ようこそ根源があふれた魔法の学校へ   作:shinkyu10

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距離

 

 

 

 

 

マダム・ポンフリーは、退室を許可する時も、許可した顔をしていなかった。

 

「歩けるからといって、治ったわけではありません」

 

白いカーテンの内側で、彼女の声はよく通った。

枕元の薬瓶を片づける手つきは速い。

寝台の脇に置かれた上着とローブは、しわ一つなく畳まれている。

 

左腕は胸の前で固定されていた。

包帯。

固定具。

三角巾。

肩から先が、身体の一部というより、扱いを誤れば壊れる荷物のように吊られている。

 

まず重かった。

 

動かせないものが、自分の体に付いている。

その事実が、歩くたびに遅れて返ってきた。

 

「走らないこと。階段では手すりを使うこと。左腕を下げないこと。薬は毎日、指定の時間に飲むこと。無理に動かそうとしないこと」

「分かりました」

「分かった顔をしていますが、あなたは昨日、起き上がろうとしました」

「失敗しました」

「成功していたら、さらに怒っています」

 

ポンフリーの目が細くなる。

 

エリアスは黙った。

反論する利益がない。

 

カーテンの外で、ダフネ・グリーングラスが待っていた。

姿勢は整っている。

顔色も戻っている。

少なくとも、壁に崩れた時の白さではない。

 

ただ、視線だけが、エリアスの左腕へ落ちてすぐ戻った。

 

「送るわ」

「一人で戻れる」

「ポンフリー先生に、誰かと戻るよう言われていたでしょう」

「誰か、とは君のことだったのか」

「少なくとも、私では駄目だとは言われなかったわ」

 

会話はそこで切れた。

 

医務室の扉を出ると、廊下の空気は少し冷たかった。

白い布と薬草の匂いが背後へ遠ざかる。

石壁の匂い、松明の煙、遠くの生徒たちの声が戻ってくる。

 

そのどれもが、二日前と同じだった。

 

同じではないのは、胸の前に吊られた左腕だけだった。

 

ダフネは半歩だけ左にいた。

触れない。

支えない。

ただ、階段の手前で一度だけ歩幅を落とした。

 

「手すり」

「見えている」

「ならいいわ」

 

言い方は静かだった。

けれど、見えているだけでは足りない、と言いたげな間があった。

 

エリアスは右手で手すりを掴んだ。

左腕は動かない。

体の向きが少し変わるだけで、三角巾が胸に擦れる。

 

階段を下りる手順が変わる。

右手。

足。

視線。

左側の重量。

次の段。

 

一つ一つなら難しくない。

ただ、一つずつ確認しなければならない。

 

それが、面倒だった。

 

 

 

 


 

 

 

 

 

スリザリン談話室に戻った時、空気が少し変わった。

 

湖の底のような緑がかった光。

低い天井。

暖炉の火。

革張りの椅子。

いつもの談話室だった。

 

だが、視線が集まる。

 

露骨ではない。

グリフィンドールなら、もっと声が大きくなったかもしれない。

スリザリンでは、ざわめきは一度だけ波のように広がり、すぐに形を整える。

 

それでも、無関心ではなかった。

 

上級生がこちらを見る。

女子生徒の何人かが、小声で何かを囁き合う。

 

一年生の列では、ザビニが片手を上げ、ロウルが椅子から立ち上がりかけてやめた。

ケイは膝の上で手を握ったまま、口を開きかけて閉じる。

 

「生きてるな」

 

ザビニが言う。

 

「見ればわかるだろ」

「確認だよ。お前、最後に見た時は血まみれで倒れてたからな」

 

ロウルの視線が、エリアスの左腕へ落ちた。

 

「腕の調子はどうです」

「まだ何とも言えないな」

 

ケイが小さく息を吐いた。

それから、左腕を見たまま言う。

 

「……治るの?」

「治るらしい」

「なら、良かった」

 

ザビニが肩をすくめる。

 

「腕がくっ付いてるなら、だいたい何とかなるだろ。骨が消えても一晩で生えるんだし」

「雑だな」

「だいたい魔法界ではこんなもんだろ」

 

ザビニは笑った。

笑い声は大きくはない。

だが、その一言で、一年生の周囲にあった硬さが少しだけほどけた。

 

 

暖炉の近くにいたマーカス・フリントが、肩越しに振り向いた。

 

「戻ったか、レン」

 

声は大きくない。

だが、談話室の中ではよく通った。

 

「はい」

「教師どもも気前がいい。お前一人で四十点だそうだ」

 

誰かが短く息を漏らした。

 

四十点。

 

初耳だった。

 

教師からも聞いていない。

 

フリントは口元をわずかに歪める。

 

「山トロール相手に教師が来るまで持たせた。一年にしては上等だ」

 

上等。

 

褒め言葉というより、査定の結果だった。

それでよかった。

 

「差し引きで二十五点らしい」

 

別の上級生が言った。

 

「グリーングラスの減点込みでだろ?」

 

一瞬、空気が薄くなる。

 

ダフネの姿勢は変わらない。

ただ、指先がローブの布を一度だけ押さえた。

 

フリントがそちらへ目を向ける。

 

「避難列を外れた。報告も拒否した。引かれない方がおかしい」

 

言い方は平坦だった。

責めているというより、寮内での帳尻を確認しているだけに近い。

 

「差し引き二十五点」

 

ザビニが軽く言った。

 

「悪くないな」

「悪くない、で済ませるな」

 

ロウルが低く返す。

 

「よくはありません。ただ、寮点としては増えています」

「お前もそこを見るんだな」

 

ザビニは笑った。

 

ケイはようやく息を吐いた。

小さな音だった。

視線はエリアスの左腕に落ち、すぐに床へ逃げる。

 

「グリフィンドール側は」

 

近くの誰かが言った。

 

「女子トイレの方だろ。グレンジャーが五点引かれて、ポッターとウィーズリーが五点ずつだってさ」

「差し引き五点か」

「トロールを倒したんじゃないのか?」

「教師が来る前に、何とかしたらしい」

 

噂は、まだ形を持っていない。

何が正確で、何が膨らんでいるのか分からない。

 

ただ、比較する者はいた。

 

「こっちは一人で、動けない生徒を抱えて空き教室だ」

「向こうは三人だったんだろ」

「なら四十点は安いんじゃないか」

 

フリントが短く鼻を鳴らした。

 

「点数は教師が決める。こちらがやるのは、稼いだ点を無駄にしないことだ」

 

そこで、談話室の空気が少し戻った。

騒ぐほどではない。

けれど、暖炉の近くで誰かが小さく拍手し、それが二つ、三つと増える。

 

大歓声ではない。

 

ただ、寮の内側でだけ許される、短い歓迎だった。

 

エリアスは立ったまま、それを聞いた。

 

暖炉の火が小さく鳴る。

 

「座れよ」

 

ザビニが椅子の背を軽く叩いた。

 

「立ってるだけで、こっちが落ち着かない」

「珍しい事を言うな」

「今日は特別にな」

 

ロウルが椅子の位置を少しずらした。

ケイは水差しを見て、手を伸ばしかけ、すぐ引っ込めた。

 

ダフネが先に動いた。

 

水差しを取る。

グラスへ注ぐ。

エリアスの右側へ置く。

 

何も言わない。

 

エリアスは一度だけそれを見る。

 

「頼んでいない」

「飲むでしょう」

「飲む」

「なら、同じことよ」

 

同じではない。

 

そう言おうとして、やめた。

水は必要だった。

 

ザビニがそれを見て口元を動かす。

だが、声にはしなかった。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

薬は、地下教室の近くで受け取ることになった。

 

ポンフリーの薬瓶とは違い、スネイプ教授から渡された瓶は、余計な飾りがなかった。

濃い琥珀色の液体が、小さな瓶の中で重く揺れている。

光を通しにくい。

振ると、液体の動きが遅れてついてくる。

 

「一日二回。朝食後と就寝前に飲むように」

 

スネイプ教授の声は、地下の石壁に低く落ちた。

 

「一滴でも残せば分かる」

「分かるように作っているのですか」

 

黒い目がこちらを見た。

 

「ただの確認です」

「では、確認しておくといい」

 

瓶の栓を抜くと、苦い匂いが立った。

薬草。

骨に触れるような乾いた臭い。

粘る甘さ。

その奥に、金属に似た冷たい匂いがある。

 

エリアスは少量を舌に乗せた。

 

すぐに後悔する。

 

苦い。

重い。

舌に貼り付き、喉の奥へ落ちても残る。

泥を煮詰め、焦げた薬草で包んだような味だった。

 

「まずいですね」

「味が君の骨に関係あるのかね」

 

スネイプ教授は一切動じない。

 

「鎮痛、炎症の抑制、骨の再生補助、体力の消耗緩和。複数の系統が混ざっているように感じます」

「感じます、か」

「成分は」

「教われば飲めるようになるとでも?」

「いいえ。ただ、作り方を知りたいだけです」

 

スネイプ教授の唇が、わずかに歪んだ。

 

「君は、骨を砕かれて二日後に、薬の手順を気にしているのか」

「飲むものですから」

「結構。次は砕かれる前に考えることだ」

 

短い沈黙。

 

スネイプ教授は机の上の羊皮紙へ手を伸ばした。

羽根ペンを取る。

数語を書く。

字は鋭く、余白を嫌うように詰まっている。

 

『実践治療薬学』

『傷病と魔法薬』

『骨折と再生補助薬』

『結合剤と再生促進薬』

『近代調合史』

 

羊皮紙の端を破り、こちらへ差し出す。

 

「参考書だ。読む頭があるならな」

 

褒め言葉ではない。

だが、本の選び方に無駄がなかった。

 

エリアスは右手で受け取った。

左腕が使えないせいで、紙を折るだけでも一手間いる。

スネイプ教授の視線が、そこを一度だけ見た。

 

「もう片方の腕を壊しても、吾輩は二本分を用意しないぞ」

「予定はありません」

「予定で怪我が避けられるなら、医務室は空になる」

 

その声は冷たい。

だが、言葉はトロールではなく、次の失敗へ向いていた。

 

「ミスター・レン」

「はい」

「次は、トロールに殴られる前に考えたまえ」

「努力します」

「結構。運頼みの生徒は長生きせん」

 

スネイプ教授は、もうこちらを見ていなかった。

棚の薬瓶を一つ取り、ラベルを確認する。

 

会話は終わりだった。

 

エリアスは羊皮紙を握り、薬瓶をしまった。

 

題名だけでも、十分だった。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

左腕が使えないのは、思った以上に不便だった。

 

痛みではない。

手順が変わる。

 

ネクタイは結べない。

朝食では肉を切るのに手間取る。

教科書を何冊も抱えて移動できない。

羊皮紙は左手で押さえられない。

扉を開ける時、持っているものを一度置く必要がある。

 

一つ一つなら大したことではない。

 

ただ、一日が終わる頃には、その数が増える。

 

羊皮紙は、教科書を重しにすればどうにかなった。

インク瓶は右側へ置き直せばいい。

鞄の中身は減らし、必要な教科書だけを先に抜き出す。

廊下で扉を開ける時は、体を少し斜めにして通れば済む。

 

済む。

 

ただ、以前と同じではない。

 

魔法薬学では、乳鉢を押さえられなかった。

乳棒を動かす以前に、器が逃げる。

ザビニが片手で乳鉢を押さえ、エリアスが粒度を見る形になった。

 

「お前、指示だけは相変わらず細かいな」

「粗い粒が残っている」

「怪我人のくせに容赦ない」

「粒度に怪我は関係ない」

 

ザビニは呆れたように笑い、乳鉢を押さえ直した。

 

授業が終わる頃には、作業手順が少し変わっていた。

自分でできる工程。

他人の手が必要な工程。

やらない方が早い工程。

 

分ければ、動ける。

 

厄介なのは、分ける前に手が出てくることだった。

 

そして、ダフネは過剰だった。

 

最初の二日、彼女は扉へ手を伸ばした。

本を持とうとした。

椅子を引いた。

水差しに触れた。

インク瓶の蓋を開けようとした。

 

その大半は、自分でできる。

 

三日目にそう伝えた。

 

「そこまでは頼んでいない」

「分かっているわ」

「分かっている動きではない」

「……分かっているわ」

 

それから少し減った。

 

ゼロにはならなかった。

 

 

 

 


 

 

 

 

 

朝食では、ダフネが左隣に座るようになった。

 

最初は偶然に見えた。

二度目も、まだ偶然で処理できた。

三度目には、ザビニがこちらを見て、何も言わずにパンをちぎった。

 

皿に載った肉を、ダフネが一口大に切り分ける。

 

手つきは静かだった。

大げさではない。

人目を引くほど世話を焼くわけでもない。

 

ただ、切った肉の大きさが揃っている。

無駄に正確だった。

 

「そこまでは頼んでいない」

「切っただけよ」

「形が揃いすぎている」

「食べやすいでしょう」

 

反論はあった。

ただ、肉は確かに食べやすかった。

 

エリアスは右手でフォークを取る。

 

「次からは、自分でやる」

「そう」

 

ダフネは自分の皿へ戻った。

 

次の日も、肉は切られていた。

 

ただし量は少なかった。

最初の数切れだけ。

 

それが妥協点だった。

 

ザビニが小さく言う。

 

「交渉成立か?」

「していない」

「でも肉は切れてるぞ」

「事実と合意は別だ」

 

ロウルが静かにナイフを置いた。

 

「食事中に揉める内容ではありません」

「「揉めていない」」

 

ダフネとエリアスの声が重なった。

 

ザビニが笑いを噛み殺した。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

ネクタイは、ザビニが結んだ。

 

朝の寝室で、エリアスが右手だけで三度試し、三度とも形を崩したあとだった。

 

「貸せ」

「君に首を任せるのは不安だ」

「じゃあそのまま出ろ」

「それはもっと不都合だ」

 

ザビニはため息をつきながら、ネクタイを取った。

手つきは思ったより慣れている。

 

「動くなよ。余計に締まる」

「それは脅迫か」

「事実だよ」

 

結び目は少し緩かった。

だが、形にはなった。

 

ロウルはそれを見て、ほんのわずかに眉を動かした。

 

「許容範囲です」

「褒め言葉として受け取る」

「褒めてはいません」

 

談話室へ出ると、ダフネが一度だけ結び目を見た。

 

視線が止まる。

 

「曲がっているわ」

「許容範囲だそうだ」

「誰の?」

「ロウル」

「なら、日常生活の範囲では許容ね」

 

彼女はそう言って、手を伸ばした。

結び目へ触れる。

近い。

だが、動きは短かった。

 

少し引く。

整える。

指先を離す。

 

ザビニが後ろで笑いを噛み殺していた。

 

「何か」

 

ダフネが振り向く。

 

「何も」

 

ザビニはすぐに視線を逸らした。

 

「命は惜しいからな」

 

ケイはその横で、鞄の留め具を押さえながら小さく目を伏せていた。

肩の力は少し抜けている。

 

エリアスは結び目へ右手を当てた。

 

確かに、先ほどより整っていた。

 

「直す必要はあったな」

「そうでしょう」

 

ダフネはそれだけ言って、先に歩き出した。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

夜の談話室でも、ダフネはよく近くにいた。

 

向かいではない。

 

隣だった。

 

暖炉の火が、湖の緑を帯びた窓に揺れている。

上級生たちの低い声。

頁をめくる音。

遠くで誰かが笑い、すぐに声を落とす。

 

エリアスは課題を進める。

ダフネも本を開いている。

 

会話は多くない。

 

必要になれば話す。

話さなければ、そのまま時間が過ぎる。

 

左腕は胸の前で固定されたまま。

羊皮紙は教科書で押さえる。

羽根ペンは右手。

インク瓶は右側。

瓶の蓋は、開けられないわけではない。

 

ただ、片手では少し時間がかかる。

 

エリアスが瓶を押さえ、栓を回そうとした時、ダフネの手が伸びた。

 

迷いはない。

けれど、早すぎもしない。

 

「借りるわ」

「開けられる」

「時間がかかるでしょう」

 

栓が軽く鳴る。

開く。

 

ダフネはそれ以上触れなかった。

瓶を置き、手を戻し、自分の本へ視線を落とす。

 

「そこまでは頼んでいない」

「開けただけよ」

「最近、その言い方が増えたな」

「あなたが同じことを言うからよ」

 

エリアスは羽根ペンをインクへ浸した。

 

黒い線が羊皮紙へ落ちる。

 

ダフネの本は、薬草学の課題だった。

余白に整った字が並んでいる。

指先は頁の端を押さえている。

その手は、以前より少し近い。

 

エリアスは、黒い線をもう一本引いた。

 

今は、それで足りた。

 

理由を聞く必要はない。

少なくとも、今は。

 

行動だけは残る。

 

インク瓶の蓋を開ける。

薬の時間を確認する。

隣で本を開く。

 

それだけなら、今は置いておける。

 

「エリアス」

「何だ」

「薬は飲んだの」

「まだだ」

 

ダフネの視線が上がる。

 

「時間でしょう」

「あと三分ある」

「測っているの?」

「当然だ」

 

ダフネは小さく息を吐いた。

呆れたようにも、少しだけ安心したようにも見える。

断定はできない。

 

「なら、三分後に飲んで」

「分かっている」

「見ているわ」

「監視か」

「確認よ」

 

エリアスは羊皮紙へ視線を戻した。

 

暖炉の火が、低くはぜる。

 

薬の時間まで、あと三分。

 

ダフネは隣で本を開いていた。

 

向かいではなかった。

 

 

 

 

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