スラムの子、コツコツ金稼ぎ 作:雨雲ばいう
「それでは、これが最後です」
オーロックが厳かに語る。
その手の上には、ここ数日飼っていたドブネズミが鼻をクンクンとさせていた。
小さな箱に降ろされると、すぐに入っていたベルにとりつく。
そして、一心不乱に鳴らし続けた。
このネズミは、ベルを鳴らせば餌がもらえると飼われてから学んでいる。
その学びこそが、これからの鍛錬で肝心だ。
アスクレイは右目の布をほどき、竜の目でネズミをじっとみつめた。
心を費やし、ひたすらにネズミを凝視する。
やがて、アスクレイの目に不思議なものが入ってきた。
ガラスビンだ。
数えきれないほどのガラスビンが、天井から吊るされている。
さらにガラスビンはたがいに紐で結ばれていて。
時折光る虫のようなものがその上を歩いていた。
ガラスビンのうちをのぞきこむと、あのドブネズミがいる。
走ったり、寝転がったり。
なかには、まだ赤子のドブネズミが兄弟とケンカしている光景まであった。
これは、記憶だ。
竜の息吹の力で目にすることのできた、ドブネズミの記憶。
それぞれの記憶を守るガラスビンをかきわけて、アスクレイはひとつを手にとった。
なんのへんてつもない、ガラスビン。
しかし、そのうちではドブネズミが一心不乱にベルを鳴らしている。
エサをむさぼる記憶の入ったガラスビンとには、数えきれないほどの紐がある。
これだ。
「狙いのものは探せましたか」
オーロックの言葉がどこか遠い。
「……はい」
アスクレイはゆっくりと頷いた。
そのガラスビンを、竜の瞳でとらえる。
一瞬の後、そのガラスビンは粉々に砕け散った。
とともに、アスクレイは現実に帰される。
先ほどまで目にしていたガラスビンの群れはどこにもなく。
いつもの、うす暗い地下室が目に入ってきた。
◆◆◆◆◆
「……っ!」
ぶわり、と脂汗が湧き上がる。
右目がすさまじい熱を秘めていて、ガンガンと頭が痛い。
うずくまりながらも顔を上げると、ドブネズミが目に入った。
あれほど熱狂していたベルを目にしても、どこか興味がない。
ぼんやりと目を宙にさまよわせ、箱のうちをウロウロと歩きまわっている。
忘れてしまったのだ。
かつての記憶、ベルを鳴らせばエサをもらえるということを。
それは実に不気味で、おぞましい光景だった。
あれほどまでに執着していたベルのことを、すっかり忘れてしまったのだ。
これが人で、忘れたものが己の生まれや名であったなら。
「これが、この老骨が知るかぎりの竜の息吹の秘奥」
オーロックが静かに語る。
「竜の力でもって、人の目には入らぬものをとらえ、それを食らう」
アスクレイの手にした竜の息吹の力はなにも違っていない。
この右目でとらえたものを食らう、ただそれだけ。
しかし、竜の力でもって目にしたものをさらに深くのぞきこむこともできる。
それこそが、オーロックが一番最後にアスクレイに教える技術だった。
「……」
なるほど、と荒い息でアスクレイは己の手を握りしめる。
これは正しく、神秘の力だ。
目にした敵を吹き飛ばす。
それぐらいのことは、威力が小さくなるもののヒトの魔術でも叶うかもしれない。
だが、これは違う。
深く深くのぞきこみ、記憶や心すらも食らうことができる。
それは、ヒトの魔術がどれほど願おうと叶わぬことだ。
人ひとりを、壊すことのできる力だ。
「精神を摩耗させ、祟りも興ります。つかいどころはよく考えたほうがよろしい」
オーロックの言葉に、頷く。
アスクレイは未だ起き上がれない。
指先がびくびくと震えて、口からはヒューヒューとかすれた息。
たかがドブネズミの記憶をひとつなくすだけで、これだけの影響。
さらに、もっとおぞましいことが。
アスクレイは、己の右手に目をやる。
そこには、竜のウロコが生えていた。
◆◆◆◆◆
アスクレイは、ハッカ入りの温かな紅茶をすする。
冷めていた臓器に、その熱が染み渡っていった。
「ほーれほーれ」
脇ではオーロックが楽しそうにドブネズミにベルを鳴らすのを教えこんでいる。
アスクレイは、それを呆れたようにみつめていた。
いったいなにが楽しいやら。
と、ふとアスクレイは己の手が気づかぬうちに右腕をさすっていたことに気づく。
それも、ウロコの生えていたところだ。
アスクレイはじっとその肌をみつめた。
先ほどまで、ここには黒黒と輝く竜のウロコが生えていた。
竜の血を飲んだ時に目にした、あの暴飲暴食の哀れな竜。
そのウロコとそっくりだ。
オーロックに聞いたことだ。
竜の息吹とヒトの魔術との大きな違いのひとつは、その祟りにあるという。
ヒトの魔術の祟りは、いわば悲鳴のようなものだという。
ヒトの身でありながら魔術を操り、竜の神秘に手をふれる。
その神をも恐れぬ業に、たえきれずに鳴らされる警鐘。
しかし、竜の息吹は、竜の血を飲んだ者は違う。
竜の血は、人に悲鳴を上げさせる暇すらあたえない。
ただひたすらに、術者を食らい、飲みこんでいく。
アスクレイを、竜に作り上げてしまおうとする。
「ゆえに、竜の息吹は正しく従えなければならぬのです」
オーロックは、そうアスクレイに警告した。
「その力に溺れれば、心まで竜となり帰ってこれなくなりまする故」
竜の息吹、その力の犠牲となるのはアスクレイその人。
一歩誤れば己が竜になるという、おぞましい結末。
予期していたことだった。
竜の息吹ほどの力が、リスクがないはずがない。
その力の秘奥と犠牲。
アスクレイが、今までもっとも知りたかったことだった。
そして。
そこまで知ったということは、アスクレイにとって。
もはやこの老人を失うのになんら未練がないということだ。
「……」
アスクレイは冷たくオーロックをみつめた。