スラムの子、コツコツ金稼ぎ 作:雨雲ばいう
「ジョンドッグという人は、ここにいますか」
「ん? ジョンドッグ?」
アスクレイの問いかけに、メガネをかけた医師が首を傾げる。
あくびをしながら、ペラペラと書類をめくっていった。
「なるほど、昨晩運びこまれてきた男か。会いにきたのかい」
アスクレイが黙って頷くと、医師は重い腰を上げる。
「よし、ではいこうか」
アスクレイが訪れたのは救貧院。
国が作った、かたちばかりの貧者のための家だ。
◆◆◆◆◆
虚ろな瞳の人々が、ベッドの上でうめく。
手足をみな失った男、欠けた目を探し続ける女、ひたすらに頭をかきむしる老人。
病室のはしでは、命を失ったのだろう病人たちが薪のように積まれていた。
「まったく、にぎやかで困るよ」
医師がにこやかに笑う。
「……」
その地獄絵図の奥、ひときわ闇の深い一室。
包帯でグルグル巻きにされた、男が一人。
「これがジョンドッグのはずだ。顔は……、目にしないほうがいいだろうね」
血のにじむ包帯をつつきながら、医師が顔をしかめる。
ジョンドッグは、足をすべらせて炉に落ちたそうだ。
ほかの労働者たちがひき上げた時には肌はただれ、もう人の顔ではなかった。
「生きてるのが不思議なぐらいだよ。いつ息絶えてもおかしくない」
ヒュー、ヒューと包帯のうちから息がこぼれている。
そのたび、ほんのかすかに胸が上下していた。
「で、君はこのジョンドッグとやらの家族なんだろう」
「……」
アスクレイは沈黙した。
それを目にして、医師はため息をつく。
「まあ、とにかくこの人をひきとってくれないかな」
数日生き長らえるかもわからない重病人。
そのために、ただでさえ数のない病床を浪費するためにはいかない。
それこそ、暗黒街にはジョンドッグのような男は山ほどいるのだから。
「あんまりこういうことは言いたくないんだけどさ」
医師が、ゆっくりとメガネを手にとる。
どんよりとした、光のない瞳がアスクレイをみつめた。
「救うに足る命を救うのが、わたしの職務なんだ」
◆◆◆◆◆
ジョンドッグの勤め先からは、はした金が渡されたきりだった。
恐らく、この金で黙れというつもりなのだろう。
それでも、ほとんどの労働者の勤め先よりはるかに情がある。
金をくれるだけ、マシなのだ。
暗黒街の人々の命は、紙きれよりも軽かった。
「アアア……、アアアア……」
ガタガタ、ガタガタ。
ベッドの上でうめくジョンドッグに、麦粥を飲ませる。
パタタ、とこぼれる粥を、布でぬぐいとった。
炉に落ちてから十日経つというのに、ジョンドッグはまだ生きている。
そして、アスクレイが世話をしていた。
どうしてか、と問われても困ってしまうだろう。
アスクレイも、なぜ己がジョンドッグを生かしているか訳がわからないからだ。
どこかの道ばたに残してきてしまえばいい。
そうすれば、すぐに息絶える。
ほかの暗黒街の亡骸と一緒に、ジョンドッグも焼かれて煤となるだろう。
「オオオ……、ウウウ……」
「……」
アスクレイの頬は、こけている。
アスクレイ一人の稼ぎで、二人を養えるはずがないからだ。
己のぶんまで、アスクレイはジョンドッグにあたえていた。
◆◆◆◆◆
どんどんと暮らしはひどくなっていった。
パンどころか、もうくさったジャガイモぐらいしか買えない。
心ばかりの貯金はあっというまになくなった。
質に入れていって、もうあばら家には食器ひとつ残っていない。
「イイイ……、ウウウ……」
「……」
アスクレイは、小さく笑う。
あばらのういた肌。
枯れ木のような腕。
もう、終わりだった。
テーブルの上のカビたパン、それで金がつきた。
このままいけば、数日後には二人の息はないだろう。
だが、アスクレイにはどうでもよかった。
この、ジョンドッグという男のそばで死ぬのなら、それでもよかった。
「アアアウゥ! アアアウゥ!」
「……ぁ」
ジョンドッグが、うめく。
ご飯をあげなければ、とアスクレイはよろめきながら起き上がった。
おぼつかない足どりで机に歩いていく。
最後のパンを、手にとったその時だった。
「アアアアアッ!」
「っ」
いきなり飛びかかってきたジョンドッグにのしかかられる。
グジュグジュとした膿があちこちに散った。
「アアア、アアア!」
「……ジョン、ドッグ、さん」
かつて、アスクレイの頭をなでてくれた腕がその首をしめていく。
優しかった大きな手。
暖かかった大きな手。
それが、アスクレイを殺そうと首をしめていく。
アスクレイは瞳を震わせて、そして。
ジョンドッグの目がどこにあるか、気がついた。
床に転がったカビたパン。
娼婦が己の息子だとうそぶいた子どものことなど、もう頭にない。
今のジョンドッグの目に入るのは、それだけ。
たかがパンひとつ。
人を殺す理由として、まったく問題なかった。
「ウウウ、ウウウ!」
唾が顔にかかる。
考えるよりも先、アスクレイの手がなにかをつかんだ。
「あ」
そんな気のぬけた言葉とともに、ヒュッと風の音がする。
「ガフッ、ガヒュッ、ガッ……」
血が、アスクレイの顔に滴り落ちた。
首を斬られたジョンドッグが、ゆっくりと崩れ落ちていく。
血に濡れたナイフを握りしめて、アスクレイはぼうっと床に転がった。
初めての家族。
初めての人殺し。
いつのまにか手にしていたパンを、ゆっくりと口に運んでいく。
つまりは、アスクレイも、ジョンドッグも。
どうしようもないほど、人だったのだ。
◆◆◆◆◆
「……」
小さな墓を、暗黒街のすみに作った。
アスクレイだけが知る、小さな墓。
アスクレイにとってジョンドッグはたった一人の家族だった。
血がつながっているか疑わしくとも、家族だったのだ。
ジョンドッグは心からアスクレイを愛してくれた。
そのことを、今でもアスクレイは疑っていない。
ただ、情よりも命をつなぐ欲求が勝っただけで。
そういうものだ、とアスクレイは知っていた。
ここは暗黒街、人の情など一銭にもなりはしない。
アスクレイも、ジョンドッグを愛していた。
恐らく、これからもずっと。
「……おやすみなさい」
そう言い残して、アスクレイは墓のもとを去った。