スバル「せっかくなので死んだふりをしてみようと思う」 作:空見大
柔らかな陽光が差し込む王城の一角。
開け放たれた客室の埃を払うはたきの動きは、どこまでも正確で、メイドとして一切の淀みがない。
だがその完璧な所作とは裏腹に、ラムの薄紅色の唇からはひどく重苦しく、忌々しげな吐息が零れ落ちていた。
頭の片隅に常にこびりついて離れないのは、数日前に見た、ある一人の大馬鹿者の顔だ。
(……そろそろ、限界のようね)
ひどく思い詰めたような、薄氷の上に立つような危うい道化の笑顔を顔面に貼り付けたスバルが、ラムの元へやってきた日のこと。
平和ボケを防ぐために、自分が城のどこかで死んだふりをする。それを見つけても騒がず、適切に対処する訓練だ──そんな、呆れて反論する気すら起きない下らない戯言。
だが、その言葉を並べ立てる彼の黒い瞳の奥には、どうしようもない焦燥と、どす黒く濁った自傷の衝動が、隠しきれないほどに渦巻いていた。
ラムは、彼が何を求めてそんな悪趣味な悪ふざけを提案してきたのか。最初から正確に、残酷なほど完全に理解していた。
大罪司教という脅威が去り、世界は平穏を取り戻したというのに、ナツキ・スバルの精神だけは、未だに死という呪縛に深く侵され続けている。
周囲で人が理不尽に死んでいく光景を見続け、自らも死線を越えてきた代償は、彼の魂を修復不可能なほどに摩耗させていた。
自分が無惨に死ぬ姿を他人に突きつけ、その絶望に染まる顔を見ることでしか、自分の命の価値や他者から向けられる愛情の輪郭を確認できなくなっているのだ。
彼を止めること自体はラムにとって造作もないことだった。
彼我の力量差は明白だ。力で言うことを聞かせるのも
他のものに今のスバルの現状を共有するのも、何だって彼を封じ込めるのには十分だ。
だが、ここで彼の暗い衝動を完全に封じ込めてしまえば、行き場を失った狂気は彼自身の内側を食い破り、今度こそ本当に取り返しのつかない形で精神が崩壊してしまう。
だからこそラムは、「好きにすればいい」と冷たく突き放すふりをして、彼の自傷的なガス抜きを黙認した。
いざとなればラム自身が泥を被り、エミリアたちに知られる前に適当なところで彼を殴り飛ばして、止めてやるつもりだったのだ。
「ラム姉様……いまお時間いいですか?」
不意に、廊下から聞こえてきた微かに震える声。
そのひどく頼りない響きに、ラムははたきを動かす手をぴたりと止めた。
振り返ると、そこに立っていたのは可愛い後輩メイドのペトラだった。
普段の快活な姿は見る影もなく、彼女の大きな瞳は真っ赤に腫れ上がり、華奢な肩は微かに震え、今にもその場に泣き崩れてしまいそうなほどに憔悴しきっている。
「ええ大丈夫よ、どうかしたのかしら?」
努めて平坦な、柔らかい声音で応じる。
驚きはなかった。今のこの平和な王城の中で、ペトラをここまで残酷に追い詰めるような事態など、ラムの頭の中には一つしか思い当たらない。
あのどうしようもない大馬鹿者が、ついに溜め込んでいた衝動を爆発させたのだ。
「ラム姉さまはその、スバルが何かしているの知ってますか?」
その名前が出た瞬間、ラムは手元の掃除道具を静かに置き、今度こそ誤魔化しようのない忌々しげなため息を吐き出した。
「……はぁ。本当にあの馬鹿は……っ。誰かほかの人にやってるのを見たの? それとも──そう」
ラムの冷静な視線が、ペトラの顔に浮かぶ隠しきれない動揺と恐怖を正確に捉える。
ただ目撃しただけではない。
この純粋な少女は当事者として、あの男の悪趣味な凶行の標的にされたのだ。
よりにもよってペトラを巻き込むとは、ラムの予測から大きく、そして最悪な方向へと外れた愚行だった。
「一体どんな事をされたの?」
「そ、それは──」
言葉を濁し、俯くペトラ。
自分が口にすれば、スバルがラムから酷く叱責されると危惧しているのだろう。
自分が泣くほどの恐怖を味わわされた直後だというのに、それでも彼を庇おうとする健気で純粋な心。
だからこそ、その無垢な優しさを利用して精神を抉ったあの男の罪は、万死に値するほどに重い。
「隠しても無駄よ、いいから吐きなさい」
一切の逃げ道を塞ぐように促すと、ペトラは先ほど起きた地獄のような出来事を、ぽつぽつと震える声で語り始めた。
箱の中身を当てる遊び。食いちぎられたように見えた両腕。溢れ出す大量の血。ガーフィールの治癒魔法すら効かない絶望。そして、自分が愛する人を殺してしまったのだという錯覚。
すべてを聞き終えたラムの腹の底で、静かだが確かな、氷のように冷たい怒りの炎が燃え上がった。
それは、他者の心を顧みないスバルに対する強烈な怒りであると同時に、彼の衝動をコントロールできると過信し、結果としてこの可愛い後輩に一生消えないかもしれない恐怖を植え付けてしまった、自分自身への怒りでもあった。
「ガーフはどうでもいいとして、私の可愛い後輩を泣かせるなんてまったくいい度胸ねバルスは」
「あ、あの! でもその、スバルはきっとみんなを驚かせたくて、きっとそれだけで」
必死にスバルを庇おうとするペトラの言葉を、ラムは首を静かに横に振って遮った。
そんな、子供の悪戯のような無邪気な理由ではないことを、ラムは痛いほど分かっている。
「だからたちが悪いのよ、自分がやってることの意味も、それが何を生み出すかも全部わかってて、それでもやめられない。ラムに監視役を頼んできた時はまだ理性が残っているのかとも思ったけれど……」
言葉の端に、つい苦い本音が混じる。
スバルは分かっていてやめられなかったのだ。自分が狂っていると自覚しながら、それでも血糊を被り、他人の悲痛な悲鳴を全身に浴びなければ、まともに呼吸すらできない身体になってしまっている。
「エミリア様やベアトリスちゃんにはこの事……」
「話していないわ。それはオットーやメィリィだって同じよ……いいえ、この分だともう他にも被害者はいるでしょうね。話せばバルスがどうなるかなんて火を見るより明らかよ」
エミリアやベアトリスがこの異常な事態を知れば、間違いなくパニックになり、彼女たちの心も壊れ、陣営全体が音を立てて崩れる。
あの不器用な男は、自分がどれほどボロボロになっても、一番大切な人たちには綺麗な顔だけを見せていたいのだ。そのどうしようもない意地と脆弱さを、ラムは誰よりも理解していた。
「レムが戻ってくればまだマシでしょうけど、あの子は帝国との交渉で一月ほど席を外しているから、それまでは経過観察するしかないわね。何か異変があったらすぐに連絡するように、ラムもバルスから目を離さないようにするわ」
ラムはそっと手を伸ばし、俯くペトラの頭を優しく撫でた。
ペトラを落ち着かせ、自室へと戻らせた後。ラムは一人、冷たい大理石の廊下を歩き出す。
足取りに一切の迷いはない。向かう先は、あの度し難い大馬鹿者の部屋だ。
他者を巻き込むという、絶対に越えてはならない一線を越えた以上、これ以上の放任は許されない。
彼のどうしようもない魂の叫びと狂気は、ラムが直接、その手で物理的に叩き潰してやる必要があった。
王城の広い廊下を進むラムの鼻腔を、やがて強烈な鉄の匂いが突き刺した。
スバルの部屋に近づくにつれ、むせ返るような血と、生臭い汚物の悪臭が濃密になっていく。
ペトラが泣きながら語っていた大量の血糊を、あろうことか自分の部屋にまで撒き散らして次の舞台を整えているらしい。
コンコン、と。
ラムは一切の躊躇なく、迷いなく扉を叩いた。
「バルス。中にいるのね」
返事はない。ノブに手をかけて回すが、鍵もきっちりと内側からかけられている。
扉越しに中の気配を鋭く探ると、微かな、本当に微かな息遣いだけが感じられた。
極限まで呼吸を薄くし、冷たい床に横たわって死体に成り切り、こちらの反応を窺っているのだ。
呆れるほどの執念。
彼がやることを知らなければ騙されたかもしれないが、いまのラムからすればあまりにも滑稽な芝居でしかない。
ラムは指先に微かなマナを集め、見えない風の刃を形成する。
錠前の内部構造だけを正確に捉え、精密に切断する。ガチャリと、抵抗を失った鈍い音が鳴り、重い木製の扉がゆっくりと開かれた。
風の刃で静かに断ち切られた錠前が、虚しく床に転がる。
重い木製の扉を押し開けた瞬間、ラムの嗅覚を真っ先に刺したのは、鉄錆の匂いとそれに混じる不自然なほど甘ったるい、死を装うための塗料の香りだった。
だが視界に飛び込んできた光景は、そんな微かな違和感を一瞬で塗りつぶすほどに、あまりにも夥しい赤に染まっていた。
床一面に広がる、どす黒い血の海。
その中央で、糸の切れた人形のように仰向けに転がっているのは、見慣れたジャージ姿の男──ナツキ・スバルだ。
(……これは)
ラムの足取りが、吸い付くように床に止まる。
それは恐怖による硬直ではない。スバルがその身に施した、あまりにも具体的で過剰な破壊の造形に対する、言葉にできない戦慄だった。
頭蓋の左半分は、重い質量の何かで叩き潰されたかのように無惨にひしゃげ、陥没している。
剥き出しになった首筋から肩口にかけては、鋭利な刃物などではなく太い鎖で力任せに、何度も何度も肉を削ぎ落とされたような、見るに堪えない凄惨な裂傷が刻まれていた。
ペトラたちに見せたという、手品のような欠損とは、その性質が根本から異なっている。
それがまだ他人の目を欺くための悲劇の演出であったとするなら。
いま目の前にあるこれは、弁明の余地もない、純粋な殺意と圧倒的な暴力による惨殺の再現だ。
(……どうして、わざわざこんな傷を選んだのよ。バルス)
ラムの胸の奥を通り過ぎたのは、怒りよりも先に、泥のように重く冷たい悲哀だった。
まるでこの傷跡はそう、レムが──
(…………悪趣味ね)
己の魂の深淵に澱のように溜まった自己嫌悪。自分自身に下すべきであると信じ込んでいる、最も残酷な極刑のイメージ。
それをこうして具現化し、他人の目に晒すことでしか、今にも瓦解しそうな精神の均衡を保てなくなっているのだ。
自分を壊し、破壊されるべき存在だと定義することで、ようやくナツキ・スバルとして息をすることを許されている──その歪な生存本能が、ラムにはたまらなく忌まわしく、そして哀れだった。
だが。だからこそ、ラムはその嘘に、一ミリたりとも乗ってやるつもりはなかった。
ここでラムが息を呑み、悲鳴を上げ、彼が望む通りの絶望を顔に浮かべてしまえば、それは彼の異常な自傷行為を肯定し、彼をさらに深い暗がりへと突き落とすことになる。
スバルが作り上げた、この救いようのない死という名の舞台。
その幕を引けるのは、観客ではなく、無慈悲な批評家だけだ。
ラムは足音を隠そうともせず、どす黒い血の海を真っ向から踏み越えた。
一歩、また一歩と、スバルのすぐ傍まで歩み寄る。
スバルは瞼を閉ざしたまま、指先一つ動かさない。自分をこれほどまでに惨たらしく殺したはずの誰か──あるいは、変わり果てた自分を見つけた誰かが、どう絶望し、どう泣き喚くのかを、きっと腹の底で笑いながら楽しんでいるのだろう。
その浅ましいまでの執念、その度し難い意地に、ラムは心底からの呆れを込めて、氷のように冷ややかな声を落とした。
「……いつまで息を止めているつもり、バルス」
返答はない。スバルはあくまで、完璧な死体を貫くつもりのようだ。
沈黙。外の喧騒が遠く聞こえる中、この部屋だけが、スバルの放つ狂気的な静寂に支配されている。
ラムは小さく、ひどく冷ややかな、そして憐憫を押し殺したため息を吐き出した。
「……はぁ」
直後。
ラムは持ち上げた右足を、躊躇なく、全力で振り下ろした。
狙ったのは、倒れ伏すスバルの腹部。硬いメイド靴の踵が、急所である鳩尾のわずか下へ、彼女の体重と容赦のなさを乗せて深々とめり込む。
「ぐええっ……!? 痛いっ! 痛い痛いギブギブギブ!!」
肺から全ての空気を強制的に絞り出され、死体になりきっていた肉塊が、カエルのように無様な声を上げて跳ね起きた。
当然の結果だ。ラムは彼が生きていることを確信した上で、最も的確に痛覚を刺激し、その意識を現実に引きずり戻したのだから。
部屋を支配していたおぞましい静寂は、この無慈悲な一撃によって、粉々に粉砕された。
「いい気味ね」
悶絶しながら身をよじるスバルを、ラムは冷徹な眼差しで見下ろしたまま、さらに加虐的な重圧をその腹部に加える。
先ほどまでの地獄のような静寂はどこへやら、部屋に満ちているのは、自業自得な痛みにのたうち回る男の見苦しい悲鳴だけだ。
「わ、悪かったって! ドッキリ仕掛けてる側にドッキリ仕掛けるのもやってみたかっただけなんだよっ!」
「冗談は顔だけにしなさい」
「辛辣ぅ!」
凄惨きわまりない殺人現場。血の海に沈む、ひしゃげた頭蓋の死体。
その上に立ち、平然と罵詈雑言を浴びせる桃色の髪のメイド。
端から見れば狂気の沙汰としか思えない光景だが、スバルは必死にいつもどおりを演じてこの場を冗談で塗り潰そうと足掻いている。
ラムの手のひらで、その浅はかな誤魔化しが透けて見えているとも知らずに。
だが、毒づきながらもその動きを観察していたラムの視線が、ふと不自然に揺れた。
のたうち回るスバルの左腕。ジャージの袖を捲り上げ、雑に巻かれた包帯。
腹を踏まれた衝撃で腕を動かした際、その白い布の隙間から、どろりと赤い液体が滲み出した。
床に広がる豚の血ではない。
熱を持ち、脈動と共に溢れ出す、生々しい本物の血だ。
「……包帯、解けてるわよ」
ラムの低く温度のない指摘に、スバルの肩がびくりと跳ねた。
咄嗟に左腕を背後に隠そうとするその卑屈な動作。それこそが、何よりの自白だった。
ラムは静かに足をどけ、彼の傍らに膝を突いた。
頭蓋を砕き、肉を削ぎ落としたおぞましい偽物の致命傷。そんな『嘘』には、ラムは一瞥もくれない。
彼女が迷わず手を伸ばしたのは、スバルが必死に隠蔽しようとしていた左腕の、本物の傷口だった
「爪が甘いわね。知られたくないなら、ちゃんと隠しなさい」
彼の小さな目線の抗議を黙らせ、緩んだ包帯を無慈悲に解いていく。
露わになったのは、魔法で強引に塞いだ跡さえも生々しい、自傷の痕跡。
おそらくはフェリスによって、あるいは自分自身の稚拙な処置によって治療されたはずの傷。だが、それを丁寧に労わることもなく、スバルはこの凄惨な狂言のために再びその傷を痛めつけ、弄んだのだ。
(馬鹿な男。こんな下らないメイクで死を演じて、本物の痛みは安っぽい布切れ一枚で覆い隠して……。……痛いなら、痛いと泣き喚けばいいだけのことでしょうに)
この傷が刻まれた経緯も、フェリスとの間に何があったのかも、ラムは詳細までは知らない。
だが、理解はできる。
自分自身がこれほどまでに惨たらしく罰せられ、修復不可能なほどに破壊されるべき存在なのだと、おぞましい形にして突きつけなければ、立っていられないほどに。
ナツキ・スバルの魂は、もうとっくに限界を超えて摩耗しきっているのだ。
だからラムは、彼の演出した死を一切肯定しない。
彼が必死に隠し通そうとする、その本物の痛みだけを、丁寧に、慈しむように手当てする。
それが今のラムにできる、唯一の、そして最も残酷な治療だった。
「……悪かったよ」
不意に零れ落ちたのは、ひどく掠れた声だった。
スバルはもう、ラムの顔を見ることすらできず、自らの膝を見つめて項垂れている。
ラムは包帯の端をきっちりと留め、立ち上がりながら、再び冷徹な視線をその頂頭部へと落とした。
「そう思うなら、ラムが知らないところで勝手にドッキリなど仕掛けるのは控えることね」
「……知ってたのかよ、まさかペトラが?」
「ええ。目を真っ赤に腫らして、ラムのところに泣きついてきたわ。ガーフはどうでもいいけれど、あの子の純情をあんな悪趣味な手品で弄んだ罪は、決して軽くはないわよ」
完全に先回りされ、己の愚行が他者を──それも自分を慕う幼い少女をどれほど傷つけたか。
逃げ場のない事実を突きつけられ、スバルはバツが悪そうに、苦痛に顔を歪めて視線を逸らした。
「……面目ねぇ」
「本当にそう思っているのなら、さっさと起きてその見苦しい姿を片付けなさい。これ以上は悪趣味が過ぎるわ」
それだけを言い捨てて、ラムは出口へと歩き出す。
これ以上の長居は、彼に「許された」という安易な甘えを与えてしまう。
風の魔法で強引にこじ開けた扉の前に立ち、廊下へ出ようとしたその時。
ラムはふと、足を止めた。
振り返りはしない。背中を向けたまま、この部屋の主──死を演じることでしか生を実感できない狂人へ、最後の言葉を落とす。
「……バルス」
「……なんだよ」
「エミリア様やレムの笑顔を、あなたの下らない自傷で曇らせるような真似は、ラムが絶対に許さない」
その厳しい声色に、背後の空気が凍りつくのが分かった。
だが、突き放すだけでは、この不器用な男はまた別の暗がりで、誰にも知られぬまま一人で勝手に壊れていくだけだ。
だからラムは、自らの首にもその重い鎖を分かち合う覚悟で、言葉を紡ぐ。
「だから……どうしても息ができなくなって、馬鹿な真似をしたくなった時は、せめてラムの見えるところでやりなさい。バルスに頭を下げられたところで誰も嬉しくなんてないもの」
背後でスバルが息を呑む気配が伝わってきた。
彼が致命的な一線を越え、完全に瓦解してしまう前に。
彼が愛する者たちの前でだけは、最後まで「綺麗なナツキ・スバル」でいられるように。
ラムが最も近くで、その醜悪な闇を監視し、繋ぎ止めてやるという、それは不遜で傲慢な慈愛の宣言だった。
「……ラム、お前……」
「勘違いしないで。ラムの可愛い妹と、主であるエミリア様の平穏を守るための監視よ。バルスの命なんて、ラムにとっては毛ほども価値はないわ」
そう吐き捨てて、ラムは今度こそ静かに部屋を後にした。
開け放たれた扉から、王城の平穏な、どこまでも凡庸で温かい日常の空気が流れ込んでくる。
廊下を歩くラムの足取りは、ここへ向かう時よりも、ほんの少しだけ重い。
彼を見張り続けるという、ひどく厄介で泥まみれの役目を自ら買って出てしまったのだから、当然のことだ。
だが、その胸の内に不思議と後悔の色はなかった。
「……本当に、世話の焼ける馬鹿な男」
誰もいない廊下で、ラムは小さく、誰にも聞こえない声で毒づく。
その口元が、微かに、本当に微かにだけ柔らかく綻んでいたことに気づく者は、この広い城のどこにもいなかった。