スラムの子、コツコツ金稼ぎ 作:雨雲ばいう
「ア、アスクレイ、め、飯にしよう」
毛むくじゃらの大きな腕に抱きよせられる。
目を下にやると、いつもよりもずっと小さな己の手。
顔を上げると、毛深くて、しかしとても優しそうに笑う大男の顔。
気づく。
これは、かつての記憶だ。
目を閉じている時だけ、目にすることのできる在りし日。
母が殺された五才の時、ほんの一瞬だけ知ることのできた温もり。
たった六月だけの、家族ごっこだ。
◆◆◆◆◆
雨の夜。
頭のおかしな客に母を殺されて、二日後のこと。
五才のアスクレイは、一人だった。
水たまりをさけながら、あてもなく夜の暗黒街を歩く。
母が殺されたというのに、アスクレイはちっとも悲しくはなかった。
ずっと暴力をふるわれ、すでに情という情は枯れている。
警官も娼婦の殺人などどうでもいいのか、亡骸に一目くれたきり。
犯人は捕まったかどうかも知らない。
だが、そんなことはどうでもよかった。
五才のアスクレイの頭を占めていたのは、ただひとつ。
飯と、家。
母が亡くなって、借金とりや娼婦たちがハゲタカのように金目のものに集ってきた。
アスクレイは家を追われ、残されたのはわずかなボロ布だけ。
これで、生きていかなかればならない。
一人ぼっち、誰も頼れない、そのはずだった。
「ア、ア、アスクレイ!」
バシャバシャと泥水がはねあがる。
走ってきたのは、ジョンドッグ。
母の客のひとりだった。
アスクレイはジョンドッグのことをよく知っていた。
なにしろ、実に馬鹿な男だったからだ。
母と初めて会ったのは、とある荒れたパブでのこと。
娼婦と知らず、母の誘い文句を信じこんでしまった。
愛してる、だの。運命の人、だの。
紙きれよりも軽い言葉。
それだけで、娼婦に入れこんでしまった男こそが、ジョンドッグだった。
不幸は続く。
ちょうどその時にアスクレイが産まれた。
母はここぞとばかりに、ジョンドッグの子だとうそぶいた。
ほんとうは誰の子かもわからないのに。
だが、ジョンドッグは信じた。
信じて、しまったのだ。
それからは母に言われるがままに金を稼ぎ、貢ぐ日々。
アスクレイの養育費という名目のそれは、母のアルコールとなった。
アスクレイは、みんな知っていた。
みんな知っていて、黙っていた。
教えたとして、どうなるというのか。
ジョンドッグは優しかったが、救いようのないほど馬鹿だった。
「お、お、おっ母さんはどうしたんだ」
「殺されました」
淡々と、アスクレイは語った。
なにを勘違いしたのか、ジョンドッグは泣きながら抱きしめてきた。
「辛かったなあ、おとうがそばにいれなくて、ごめんなあ……」
アスクレイは、ほとほと呆れ果ててしまった。
まだ、己が父親なんて嘘を信じているのか。
そうして、アスクレイはジョンドッグにひきとられた。
「オ、オレの子どもだ、オレが育てなきゃ、オレが食わせなきゃなんねえ」
どこか嬉しそうに語るジョンドッグ。
アスクレイは、ひたすら黙りこんでいた。
食わせてくれるのなら、文句などなかった。
◆◆◆◆◆
それからの暮らしはわびしいものだった。
ジョンドッグの家は川岸に建てられたあばら家。
雨が降れば水滴が滴り落ち、嵐となれば風が吹き荒ぶ、そんな家だった。
食べものだって、そう違いはない。
売れ残りのパンに、しなびた豆のスープ。
肉など目にしたこともない。
唯一の楽しみといえば、日曜の夜に口にする、魚のフライだけ。
もちろん、アスクレイも働いた。
煤はらいと言って、家のえんとつに潜りこみ、きれいにする稼業だ。
背丈の小さな子どものうちにしかできない労働で、もちろん危ない。
足をすべらせて落ちる子どもが絶えなかった。
運が良ければ足の骨を折るのですむが、ほとんどは命を落とす。
ジョンドッグは気に入らないようだったが、どうしようもない。
炉に鉱石を入れるだけの、単純労働。
それだけで己と子ども一人を養えるほど、暗黒街は優しくなかった。
◆◆◆◆◆
ゆらゆらゆれる、鯨油ランプの灯り。
このランプに火を灯すのは、日曜の夕食だけということになっていた。
金がなくて、クジラの油ですら手に入らないから。
「す、すまねえな。せっかくオレが育てるって言ったのに、こんな貧乏でよ」
か細い灯りに照らされ、ジョンドッグの巨躯が申し訳なさそうに縮こまる。
アスクレイは、手につかんだカレイのフライを食いちぎった。
売れ残りしか手に入らなかったのだろう、湿っていて、濡れた新聞紙のようだ。
ジョンドッグは、そんなアスクレイに恐る恐る目をやる。
「……謝らなくて、いいです」
アスクレイは、怒ってなどいなかった。
とどのつまり、これが暗黒街で生まれた人々の運命なのだ。
一日先すらわからない、深い闇を走って。
不運に足をすくわれた者から、命を落としていく。
馬鹿なジョンドッグが、どうにかできる話ではなかった。
むしろ、アスクレイは心地いいとすら思っていた。
母のもとで暮らしていた時は、ずっと脅えていた。
いつその拳がふるわれるか、常に気をつけなければならなかった。
母はアスクレイのことを愛していなかった。
憂さ晴らしのおもちゃとしか、考えていなかっただろう。
「今のほうが、幸せですから」
これから先のことはわからない。
馬鹿で、言葉も下手で、稼ぎもよくない。
だが、それでもジョンドッグはアスクレイを気にかけてくれていた。
「お、おお、オレは幸せもんだ、こんなエエ息子をもって、オレは……」
ジョンドッグが安いジンをグイッと飲み干す。
「いつか、すんげえレストランにつれてやってやる、いい店を知ってんだ」
またその話か。
アスクレイはげんなりする。
酔うたびにジョンドッグの口にする、レストランとやらのたわ言だ。
先週も、そうやって酔いつぶれてしまったというのに。
アスクレイは呆れた顔をしていると、やはりというべきか。
しばらくして小さな寝息が聞こえてきた。
ため息をついて、アスクレイは毛布を手にとる。
そして、ゆっくりとジョンドッグの肩にかけた。
「……おやすみなさい」
そう言い残し、そっとランプの灯りを落とした。
◆◆◆◆◆
それから三日後。
その晩、ジョンドッグがあばら家に帰ってくることはなかった。