑問は翼の心をえぐり取る。

 

 

「……そんなこと……そんなこと言われなくても考えたことはありますよ! お母さんやお父さんに言ったり、逃げたり、無視したり! でも、そのどれもが周りに迷惑をかけることになるんです! だったら私一人が我慢した方が良い! ……たくさん……たくさん考えた結果がこれなんです! 分かったようなことを言わないでください!」

 

 

ダムが決壊したかのように、翼は強い言葉をぶつけた。

その間も、栄一郎は仏頂面を崩さない。

 

 

「……すみません、言い過ぎました、松雄さん。……ただ、絶対にお母さんやお父さんには言わないでください。でないと、絶対に許しません」

 

数秒の沈黙の後、自身の放った言葉の鋭さを自覚したのか、翼は消え入るような声で謝罪した。居たたまれなさに気まずい表情を浮かべ、彼女が栄一郎に背を向けて歩き出そうとした、その時。

 

 

「七瀬。分かった気になってるのは、お前だろ」

 

「え……」

 

「だから、分かった気になってるのは七瀬、お前だよ」

 

 

翼は思わず、もう一度彼の方へと振り返る。

 

 

「七瀬、お前は自分で考えたつもりになってるだけだ。いや、『考えたんだ』って思い込みたいだけだろ」

 

「……どういう意味ですか?」

 

「七瀬、お前は自分勝手のくそ野郎だよ。周りに迷惑がかかるから? だから自分だけが我慢して調和を乱さない? 本当に自分だけ良ければ良いんだね」

 

 

栄一郎が眉間に深く皺を寄せる。

 

 

「よく考えろよ、あっちの視点になってみろ。あっちはお前を好んではぶいて、嫌がらせをしてるんだ。どう考えても迷惑をかけてるだろ、お前に。七瀬、お前の中の『周り』にお前自身は入ってないのか? お前だけは、迷惑をかけても良い存在なのか? そうじゃないだろ。お前だけが我慢してやる必要なんてどこにもない」

 

「……私は、私の中の『周り』じゃないです。私は、私です」

 

「なら、お前の周りを見ろよ。お前のそのクソみたいに汚れた服を洗ってるのは誰だ? 怪我の処置をしてるのだって、どうせおばさんかおじさんだろ。ガーゼやアルコールを買ってるのは誰だ? それを作ってるのは誰だ?機会費用…いや、本来それらを買わずに余っていたはずのお金や時間で、得をしていたはずの人は誰だ?」

 

「……そんなの、屁理屈です」

 

 

 絞り出すように、翼は言った。

 

 

「そうだよ、屁理屈だ。でもな、世界でお前一人だけで完結してることなんてあり得ねぇんだよ。回り回って、必ず他者に結びつく。完全なる個なんて存在しない。絶対に何らかの因果を持ってるんだ」

 

 

栄一郎は一度周囲の景色を見渡し、再び翼へと視線を戻した。

 

 

「七瀬、お前は勘違いしてる。自分は独立した一個の存在だと。だから個である自分が損をしても我慢して『周り(多数派)』が得をするなら、総和の問題でそれが正しいって? 功利主義の学者気取りかよ。前提がそれだから、いくら考えても意味がないんだ。お前が泣けば悲しむ人がいる。お前が苦しめば胸を痛める人がいる。お前が辛いなら、同じように辛い人がいる。お前はそれを無視したクソ野郎ってなところだ」

 

「私が……私が辛いなら、辛い人がいる……」

 

 

翼は取り憑かれたように呟いた。微かに喉を揺らす小さな声は、栄一郎の耳には届かない。

 

 

「お前の我慢は、お前の周りに我慢を強いてるのと一緒だ。お前の勝手な一存で、そいつらに迷惑をかけて良い理由になるか? ダメに決まってるだろ。なら張り合えよ、やり返せよ。どっちも『周り(集団)』なんだからさ。正義も何もない、イーブンな状態だ。それで我慢を続けてるほどお前は馬鹿じゃないだろ」

 

「でも……でも……私一人じゃ何も出来ないんです、何も思いつかないんです……」

 

「この期に及んで、未だに自分一人しか見てないのかよ。なんで周りを頼らないんだ。いくらでも頼れる人物はいるだろ。おばさん、おじさん、俺の父さんだってそうだ。それに、お前は子どもだろ。助けを求めれば誰だって助けてくれる。その特権を腐らせるなよ。盛大に使えばいいんだ」

 

「……松雄さんだって、子どもです」

 

 

翼がそう口にした途端、二人の間にどこか間の抜けた空気が流れた。彼女は気まずそうに、背中の後ろで指先をいじる。

 

 

「……俺はいいんだよ。ほぼ大人みたいなもんだろ。それに、何も困っちゃいないしね」

 

 

栄一郎は仕切り直すように、少し照れ隠しを含んだ声で続けた。

 

 

「まあ……お前の周りには良い大人が揃ってんだよ。子どもなら、ちょっとは頼ってみろよって話。いい加減、視野を広げろ」

 

 

そこには、先ほどまでの刺々しさの中に、確かに不器用な優しさが孕んでいた。

 

 

「頼って……頼っていいんですか、私が」

 

「ああ、良いんだよ。全てを一人で背負おうとするな. 常に前だけを向くな、常に進もうとするな。たまには立ち止まって、右も左も見てみろ。後ろだって見たっていいんだからさ」

 

「……」

 

 

静寂が、今度はさっきまでとは違う温度を伴って二人の間にじっとりと居座った。

栄一郎の言葉は翼の頑なな輪郭を優しく、けれど確実に侵食していく。向けられた真摯な眼差しから逃れるように彼女は視線を泳がせ、最後に自分の膝の上でぎゅっと握りしめられた拳へと落とした。

 

 

「……ずるいですよ、そういうの」

 

 

 翼の口から、ぽつりと掠れた声がこぼれた。

 

 

「頼るのはずるくないだろ、当たり前のことだ」

 

「……松雄さんのバカ」

 

 力のない拳が栄一郎を襲う。

 それはパチンと軽い音を立てて、栄一郎の一回り大きな手のひらに収まった。

 

 

 泥だらけの少女と、青い髪の少年が、夕陽を背に家路につく。

 

 

「……松雄さんは、私が泣けば悲しんでくれますか? 私が苦しめば胸を痛めてくれますか? 私が辛いなら、同じように辛いと思ってくれるのでしょうか」

 

「……さあね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

数日後。二人はまた、あの公園の前にいた。

 

 

「それで……頼るのがおばさんでもおじさんでも、俺の父さんでも他の大人でもなく、俺なわけ? もしかして、あんまり心に響かなかった?」

 

 

げっそりとした顔で投げかける栄一郎に、翼は静かに微笑んだ。

 

 

「しっかり私の心に届いていますよ。私を駆り立てたのは松雄さんです。私を変えたのも松雄さんです。それなら、その責任を取ってもらわないとダメだと思った次第です」

 

「見事な責任転嫁だな、おい」

 

 

彼は腕を組んでハァと大きなため息を漏らす。面倒くさそうにしてはいるが、その表情の裏には、微かに頼られたことへの喜色が見え隠れしているようでもあった。

 

 

「松雄さんは、屁理屈の方が得意ですもんね」

 

「……それで、あの子たちだよね。七瀬をいじめてるの」

 

 

翼の皮肉をさらりと受け流し、栄一郎は視線を砂場へと向けた。自身もまた、ずんぐりむっくりとした体型であるにもかかわらず、まるで彼らを遥か年下のように扱う物言いだった。

 

 

「そうですね」

 

「とりあえず俺は行くわ。目に入らないようにだけ気をつけろよ」

 

 

砂場で丸い円を作り、コソコソとこちらを見ながら喋っている少年少女の集団。それを横目でチラリと確認した栄一郎は小走りで立ち去り、公園の裏手へと回り込んだ。

 

翼が栄一郎の背中を目で追い、その姿が完全に見えなくなった、その時。

 

 

「ほんと、こりない子ね〜!」

 

「ほんとほんと〜」

 

「お前、また来たのかよ」

 

「お, あいつまた来てんじゃん」

 

 

砂場から立ち上がった子どもたちが、口々に生ぬるい言葉を吐き散らしながら、翼へとジリジリと詰め寄ってきた。その片手には、それぞれ泥団子が握られている。

 

 

「何か、私がここに来て不都合があるのでしょうか」

 

「その、おとなのマネみたいな言葉、ほんとキライなの……よっ!」

 

 

翼が答えるのと同時に、集団の一人から泥団子が放たれた。それは彼女の身体のど真ん中に、容赦なく命中する。

 

 

「ギャハハ、クリーンヒット〜!」

 

「ちょっと〜、それを言うならストライクだよ」

 

「すごすぎ〜!」

 

「みんなもやろやろ!」

 

 

リーダー格の少女は、砂場にいた他の少年少女たちを手招きした。

悪いことなどしているとも思っていないような、純粋ゆえに酷く濁った瞳で、大勢の腕が翼へと向けられる。

 

 

「こんな……こと……して……っ、タダで済むと……でも……」

 

 

翼は両腕を前に組み、必死に顔を守った。コントロールを失った泥団子たちが、彼女の脚、肩、腹、あらゆる場所に容赦なく着弾していく。

たまらず翼は振り返り、駆け出した。

 

 

「秘技!めかくしのジュツ!」

 

 

調子に乗った一人が、足元の砂利を掴んでスナップを利かせて投げつけた。だが、それは翼には届かず、突風にあおられて自分たちの元へと舞い戻る。

 

 

「ちょっとアンタ! 目に入ったんだけど!」

 

「さいあく〜!」

 

「サイテイ!!」

 

「何してんだよ!」

 

「ギャハハ!」

 

 

内輪揉めを始めながらも、彼らはターゲットを見失うことなく、逃げる翼を追いかけた。

 

 

「キャッ!」

 

 

不意に翼の足がもつれ地面に転倒した。硬いコンクリートが彼女の柔肌を容赦なく擦り、赤い血を滲ませる。白い肌に、泥の黒と血の赤という痛々しい色彩が同居した。

 

 

「いたたた……」

 

 

転んだ少女を待ってくれるほど、退屈な遊びに飢えた子どもたちは甘くない。それどころか、格好の標的としてしか捉えていなかった。

 

 

「あはは、転んでる〜!」

 

「オレの秘技のおかげってやつだな!」

 

「チャンス! やっちゃえみんな!」

 

 

心配の欠片もない言葉の暴力を浴びせながら、全員が再び泥団子を振りかぶる――。

 

 

「イタッ!」

 

「キャッ」

 

「うわっ」

 

「いってぇ……」

 

「何だこれっ!?」

 

 

まさに今、一斉に投擲が行われようとしたその瞬間、想定外の方向から容赦ない牽制が飛んできた。緑色で、トゲトゲとしていて、ずっしりと重い塊が。

 

 

「お前らに一つアドバイスだ。人為的に作る泥団子なんかよりも、自然物の雑草の方が遥かに強いんだよ。ほら! これが本当の、『めかくしの術』ってやつだ!」

 

 

植栽枡(しょくさいます)を遮蔽物にして身を隠していた栄一郎が、土のついた爆弾を次々と投げつける。容赦なく、驚異的なスピードで。

子どもの一人の服に激突したそれは、瞬時に弾けて四方に飛び散った。目、口、耳、首元、服の中、至る所へと容赦なく土が侵入していく。被害は一瞬にして集団全体へと拡大した。

 

 

「オマエ、何すんだよ!」

 

「サイテー!!」

 

「アンタ誰よ!」

 

「お母さんに言うから!」

 

「おきにいりの洋服なのに……」

 

 

さっきまでの強気な姿勢はどこへやら、すっかり萎びた稲穂のように愕然とした表情を浮かべる子どもたち。今にも泣き出しそうな気配だった。

 

 

「ちょっと待ってくれよ……俺はいじめが好きじゃないんだ。やり返してくれないと、後味が悪いだろ……?」

 

 

それは栄一郎の本音でもあった。さっきまで満面の笑みでピッチングマシーンのごとく雑草を放り投げていた彼は、相手の戦意を見て急激にトーンダウンした。

栄一郎は妙に真面目だった。一方的な攻撃は()()()であり、双方の攻撃があって初めて()()()として成立する。その奇妙な美学を遵守していたのだ。

 

ドスっ!

 

一人が、意地になって泥団子を投げ返した。それは惜しくも栄一郎の隠れる植栽枡(しょくさいます)に当たって砕ける。

だが、その一投が合図となった。再び一斉に、泥団子が宙を舞い始める。

 

 

「そうじゃなくっちゃ! 張り合いがないねぇ!」

 

 

遮蔽物を巧みに使い、向かってくる人工物を避けながら、栄一郎はニヤリと笑った。

 

 

「おい七瀬! お前も見てるだけじゃなくて参戦しろ! このままじゃ負けちまうぞ!」

 

 

栄一郎は笑顔を浮かべながら、呆然と立ち尽くする翼に向かって声を張り上げた。そして即座に次の雑草をさらに引き抜き、集団へと投げつける。またもやクリーンヒットだ。

 

 

「え……」

 

 

翼は、突如として目の前で始まった投擲バトルに目を奪われていた。さっきまで自分を追い詰めていた彼らの視線は、今や完全に栄一郎へと釘付けになっている。

 

 

「松雄さんが……負ける……!」

 

 

血のにじむ膝はヒリヒリと痛んだが、翼の胸に宿った何かが彼女の身体を突き動かした。

自分が動かなければ、関係のない松雄さんがターゲットになってしまう。そこまで思考が至った時、ただ立ち尽くして見ていることなど、彼女には到底できなかった。

駆ける。痛みなど忘れたように、栄一郎の元へと走る。

 

遮蔽物の陰に滑り込み、栄一郎の背中に触れた。

 

 

「七瀬、お前は俺がいじめられても良いと思ってるわけ?」

 

「そんなこと……ないです! いじめられるなら、私だけでいいんです!」

 

「何も変わってないじゃんか、それ」

 

 

栄一郎が深いため息を漏らす。その間も泥の塊が放物線を描いてすぐ近くに着弾していた。

 

 

「いつまで黙って、自分を犠牲にし続けるつもりだよ。いい加減に向き合えよ、正面から」

 

 

まるで映画の主人公のような熱を帯びた声で、栄一郎は翼を見つめた。その手には、土がたっぷりとついた雑草が握られている。それを翼に差し出した。

 

 

「え……?」

 

「投げろ、七瀬」

 

「いや、私は……」

 

「いいから、いいから」

 

 

そう言うと、手に持つ雑草を無理やり押し付けた栄一郎は翼と場所を入れ替え、彼女の背中を優しく押した。

 

 

「一回投げてみろよ。何か、変わるかもしれないだろ」

 

「……」

 

 

不安そうな面持ちで栄一郎を見つめていた翼だが、意を決して小さく頷いた。

 

 

「……えいっ!」

 

 

翼の手から放たれた緑の爆弾が、綺麗な放物線を描いていく。まるで周囲の音が消え去ったかのように、時間が極限まで引き延ばされる感覚。反撃に興じていた子どもたちも、なぜかその軌道に目を奪われていた。

 

ドサッ。

 

 

「キャッ!!?」

 

 

それは、集団のリーダー格の少女の顔面に直撃した。日焼けを知らない白く幼い顔が、一瞬にして黒い土に染まる。

 

 

「あ……」

 

 

翼の表情に、居たたまれなさと、どこか高揚した複雑な感情が入り混じる

 

 

「……やったわね、あんた!」

 

 

顔を拭った少女は怒りを爆発させ、泥の爆弾を翼に向けて全力で投げ返した。

 

バサッ。

 

 

「キャッ!」

 

 

翼は一瞬狼狽した。やはり、やってしまった、と。

 

 

「ほら、次」

 

 

後悔を露わにする翼を尻目に、栄一郎は淡々と次の雑草を引き抜き、彼女の手へと握らせた。彼の足元には、まるで農家のように大量の雑草がストックされている。補給は完璧だった。

 

 

「立ち向かわなきゃ、今までと何も変わらないままだぞ。もうスタートを切ったんだ、戻れないぞ」

 

「……っ!」

 

 

新たな武器を手渡された翼は、今度は無言でそれを放った。

またもやクリーンヒット。それに応じるように、向こう岸からも泥の爆弾が次々と飛んでくる。今度は上手く身をかわし、爆弾は二人のすぐ後ろで炸裂した。

 

 

「やりやがったな、アイツらー!」

 

「やり返せ、やり返せ!」

 

「オレがどろだんご作るから、オマエが投げろ!」

 

 

翼とリーダー格の少女の一騎打ちを発端として、戦場はさらに熱を帯びていく。

 

 

「ほら、次だ!」

 

 

栄一郎がまた緑を渡す。

翼はそれを力強く受け取り、迷いなく投げ飛ばした。そこにはもう、かつての躊躇など微塵もなかった。

 

二十分が経ったか、あるいは三十分が過ぎた頃。

すっかりエネルギーを消耗し尽くした両陣営は、ゼーハーと激しく息を切らしながら、互いに膝に手をついていた。ただ一人、栄一郎だけが黙々と雑草を抜き続けている。

 

周囲のコンクリートには、泥や雑草、土が激しく散乱し、まるで土足で家に上がった時のような様相を呈していた。

 

 

「あんた……っ! やるじゃない……」

 

「あなたこそ……!」

 

 

前線で戦った二人が短い言葉を交わした。双方の顔には、すべてを出し切ったような、奇妙な満足感と笑みが浮かんでいた。それは彼女たちだけでなく、その場にいた全員が共有している空気だった。

 

 

 

 

「お前ら、何をしてるんだあああああああああああ!!」

 

 

突如、背後から怒号が響き渡った。

全員の身体が硬直を強め、一斉にそちらへと視線を向ける。

 

 

「やべっ、清掃員さんじゃん!」

 

 

栄一郎が小さく呟いた。その言葉は瞬時に敵方にも伝播していく。

 

 

せいそういんさんだって!  

ヤバい! こわいおじさんだ!

お母さんに怒られる!  

バレたらゲームぼっしゅうだ

 

 

どうすべきか全員が困惑する中、最も早く動いたのは栄一郎だった。

 

ガシッ。

 

 

「七瀬、逃げるぞ! 戦略的撤退ってやつだ!」

 

「えっ!?」

 

 

土のついた手を大雑把に払い、翼の小さな手を容赦なく掴み取る栄一郎。

彼は翼の羽毛のように軽い身体を引っ張るようにして、一目散に住宅街の路地へと走り出した。

それを見た他の子どもたちも、蜘蛛の子を散らすように、あらゆる方向へと一斉に散らばっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ハァ、ハァ、ハァ……。

 

 

「……ここまで来れば、大丈夫か」

 

 

周囲を見渡しながら、栄一郎が息を整えた。住宅街の開けた十字路。ここならどの方向から誰が来ても、すぐに視認して対処できる場所だった。

 

 

「なあ七瀬、立ち向かうのもたまには良いだろ?」

 

 

にこりと笑いかける栄一郎。しかし、翼は俯いたまま、いっこうに顔を上げようとはしなかった。

 

 

「どうした? 傷でも痛むか? ……あ、そうか、傷だ! 早く消毒しないと。女の子を傷物にしちゃダメだってのに」

 

 

今更ながらに気づいた栄一郎が、慌てて周囲をキョロキョロと見渡す。だが、そんな十字路に都合よく絆創膏や消毒液が落ちているはずもない。

 

 

「早く家に帰ろう。水で洗い流さないと膿んじまうかもしれない」

 

 

 

 

「……何だよ、ずっと黙り込んじゃってさ。寝てんのか?」

 

 

さすがにリアクションのなさにしびれを切らした栄一郎が問いかける。

 

 

「……手……」

 

「手? 汚かったか? 悪い、気が回らなかったな」

 

 

栄一郎は素直に手を離し、パンパンと自身の両手を叩いた。一粒も乾いた土の粒子は地面に落ちなかった。

その光景を、翼はほんの少しだけ顔を上げ、どこか恨めしそうな、不満げな眼差しで見つめていた。

 

 

「……んっ」

 

「何だよ、握手か?」

 

 

その意図を測りかねた栄一郎は、それを純粋な握手の要求だと解釈した。

 

 

「……もう良いです。帰りましょう」

 

「何だよ急に不機嫌になりやがって。こっちは面倒事を解決してやったってのにさ」

 

 

差し出した手をパシッと払いのけられた翼は、栄一郎に背を向け、一足先にスタスタと歩き始めた。

 

 

「膝だけはしっかり水で洗ってから消毒しろよ、七瀬。その歳で痕にでもなったら悩ましいだろうからな。まあ、若い時は再生が早いから心配ないだろうけど」

 

 

またも自分は子供じゃないかのような言葉を投げる栄一郎。

翼の自宅の玄関前まで送り届けた彼は、偉そうにそんなアドバイスを口にした。

 

 

「分かっています。……そんなに心配してくださるなら、転ぶ前に助けてくれればよかったのに」

 

 

ぶっきらぼうに返事をした翼は、くるりと反転して扉を開ける。

ボソリと付け加えたその小さな恨み言は、栄一郎の耳には届くことなく、夕暮れの風にさらわれて空へと消えた。

 

 

「……今日は、今日はありがとうございました! 松雄s……栄一郎……君!」

 

 

またもやクルリと振り返った翼は、精いっぱいの声を張り上げてお礼の言葉を告げた。

 

 

「気にすんなって。また困ったことがあったら、気負わずに言えよ。どうにかしてやるからさ」

 

 

ヒラヒラと片手を振り返し、栄一郎は言い終えると同時に踵を返し自邸へと向かって歩き出した。そこには余韻もへったくれもない。だが、その不器用で、どこか決定的に鈍感な態度こそが、翼にとっては酷く心地よいものだった。

 

その日を境に、翼は少しずつ緩やかに同学年の輪へと馴染んでいくことになる。

彼らとて、悪意の塊となって一人の人間を完全に潰したいわけではなかったのだ。子どもの残酷さは、ある種の好奇心と少しの排他心によって増幅される。しかし、相手が明確な意思を持って正面から立ち向かい、やり返してくるのであれば、わざわざその不毛な衝突を継続するほど愚かでもなかった。

特に、翼が集団のリーダー格の少女と直接やり合ったという事実は、劇的な効果をもたらした。それが栄一郎の用意した舞台であったか否かは関係なく、ただ一つ確かな事実があった。

 

 

 

 

栄一郎は、確かに翼を掬い上げたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「栄一郎君、今日は栄一郎君の家に行っても良いでしょうか?」

 

「うお…急にグイグイ来るな……まあ良いけど、何するつもりなんだよ」

 

「何もしませんよ。ただ、栄一郎君から学びたいだけです」

 

「その『君』呼び、最近の流行りか何かなわけ?」

 

 

 

 

 

 

翼の瞳の奥で静かに、けれど確実に、小さな火が灯った。

それは栄一郎という存在へ対する、底知れない執着の始まりだった。

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