マダム・ポンフリーは、退室を許可する時も、許可した顔をしていなかった。
「歩けるからといって、治ったわけではありません」
白いカーテンの内側で、彼女の声はよく通った。
枕元の薬瓶を片づける手つきは速い。
寝台の脇に置かれた上着とローブは、しわ一つなく畳まれている。
左腕は胸の前で固定されていた。
包帯。
固定具。
三角巾。
肩から先が、身体の一部というより、扱いを誤れば壊れる荷物のように吊られている。
まず重かった。
動かせないものが、自分の体に付いている。
その事実が、歩くたびに遅れて返ってきた。
「走らないこと。階段では手すりを使うこと。左腕を下げないこと。薬は毎日、指定の時間に飲むこと。無理に動かそうとしないこと」
「分かりました」
「分かった顔をしていますが、あなたは昨日、起き上がろうとしました」
「失敗しました」
「成功していたら、さらに怒っています」
ポンフリーの目が細くなる。
エリアスは黙った。
反論する利益がない。
カーテンの外で、ダフネ・グリーングラスが待っていた。
姿勢は整っている。
顔色も戻っている。
少なくとも、壁に崩れた時の白さではない。
ただ、視線だけが、エリアスの左腕へ落ちてすぐ戻った。
「送るわ」
「一人で戻れる」
「ポンフリー先生に、誰かと戻るよう言われていたでしょう」
「誰か、とは君のことだったのか」
「少なくとも、私では駄目だとは言われなかったわ」
会話はそこで切れた。
医務室の扉を出ると、廊下の空気は少し冷たかった。
白い布と薬草の匂いが背後へ遠ざかる。
石壁の匂い、松明の煙、遠くの生徒たちの声が戻ってくる。
そのどれもが、二日前と同じだった。
同じではないのは、胸の前に吊られた左腕だけだった。
ダフネは半歩だけ左にいた。
触れない。
支えない。
ただ、階段の手前で一度だけ歩幅を落とした。
「手すり」
「見えている」
「ならいいわ」
言い方は静かだった。
けれど、見えているだけでは足りない、と言いたげな間があった。
エリアスは右手で手すりを掴んだ。
左腕は動かない。
体の向きが少し変わるだけで、三角巾が胸に擦れる。
階段を下りる手順が変わる。
右手。
足。
視線。
左側の重量。
次の段。
一つ一つなら難しくない。
ただ、一つずつ確認しなければならない。
それが、面倒だった。
スリザリン談話室に戻った時、空気が少し変わった。
湖の底のような緑がかった光。
低い天井。
暖炉の火。
革張りの椅子。
いつもの談話室だった。
だが、視線が集まる。
露骨ではない。
グリフィンドールなら、もっと声が大きくなったかもしれない。
スリザリンでは、ざわめきは一度だけ波のように広がり、すぐに形を整える。
それでも、無関心ではなかった。
上級生がこちらを見る。
女子生徒の何人かが、小声で何かを囁き合う。
一年生の列では、ザビニが片手を上げ、ロウルが椅子から立ち上がりかけてやめた。
ケイは膝の上で手を握ったまま、口を開きかけて閉じる。
「生きてるな」
ザビニが言う。
「見ればわかるだろ」
「確認だよ。お前、最後に見た時は血まみれで倒れてたからな」
ロウルの視線が、エリアスの左腕へ落ちた。
「腕の調子はどうです」
「まだ何とも言えないな」
ケイが小さく息を吐いた。
それから、左腕を見たまま言う。
「……治るの?」
「治るらしい」
「なら、良かった」
ザビニが肩をすくめる。
「腕がくっ付いてるなら、だいたい何とかなるだろ。骨が消えても一晩で生えるんだし」
「雑だな」
「だいたい魔法界ではこんなもんだろ」
ザビニは笑った。
笑い声は大きくはない。
だが、その一言で、一年生の周囲にあった硬さが少しだけほどけた。
暖炉の近くにいたマーカス・フリントが、肩越しに振り向いた。
「戻ったか、レン」
声は大きくない。
だが、談話室の中ではよく通った。
「はい」
「教師どもも気前がいい。お前一人で四十点だそうだ」
誰かが短く息を漏らした。
四十点。
初耳だった。
教師からも聞いていない。
フリントは口元をわずかに歪める。
「山トロール相手に教師が来るまで持たせた。一年にしては上等だ」
上等。
褒め言葉というより、査定の結果だった。
それでよかった。
「差し引きで二十五点らしい」
別の上級生が言った。
「グリーングラスの減点込みでだろ?」
一瞬、空気が薄くなる。
ダフネの姿勢は変わらない。
ただ、指先がローブの布を一度だけ押さえた。
フリントがそちらへ目を向ける。
「避難列を外れた。報告も拒否した。引かれない方がおかしい」
言い方は平坦だった。
責めているというより、寮内での帳尻を確認しているだけに近い。
「差し引き二十五点」
ザビニが軽く言った。
「悪くないな」
「悪くない、で済ませるな」
ロウルが低く返す。
「よくはありません。ただ、寮点としては増えています」
「お前もそこを見るんだな」
ザビニは笑った。
ケイはようやく息を吐いた。
小さな音だった。
視線はエリアスの左腕に落ち、すぐに床へ逃げる。
「グリフィンドール側は」
近くの誰かが言った。
「女子トイレの方だろ。グレンジャーが五点引かれて、ポッターとウィーズリーが五点ずつだってさ」
「差し引き五点か」
「トロールを倒したんじゃないのか?」
「教師が来る前に、何とかしたらしい」
噂は、まだ形を持っていない。
何が正確で、何が膨らんでいるのか分からない。
ただ、比較する者はいた。
「こっちは一人で、動けない生徒を抱えて空き教室だ」
「向こうは三人だったんだろ」
「なら四十点は安いんじゃないか」
フリントが短く鼻を鳴らした。
「点数は教師が決める。こちらがやるのは、稼いだ点を無駄にしないことだ」
そこで、談話室の空気が少し戻った。
騒ぐほどではない。
けれど、暖炉の近くで誰かが小さく拍手し、それが二つ、三つと増える。
大歓声ではない。
ただ、寮の内側でだけ許される、短い歓迎だった。
エリアスは立ったまま、それを聞いた。
暖炉の火が小さく鳴る。
「座れよ」
ザビニが椅子の背を軽く叩いた。
「立ってるだけで、こっちが落ち着かない」
「珍しい事を言うな」
「今日は特別にな」
ロウルが椅子の位置を少しずらした。
ケイは水差しを見て、手を伸ばしかけ、すぐ引っ込めた。
ダフネが先に動いた。
水差しを取る。
グラスへ注ぐ。
エリアスの右側へ置く。
何も言わない。
エリアスは一度だけそれを見る。
「頼んでいない」
「飲むでしょう」
「飲む」
「なら、同じことよ」
同じではない。
そう言おうとして、やめた。
水は必要だった。
ザビニがそれを見て口元を動かす。
だが、声にはしなかった。
薬は、地下教室の近くで受け取ることになった。
ポンフリーの薬瓶とは違い、スネイプ教授から渡された瓶は、余計な飾りがなかった。
濃い琥珀色の液体が、小さな瓶の中で重く揺れている。
光を通しにくい。
振ると、液体の動きが遅れてついてくる。
「一日二回。朝食後と就寝前に飲むように」
スネイプ教授の声は、地下の石壁に低く落ちた。
「一滴でも残せば分かる」
「分かるように作っているのですか」
黒い目がこちらを見た。
「ただの確認です」
「では、確認しておくといい」
瓶の栓を抜くと、苦い匂いが立った。
薬草。
骨に触れるような乾いた臭い。
粘る甘さ。
その奥に、金属に似た冷たい匂いがある。
エリアスは少量を舌に乗せた。
すぐに後悔する。
苦い。
重い。
舌に貼り付き、喉の奥へ落ちても残る。
泥を煮詰め、焦げた薬草で包んだような味だった。
「まずいですね」
「味が君の骨に関係あるのかね」
スネイプ教授は一切動じない。
「鎮痛、炎症の抑制、骨の再生補助、体力の消耗緩和。複数の系統が混ざっているように感じます」
「感じます、か」
「成分は」
「教われば飲めるようになるとでも?」
「いいえ。ただ、作り方を知りたいだけです」
スネイプ教授の唇が、わずかに歪んだ。
「君は、骨を砕かれて二日後に、薬の手順を気にしているのか」
「飲むものですから」
「結構。次は砕かれる前に考えることだ」
短い沈黙。
スネイプ教授は机の上の羊皮紙へ手を伸ばした。
羽根ペンを取る。
数語を書く。
字は鋭く、余白を嫌うように詰まっている。
『実践治療薬学』
『傷病と魔法薬』
『骨折と再生補助薬』
『結合剤と再生促進薬』
『近代調合史』
羊皮紙の端を破り、こちらへ差し出す。
「参考書だ。読む頭があるならな」
褒め言葉ではない。
だが、本の選び方に無駄がなかった。
エリアスは右手で受け取った。
左腕が使えないせいで、紙を折るだけでも一手間いる。
スネイプ教授の視線が、そこを一度だけ見た。
「もう片方の腕を壊しても、吾輩は二本分を用意しないぞ」
「予定はありません」
「予定で怪我が避けられるなら、医務室は空になる」
その声は冷たい。
だが、言葉はトロールではなく、次の失敗へ向いていた。
「ミスター・レン」
「はい」
「次は、トロールに殴られる前に考えたまえ」
「努力します」
「結構。運頼みの生徒は長生きせん」
スネイプ教授は、もうこちらを見ていなかった。
棚の薬瓶を一つ取り、ラベルを確認する。
会話は終わりだった。
エリアスは羊皮紙を握り、薬瓶をしまった。
題名だけでも、十分だった。
左腕が使えないのは、思った以上に不便だった。
痛みではない。
手順が変わる。
ネクタイは結べない。
朝食では肉を切るのに手間取る。
教科書を何冊も抱えて移動できない。
羊皮紙は左手で押さえられない。
扉を開ける時、持っているものを一度置く必要がある。
一つ一つなら大したことではない。
ただ、一日が終わる頃には、その数が増える。
羊皮紙は、教科書を重しにすればどうにかなった。
インク瓶は右側へ置き直せばいい。
鞄の中身は減らし、必要な教科書だけを先に抜き出す。
廊下で扉を開ける時は、体を少し斜めにして通れば済む。
済む。
ただ、以前と同じではない。
魔法薬学では、乳鉢を押さえられなかった。
乳棒を動かす以前に、器が逃げる。
ザビニが片手で乳鉢を押さえ、エリアスが粒度を見る形になった。
「お前、指示だけは相変わらず細かいな」
「粗い粒が残っている」
「怪我人のくせに容赦ない」
「粒度に怪我は関係ない」
ザビニは呆れたように笑い、乳鉢を押さえ直した。
授業が終わる頃には、作業手順が少し変わっていた。
自分でできる工程。
他人の手が必要な工程。
やらない方が早い工程。
分ければ、動ける。
厄介なのは、分ける前に手が出てくることだった。
そして、ダフネは過剰だった。
最初の二日、彼女は扉へ手を伸ばした。
本を持とうとした。
椅子を引いた。
水差しに触れた。
インク瓶の蓋を開けようとした。
その大半は、自分でできる。
三日目にそう伝えた。
「そこまでは頼んでいない」
「分かっているわ」
「分かっている動きではない」
「……分かっているわ」
それから少し減った。
ゼロにはならなかった。
朝食では、ダフネが左隣に座るようになった。
最初は偶然に見えた。
二度目も、まだ偶然で処理できた。
三度目には、ザビニがこちらを見て、何も言わずにパンをちぎった。
皿に載った肉を、ダフネが一口大に切り分ける。
手つきは静かだった。
大げさではない。
人目を引くほど世話を焼くわけでもない。
ただ、切った肉の大きさが揃っている。
無駄に正確だった。
「そこまでは頼んでいない」
「切っただけよ」
「形が揃いすぎている」
「食べやすいでしょう」
反論はあった。
ただ、肉は確かに食べやすかった。
エリアスは右手でフォークを取る。
「次からは、自分でやる」
「そう」
ダフネは自分の皿へ戻った。
次の日も、肉は切られていた。
ただし量は少なかった。
最初の数切れだけ。
それが妥協点だった。
ザビニが小さく言う。
「交渉成立か?」
「していない」
「でも肉は切れてるぞ」
「事実と合意は別だ」
ロウルが静かにナイフを置いた。
「食事中に揉める内容ではありません」
「「揉めていない」」
ダフネとエリアスの声が重なった。
ザビニが笑いを噛み殺した。
ネクタイは、ザビニが結んだ。
朝の寝室で、エリアスが右手だけで三度試し、三度とも形を崩したあとだった。
「貸せ」
「君に首を任せるのは不安だ」
「じゃあそのまま出ろ」
「それはもっと不都合だ」
ザビニはため息をつきながら、ネクタイを取った。
手つきは思ったより慣れている。
「動くなよ。余計に締まる」
「それは脅迫か」
「事実だよ」
結び目は少し緩かった。
だが、形にはなった。
ロウルはそれを見て、ほんのわずかに眉を動かした。
「許容範囲です」
「褒め言葉として受け取る」
「褒めてはいません」
談話室へ出ると、ダフネが一度だけ結び目を見た。
視線が止まる。
「曲がっているわ」
「許容範囲だそうだ」
「誰の?」
「ロウル」
「なら、日常生活の範囲では許容ね」
彼女はそう言って、手を伸ばした。
結び目へ触れる。
近い。
だが、動きは短かった。
少し引く。
整える。
指先を離す。
ザビニが後ろで笑いを噛み殺していた。
「何か」
ダフネが振り向く。
「何も」
ザビニはすぐに視線を逸らした。
「命は惜しいからな」
ケイはその横で、鞄の留め具を押さえながら小さく目を伏せていた。
肩の力は少し抜けている。
エリアスは結び目へ右手を当てた。
確かに、先ほどより整っていた。
「直す必要はあったな」
「そうでしょう」
ダフネはそれだけ言って、先に歩き出した。
夜の談話室でも、ダフネはよく近くにいた。
向かいではない。
隣だった。
暖炉の火が、湖の緑を帯びた窓に揺れている。
上級生たちの低い声。
頁をめくる音。
遠くで誰かが笑い、すぐに声を落とす。
エリアスは課題を進める。
ダフネも本を開いている。
会話は多くない。
必要になれば話す。
話さなければ、そのまま時間が過ぎる。
左腕は胸の前で固定されたまま。
羊皮紙は教科書で押さえる。
羽根ペンは右手。
インク瓶は右側。
瓶の蓋は、開けられないわけではない。
ただ、片手では少し時間がかかる。
エリアスが瓶を押さえ、栓を回そうとした時、ダフネの手が伸びた。
迷いはない。
けれど、早すぎもしない。
「借りるわ」
「開けられる」
「時間がかかるでしょう」
栓が軽く鳴る。
開く。
ダフネはそれ以上触れなかった。
瓶を置き、手を戻し、自分の本へ視線を落とす。
「そこまでは頼んでいない」
「開けただけよ」
「最近、その言い方が増えたな」
「あなたが同じことを言うからよ」
エリアスは羽根ペンをインクへ浸した。
黒い線が羊皮紙へ落ちる。
ダフネの本は、薬草学の課題だった。
余白に整った字が並んでいる。
指先は頁の端を押さえている。
その手は、以前より少し近い。
エリアスは、黒い線をもう一本引いた。
今は、それで足りた。
理由を聞く必要はない。
少なくとも、今は。
行動だけは残る。
インク瓶の蓋を開ける。
薬の時間を確認する。
隣で本を開く。
それだけなら、今は置いておける。
「エリアス」
「何だ」
「薬は飲んだの」
「まだだ」
ダフネの視線が上がる。
「時間でしょう」
「あと三分ある」
「測っているの?」
「当然だ」
ダフネは小さく息を吐いた。
呆れたようにも、少しだけ安心したようにも見える。
断定はできない。
「なら、三分後に飲んで」
「分かっている」
「見ているわ」
「監視か」
「確認よ」
エリアスは羊皮紙へ視線を戻した。
暖炉の火が、低くはぜる。
薬の時間まで、あと三分。
ダフネは隣で本を開いていた。
向かいではなかった。