初恋の従兄弟がアメリカで行方不明になった 作:かりほのいおり
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「私、もうここに来ないから」
唐突に宣告されて、僕はただ口をパクパクとさせるだけだった。どうしようにも困惑で埋め尽くされた脳みそは言葉を吐き出してくれないし、この本で囲まれた部屋には二人しかしないのに不思議なことに酸素が足りなかった。
どうしてこうなったのか。
彼女が家に来て、僕がここに居て、今日もたわいのない一日だったはずなのに。
もうすぐクリスマスだよ、来週のイブ当日は雪が降るらしいよ、そんな普通の会話をしてたはずなのに、脈絡もなくそんな言葉を吐き捨てて、混乱する自分をほっぽり出して彼女はさっさと帰り支度を済ませていた。
ほらもう、彼女は襖に手をかけているから。僕が早く何かを言わなくちゃ。
そのまま、行かせちゃいけないってことぐらい昔の僕にだって分かっていた。
だからようやく口が動いた。「もう、男じゃないからダメなの?」なんて、言葉通りに女々しい台詞ではあったけれども、とにかく絞り出すことには成功した。
「そんな事は関係ない。本当に、びた一文たりとも関係ないの、ただ今更そのことに私が気付いただけ」
ならその理由を教えてよ、いつものように夢の中の僕は繰り返す。
教えてくれればきっと治すから。
時間がかかるかもしれないけれども、それでも必死に努力するから。
だから僕を見放さないでよ、ここに一人置いて行かないでよ。
僕の泣き言を黙って聞いて、フンと一度鼻を鳴らして彼女は僕に背中を向ける。
「教えてあげない、私からは絶対に。言われて努力して治るようなもんでもないし、表面上だけを取り繕ったところで何がどう変わるっていうの?」
「ねえ、旭。あなたの事はずっと好き、ずっとずっと愛してる。でもね、それだけじゃダメなの、一人の感情だけじゃ、私の想いだけじゃ変わらないこともあるの」
「男だから、女だからとかそういう事じゃないの。私が好きになった旭はね、そういうのに関係がないところだから。でも、今の貴方じゃ駄目なの」
「本当に酷いことをいうとね、それがずっとずっと変わらないで欲しいと思ってるの。だから教えてあげない。だって、私がいなくなって治ったのなら、それは私が悪かったってことでしょ? でも変わらないのであれば私は、そして旭も、どうしようもなかったってことになるから」
「旭は自分で気付くのかな、きっと気付かないと私は思ってるけれど。それでも考えて考えてずーっと考え尽くして、どうしようもなくなっちゃってよね」
「ばいばい、私の好きだった旭」
玄関の扉が音を立てて閉まる。彼女を追うこともしないで、僕はエアコンの効いてないリビングに一人ポツンと立ち尽くしている。
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どうせ書くなら、物が残ったほうがいい。
それが懐古主義だと言われてもとりあえず原稿用紙に直接落としていくのが僕の書き方だった。
赤ペンの訂正だらけでとても人に見せれる物ではないけれども、手っ取り早く従姉妹に見せるならそれが一番早い。
押入れから一つ大きな段ボールを引き出して、エアコンの効いた涼しい部屋へ。
中にはダブルクリップで雑にまとめた用紙が乱雑に詰め込まれている。覗き込んだ彼女がおおっと感嘆の声を上げた。
「これが旭お兄ちゃんの生原稿……初めて見たけど、結構な量じゃない!?」
「まあ電子媒体に落としてないだけっていうのもあるけどね。多く見えるけど意外と量は少ないんじゃないかな」
実際、僕がどれだけ書いてここに詰め込んだかなんて分からないけど、謙遜混じりにそう呟いた
たまに気になる事は確かにあった。僕がどれだけ今まで逃避を重ねていたかを知りたいな、なんて事はあったけれども、それでも結局今まで計算していないというのが結論だろう。
計算するのなら単純に原稿用紙一枚の文字数と下に振ったページ数、それに改行と訂正文で0.8〜0.9掛けで計算すればざっと数字は出る、難しいことではないだろう。
もしかしたら、本当は大して書いてないんじゃないかっていう事実から逃げたいだけというのもあるかもしれない。
そんな思考を他所に彼女に「一番新しいやつを読みたいな」と背中をせっつかれて、何はともあれ一番上に置かれた紙束を取り出す。
最終ページに書かれた年月日を確認するまでもない、これが最後の一作だろう。
適当にそれを手渡して、自分も適当に引き出して昔書いたものを横に並んで読み返そうと思ったが、やめた。自分の書いた文なんて読み返すもんじゃない。
仕方なく腰を上げてキッチンへと向かう。
従姉妹に紅茶を淹れてあげよう、そうしよう。
わざわざ抽出用とサーブ用にポットを二つ準備して、サーブの方に氷と準備の終わった紅茶を入れ替えたところで牛乳がないことに気付いて、その工程をパス。入れるのは砂糖だけ。
正確に言えば入れようと思えばあるけれど。
消費期限のだいぶ過ぎた物が冷蔵庫に眠っている。まあ僕が果敢に挑戦して犠牲になる分には構わないけれど、それを従姉妹に出すにはチャレンジが過ぎる。
ポット一つにカップ二つをお盆に載せて部屋に戻れば、熱心に彼女が原稿をめくっていた。
紅茶淹れたよ、と軽く声をかけるも分かったと頷くばかりで手を付けようともしなかった。
だいぶ大きくなったなぁ、と上から目線にそう思った。
従兄弟同士という関係ではあるけれども、八歳の歳の差だから感慨もある。
エミがあのお婆ちゃん家で、まだ僕が拙い文を書いていた頃の部誌を熱心に眺めていたのも、彼女が小学生ぐらいの時だというのだからそういう感想になるのも仕方がない。
身長だけではなく容姿も昔に比べてはっきりと良くなった。
大きくなればきっとアイドルになれるよと親族一同から太鼓判を押されていた通りに、切れ味が上がっていた。
正確に言えば切れ味というか、なんというか、そこら辺に置いておけば適当に空気清浄機の如く周りをゆるくふんわりとさせるような、マシュマロ?
癖のない長髪の自分と違って肩に触れるぐらいのゆるふわボブ、うーん可愛い。会うたびにお小遣いを渡そうとしていた父親の気持ちが今更ながらにわかるような気がした。
やっぱり、きっとモテるんだろうな、身内贔屓ながらにそう思う。
できれば悪い男に引っ掛からなければいいんだけれども。さらに要望を付け加えるのなら、文学から遠い人間に関わったほうがいいと自虐的に思った。
そこら辺には大概、まともな奴はいないから。
まあ逆からしてみれば、自分の書いたものを好意的に受け取ってくれる人間ほど眩しいものはないのだから、結構そういうタイプの人間を惹きつけてしまう性質を持っているのかもしれない。
そこら辺もあるから、そういう性質だったであろう今はいない彼女のことを僕は有難く思っていたし、好ましくも思っていたのだから、おそらくこれは間違いないことだろう。
その枠組みで行ったら、間違いなく従姉妹もその部類に足を突っ込んではいる。というか、面と向かって僕の書いたものを好きと言ってくれたファン1号なのだから、特別なのはただの事実に過ぎないのだけれども。
そんなことをつらつらと考えながら、その横顔をぼんやりと眺めている。ぱっぱっとページを捲る手、そのうちぴたりと従姉妹の動きが止まった。
おおよそ捲り終わってるから、おそらく最後の一ページ。そろそろ感想がぶつけられるか、もしかしたら酷評されるだろうか、どんな感想が飛んできてもいいように身構えていると、「んー?」と何やら疑問に思う声が聞こえた。
何か、理解できないようなことを書いたっけ。それも欠落だろうか、実物だから実際そういう事はありうる。
恐る恐る様子を伺っているけれども、彼女は僕に対してなんの指摘もしなかった。ただゆっくりとフクロウの如く首が横に傾いていく。
「もしかして、オチが気に食わなかった?」
「いや……昔読んだ通りに面白かったし、これぐらい面白い奴がまだたくさん残っているとするならさ、非常に喜ばしいことではあるんだけどね……」
ポンポンとちゃぶ台の横に置かれたダンボールを叩いて、それはそれとしてこちらに最終ページを向けて来る。
「ほら、ここに書いてある日付がさ」トントンと指さされたところには数年前の月日が書かれている。
「私、最初に一番新しい奴が読みたいって言ったよね」
「うん、これが僕の書いた一番新しい奴だからね」
「……あの、なんか間違って他のやつを出したりしてない?」
ほら、途中から原稿用紙からパソコンに移行したりとかさ、スマホの執筆アプリに移行したりとか。
僕はそんな疑問をバッサリと切り捨てる。
「いや、本当にこれで最後だけど」
その言葉を聞いた途端、頬を両手で挟んで声にならない無音の叫び。おお、ムンクだ、懐かしい。あれ5枚ぐらいあるんだよな。その叫びのポーズのまま、彼女はそのまま横にばたりと倒れた。
嘘はついてない。
言い換えでもない。
一応書いた奴は全部データに落としてはいるが、基本的に物を書いてからデータで残すという形だからここになければどこにもない。
だからこれが最後の一作。まあ、これは特別で実物でしか残ってないのだが。
そのうち再起動するだろうと眺めていると、ちゃぶ台を支えに身を起こしながら、彼女は弱々しく呟いた。
「……なんで……なんで、新しく書かないの?」
「なんでって言われてもなぁ」
「だって旭お兄ちゃん、才能あるじゃん。なら書けばいいじゃん、書くしかないじゃん……」
勝手なことをいうなぁとくすりと笑いが漏れた。まあ実際他人のことだし、なんとでも言えばいいと思うけれども。
自分は才能はないと思ってるけれど、それを説明しても仕方がない。他人の求めるものを書けないという話をしたところで、彼女は僕が書いてるものを求めてるという事実が衝突してしまうから。
だから、小賢しく微妙に矛先をずらすことにした。
「どうにも書く目的が薄れちゃったからなぁ、仕事は忙しいしね」
「それってやっぱり、ちんこがなくなっちゃったから……?」
「ちんこっていうな、女の子なんだから」
自分は言ってもいいけど、彼女は駄目。女子高生の儚い幻想が薄れてしまうから仕方がない。
紅茶で唇を湿らせてるうちに彼女は次から次へと質問を投げかけてきた。
「意欲の問題? 時間の問題? 題材の問題? でも、題材ならいくらでもあるじゃん。ほら例えば、性別が男から女に変わったなんて経験は旭お兄ちゃんしかないんだからさ、それを武器にして書くこともできるじゃん」
「まあね、書こうと思えばきっと書けるんだろうね」
でも、書く意味がない。
僕にしか書けない題材なら幾らでもあるのに、それでもやろうとしなかった。
社会人だからという言い訳も、時間を捻り出そうと思えば幾らでもできたのに、それでも作ろうとしなかった。
僕に意欲が無いからか。
きっと多分、そうなのだ。
「目的があれば書けるんだろうけれども、今はそれが見つからないから」
「っていうかさぁ、お兄ちゃんが何も書かなくなっちゃったから彼女もいなくなっちゃったんじゃないの? もしかしたら、性別が変わっちゃったから書けなくなったのかもしれないけれどさ」
鋭い指摘だと思う、けれども首を横に振って返す。
「あの頃はまだ書いてたんだよ、でも振られてからなーんも書けなくなっちゃった」
「……あれ、でも、さっき最近まで彼女が居たって」
「……」
「……」
なんで見栄張ったのという視線を目を逸らして知らないふり。
気まずい沈黙を破るべく、ぱっと目の前に両手を広げて見せる。そこには何にも握られてない、何にも残っちゃいない。
「とにかく、今の僕には何にも残っちゃいないんだよ」
あの頃の自分の書く目的が、彼女に僕の書いたものを見せる為だった。誰もいなくなって仕舞えば、こうなったのも当然のことだろう。
たっぷりの沈黙の後、彼女は呆れたように大きなため息をついて背もたれがわりに本棚に寄りかかった。
「んー……旭お兄ちゃんのその意見は分からなくもないけれど、それは駄目というかなんというか、私は嫌いだな」
嫌い、という言葉が胸にトスっと突き刺さる。初めてそんなこと言われたかもしれない、従姉妹に。少し、というかだいぶ胸が痛かった。
なんか変なこと言ったけと思うけれどよく分からない。分からないのに、というか、それは良くないよ、と僕の目をじっと覗き込みながら二発目を入念に捩じ込んできた。
「お兄ちゃんが大変なのもわかるけど、元カノのことを今でも引きずってるのかもしれないけどさ、書かない理由を今ここにいない理由を被せるのは可哀想じゃない? それなら建前だけでもいいから、性別が変わって書けなくなったって私に対して言い訳を並べるだけでいいじゃん」
「なんも説明せずに僕のことを置いて行った人のことを思いやれって?」
「うん、そのほうが旭お兄ちゃんらしいよ」
そして何より、と僕の胸のど真ん中を指差して撃ち抜いた。
「だって旭お兄ちゃん、まだその人のこと好きなんでしょ?」
自傷行為はやめなよーなんて、上から分かった口を聞いてるのがほんの少しだけむかつく。まあその通りではあるのだけれども、他責を重ねたところで、そんな嘘を重ねる自分に虚しくなるだけなのだから。
ただ、見捨てられた僕にふさわしい位置に落ちていくだけ。そこに辿り着いたところで何にも残っちゃいないのだから。
「お兄ちゃんはさ、いつになったら真っ当に失恋出来るの?」
「逆に僕に教えてよ、どうすれば吹っ切れるのかを教えて欲しいよ。僕よりエミちゃんの方が恋愛経験あるでしょ」
「んーん、告白も失恋も恋人も全部経験したことない、私はずっと一筋だから、一人しか眼中にないの」
やっぱりこんぐらいの歳になれば好きな人の一人ぐらい居るもんなんだな、そう思いつつ彼女の顔を伺うと不機嫌そうに頬を膨らませていた。
好意を寄せられている果報者は相当朴念仁なのたろう、きっとフラストレーションを日頃からコツコツ重ねているに違いない。
「とりあえずお兄ちゃんは元カノの持ち物を全部捨てよっか」
「そんなことしたらこの部屋が半壊しちゃうんだけど」
「大丈夫大丈夫、成長には痛みが伴うんだよ。きっと必要なことだから、本はどんどん入れ替えていこうよ」
あと、あれと窓際の机を指差した。
「振り切りたいなら、まずはあの写真立てを捨てることから始めなきゃ」
「それを捨てるなんてとんでもない」
「ねえ、お兄ちゃん。アドバイスを求める割には全然振り切ろうとしてないよね」
「滅相もございません」
まあ実際のところ、あんまり変わろうという気概もないけれども。
もし僕の何かが変わるとするならば、きっとそれは今の僕じゃ駄目な理由なのだろう。それを彼女が教えてくれることをこの部屋でずっと待っていた、僕一人でずっと考えたところで何も分からなかった。
座布団の上で今みたいにぎゅっと膝を抱きしめながら考えていたけれども、そもそもヒントが無いのだから仕方ない。
「男から女に変わったのは関係ない、今でも彼女は僕を好きなまま、でも今のままでは僕は駄目……」
「何それ、なぞなぞ?」
「違うよ、昔彼女が出て行った時に言った台詞。ここから導き出される答えはなんだと思う?」
「んー、お兄ちゃんは言葉通りの解法を求めてるの? 別に好きな男ができたとかそういう答えはどう? そういう答えじゃ納得できない?」
従姉妹への好感度が5下がった!
「冗談はさておき、あの人、嘘はつかないと思うんだ」
まあ正確にはそうあって欲しくないと思っているのだけれども、そういう理想を勝手に当てはめているだけと言われたらそうかもしれない。
それでも、あの時彼女が泣いてるように見えたのは気のせいじゃないと信じたいから。
「ほんとにもう、お兄ちゃんは仕方ないなぁ」
呆れたように首を振って、それでも紅茶を一気に流し込んで空のカップを机に置いた。
「答えを解いたら、一つお願いを聞いてよね、旭お兄ちゃん」
答えを解いたら、救いは残っているのだろうか。
彼女は僕に何をお願いするのだろうか。
きっと、何かが変わるような気がした。
停滞と逃避を選ぶ自分と違って、一歩前踏み出せる彼女なら。
救いを求めて、僕は彼女の手を取った。