スラムの子、コツコツ金稼ぎ 作:雨雲ばいう
なんだ、とアスクレイは首を傾げた。
こんな音は聞いたことがない。
骨や磁器にしては音が軽い。
鉄の鍋にしては音が小さい。
アスクレイはピッチフォークを深々と沈め、下水からかき上げた。
ヘドロにまぎれて、キラキラと輝くもの。アスクレイはそれを手にとった。
小さなガラスビンだった。
縁は銀細工で飾られ、宝石が埋めこまれている。
そのビンのうちには、ドロリとしたなにかの血が入っていた。
ただの血ではない。
まるで生きているかのように蠢き、時に泡を吹いている。
ランプにかざすと、深紅に美しく輝いた。
「……」
紅い、その血をじっとみつめる。
アスクレイは、その光に魅入られた。
寒さに震え、ひもじさに苦しむ。そんなみじめな己とは違う。
それこそ永遠に、いつまでも輝いているのだろう。
そう思えるほどその血は深く、美しかった。
いつまでもアスクレイはビンをみつめていた。
◆◆◆◆◆
「……?」
ふと気がつくと、下水に夕焼けの光がさしこんでいた。
アスクレイは慌ててビンを懐の深くにしまいこみ、下水を後にする。
夜になると狂暴なドブネズミが現れて、ろくにガラクタ漁りもできないのだ。
地上に上がった時には、すでに天には白い月が現れていた。
もう夜になってしまったのだ。
いったいどれだけあのビンをみつめていたのだろうか。
アスクレイはゾッとした。
今日の稼ぎはない。
なにしろあの謎の血の輝きにずっと魅入られていたのだから。
「はぁ……」
深いため息をこぼす。
今日はパンにはありつけなさそうだ。
もちろん、今日唯一の戦果であるあのビンを手放せば話は違うだろう。
ポケットに手をつっこみ、冷たいガラスをなでる。
しかし、アスクレイはどうしてかこの血だけは手放したくなかった。
◆◆◆◆◆
夜の街に人気はない。
細い路地を奥へ奥へと歩き、そのたびに道は暗く、荒れていく。
やがて、アスクレイは己の家、灯りひとつないスラムにたどりついた。
積み重なったレンガの家々の下に潜む細い路地。
そびえる街の栄華に隠されて日の光すらも失われた、深い闇の街。
道は下水で濡れ、ネズミやウジが蠢いている。
それがアスクレイの故郷、暗黒街。
栄華を極める王都、その奥深くに潜むスラム街だ。
この街に暮らすのは極貧にあえぐ労働者に売春婦。
犯罪が日常で、道に子どもの亡骸が転がる。
そんな、地獄だった。
「……」
人目につかないところを探す。
アスクレイには家がない。
だから、道ばたで布きれにくるまって夜をこらえるほかない。
石畳のくぼみに入りこんで、目を閉じようとしたその時だった。
路地の奥で、キラリとランプの灯りが輝いた。
「っ!」
アスクレイはすぐに飛び起きた。
人狩りだ。
夜に暗黒街を訪れては、人を捕まえて海軍や鉱山に売ってしまう者たち。
アスクレイのような、守ってくれる者のいないみなし子にとっては天敵だった。
海軍に売られれば、砲弾で頭を吹き飛ばされるまで船で火薬を運ばされる。
鉱山に売られれば、土ぼこりで肺をやられるまでトロッコをひかされる。
どちらにしろ、末路は死だ。
アスクレイはすぐに逃げた。
走る。
ただ、走る。
だが、後ろから聞こえてくる足音はどんどんと大きくなっていく。
ここ数日でカビたパンしか口にしていない結果が、ここにあった。
まだ子どもで、ろくに食べられていないアスクレイ。
人を追いかけることが稼業で、大の大人である人狩り。
どちらが足が速いかは、火をみるよりもあきらかだ。
人狩りのランプが巨大な影を路地に落とす。
「はっ、はっ、はっ……!」
焦る。
生きたい、まだ生きていたい。
アスクレイの頭にある思いは、それだけだった。
口に血の味がして、それでもアスクレイは走り続ける。
「いたぞ! あっちに逃げた!」
しかし、現実はそんなアスクレイを嘲笑う。
背後から人狩りが怒鳴るのが聞こえる。
いよいよアスクレイは追いつめられていた。
警官も、暗黒街のほかの大人も、誰も助けてはくれない。
「ふっ、ふっ」
恐怖で息を乱しながら、アスクレイは目についたあばら家に飛びこんだ。
◆◆◆◆◆
後ろ手で扉を閉じる。
一瞬の後、扉がドンとたたかれた。
人狩りたちに追いつかれたのだ。
「このボロ家に逃げこんだぞ!」
「とっとと蹴飛ばせばいいだろ、オンボロの木の扉なんだ!」
扉越しに、男たちの荒い息が聞こえてくる。
そして、すぐに扉が大きくきしんだ。
蹴りが入るたび、木くずが飛ぶ。
アスクレイは、はいつくばるようにしてあばら家の奥へと逃げていった。
奥の一室にひきこもって、アスクレイは震える。
あばら家にはひとつしか扉がないようだった。
つまり、アスクレイは袋のネズミだった。
「グズグズすんな、かわれ!」
扉から聞こえてくる音が大きくなるにつれ、アスクレイの震えも大きくなる。
人狩りに捕まれば、終わりだ。
散々働かされて、一年もしないうちに命を失う。
ただ生きたいだけなのに。
「よし! とっとと捕まえろ!」
ドン、と扉が吹き飛ぶ音がした。
人狩りたちがあばら家に雪崩れこんでくる。
もう、後がない。
アスクレイは、震える手で懐からガラスビンをとった。
そのうちで輝く血を、静かな瞳でみつめる。
この血には、不思議でどこか恐ろしい力があるに違いなかった。
もしアスクレイが助かる道があるのだとすれば。
ふたをとる。手に握ったビンを口もとまで運んで。
アスクレイは血を飲んだ。