初恋の従兄弟がアメリカで行方不明になった   作:かりほのいおり

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最後に笑うのは誰?

 

 4

 

 おしゃれな便箋なんてものは、当然家にはなかった。

 昔使って余していた原稿用紙しかなくて、仕方なく僕はそれを使うことにした。でも、それが僕らの関係にもぴったりだろう。

 

 それが始まりだったから。

 学科の飲み会でベロンベロンに酔い潰れて、情けないことに彼女に家まで送り届けられて、その挙句に机の上に出しっぱなしだった書きかけの原稿を見られるなんて痴態からはじまった僕らの話。

 

 あの部屋でひとりぼっちだった僕を君が拾い上げてくれたのは、きっと偶然だったろうけれども、それでも僕はあの時、確かに救われたのだ。

 

 情けないことに、君が去ってから僕は書くのをやめてしまった。また一人で、君が僕を見つけてくれるのをただ待ちぼうけしていた。

 

 そしたら君の代わりに、従姉妹が来た。

 なんの前触れもなく唐突に。SOSのサインを受け取ってしまったが故に助けてあげようと思ったら卑怯な騙し討ちを喰らって、こっちが助けられる羽目になったのが情けなくなるけれども。

 

 その助けを借りて、僕が書いた最後の作品も従姉妹に渡して、君に届けさせる。

 まあ、それは数年前のものだからとっくに色褪せた物語ではあるのだけれども。

 

 今出せるありったけをぶつける為に、僕は久しぶりにペンを取った。

 もう訛りに訛り切った腕だから、きっと失望されてしまうかもしれないけれども、君のいなかった間の僕が見たものを知って欲しいと思ったから。

 

 時間が足りない、推敲する時間もない。

 もしかしたらこんなもの書いても無駄なのかもしれないけれども、君が僕に何を求めていたのかまだわからないけれども。

 とにかくこれを書きあげられれば、権利を手にいられると願っていた。

 

 僕にはラブレターなんて小っ恥ずかしくて書けないから、お話という形で濁すことしかできないけれど許して欲しい。

 

 5

 

 結局も一睡も出来ないまま、一心不乱に机に齧り付いて。

 それでもなお完成することがなく、挙げ句の果てに従姉妹に情けなく時間を稼ぐよう依頼していたのがほんの数時間前の僕の姿。

 

 書き上がった原稿は読み返す暇もない、というか集合時間を当然オーバーしていた。慌てて原稿をまとめて封筒に放り込む。

 シャワーを浴びる余裕どころか、顔を洗う時間もない、シューズを突っ掛けて陽炎ゆらめくアスファルトの上を駆ける駆ける。

 寝不足でグラグラと揺れる地面を踏み締め、きっとまだ居ますようにと祈る。

 

 願いが届いたのか、ようやく辿り着いたファミレスにはちゃんと二人は残っていた。

 数年ぶりの感動の再会ではあったけれども、僕も彼女も何も変わらないままではなかった。千鶴の髪は幾分短くなっていたし、代わりに僕の髪は長く伸びていた。

 

「……てっきり、また逃げ出したもんだと思ってた」

「失礼だな。でも本当は、今すぐにここから逃げ出したくてたまらないんだけどね」

「でも、ちゃんと来たんでしょ」

「うん、来ちゃった」

 

 久しぶりの会話が、罵倒から始まるなんて。

 代わりにその出だしのお陰ですっかり千鶴の硬直が解れて、いつも通りの様子を取り戻したようだった。

 

「ねえ、旭。答えは見つかった?」

「見つからない、見つけられるはずがない、見つかったはずがない。正直こんなのってさ、自分の背中を見ようとするようなもんだよ、他人に見てもらうのが一番手っ取り早いんじゃないって最近は思うんだ」

「そう、じゃあその従姉妹にみて貰えば?」

 

 僕の隣でむすっとした表情をしたエミのことを顎で指す。

 

「……答えは教えてもらったけれど、旭お兄ちゃんには教えたくないな」

「だってさ。というか、そんなすぐに答えも教えたのかよ。それなら僕にも素直に教えてくれれば良いのに」

「駄目、知らなくていいよ。お兄ちゃんはこんなの聞かない方が良い」

 

 なんとなくエミの千鶴を見る視線には敵意が宿っているような気がした。そこにいたる答えと言われても、尚更答えがぼやけていく。

 うーんと頭を傾げるのをみて、千鶴は呆れたように肩をすくめた。

 

「答えもわからないのに、旭はここに何をしに来たの?」

「これを渡しに。1番新しいものを見せるって言ったんだから、僕は嘘をつきたくないんだ」

 

 原稿が詰まった封筒を差し出す。

 一昼夜で突貫で作った短編。書き終えてから読み返す暇もなかったけれども、自分なりに今書けるものの精一杯。

 千鶴はその封筒を。キョトンとしていたけどハハッと笑い声をあげた。

 

「いいじゃない、そういう旭のやり方は嫌いじゃないよ。そういう建前を作ったのね」

 

 答えは見つからないままなら、僕は彼女に会う資格がない。

 勝手にそう決めて、そのルールに従っていた。

 

 じゃあ、今日ここにきた理由は?

 答えも見つかってないのになぜ?

 

 僕が、彼女に書いたものを見せるの宣言したから。

 一番新しいものを見せると、少なくとも数時間前まではエミが持っていた原稿がそうだったのだろう。

 彼女を経由すれば、原稿を届けることができる。

 

 じゃあメッセンジャーがいなくなった後に、新しい作品が出来たのであればどうすればいいのか。僕は新しく書いた原稿を届けなければならない、届けなければ約束に反してしまう。

 

「一種のパラドックス……そういう自分を通すために理由をこじつけようとするのは結構好きだよ」

 

 我ながら無茶苦茶な理論だとは思うけれども、千鶴からすると好評のようだった。手、出してという指示に従って両手を前に伸ばせば、ガシッと手を掴んでぎゅっぎゅっと握りしめてくる。

 思わずドギマギとしてしまう、隣から向けられる何してんだこいつという冷たい視線と合わせて頭寒手熱の効果がある。

 背中に冷や汗が伝うのを感じていると、千鶴は手を握ったまま口を開いた。

 

「ほんともう、旭が今日ここに来るってわかってるなら、もっとちゃんと準備してたんだけどな」

「じゅ、準備って……?」

「綺麗な手よね、ほんと。男だった時とは全然違う指」

 

 手を返さないまま、順繰りに一つ一つ丁寧に指をなぞっていく。

 なんかいけないことをしているような気がして、思わず目を逸らしてしまう。まあ手の感触からは逃げられないのだけれども。

 

「こういうときにさ、指輪を付けて現実を突きつけてあげたら効果的なのにね」

「……指輪?」

「そう、婚約指輪。それを付けて冷たい現実をゆっくり押し付けてあげたかったなーってね」

 

 カッと顔が熱くなって、サーッと冷たくなる。

 

「ごめん、エミちゃん。昼間だけど適当なアルコールを頼んでもらえる……?ここからじゃどうしてもタブレットまで手が届かないんだ」

「手を離せばいいじゃないですか。そもそも頼みませんし、頼ませませんよ。大人しく飲みかけのお冷やか、オレンジジュースで我慢してください、素直に頭を冷やして現実を受け入れてください」

 

 流れるように口にお冷を流し込まれる。

 両手が塞がってるから抵抗することもできない。

 口の横から溢れない絶妙な塩梅で注がれたけれども、溢れないからといってむせないわけではない。

 ゴホゴホとむせ始めたタイミングで両手の感覚がずーっと遠ざかっていってほんの少しだけ物寂しくなった。

 

「本当にもー、旭って可愛いよね。冗談よ冗談、ここまでリアクションがあると私も虐め甲斐があるもん」

 

 あははと引き攣った笑みを浮かべる、本当にそんなことないんですよね。

 冗談っていうのは婚約している彼氏がいるのもそうなんですよね。

 けれども、千鶴は笑って誤魔化すばかりでなんも答えなかった。

 

「旭お兄ちゃん、気にしなくていいですよ。どうせハッタリ、そんな相手がいるなら先に私が聞いてます、どうせ独り身です」

「よくやった。褒美になんかデザートを注文していいよ、僕が奢ってあげるから」

 

 従兄弟同士のやりとりを生暖かい目で見て、千鶴は軽く言葉を付けた。

 

「旭はさ、変わったね」

「なんも変わってないよ、僕はずっとこのまま」

「でも、旭はここに来た。今更だけど逃げないことを選んだ」

「それは……プライドだよ」

 

 なにも変わってないのだ。

 今昔も、結局、僕の本質は何も変わっていない。

 性別が変わろうとも、なまっちょろい性質はそのままだった。

 

 それでも、胸の中に忘れ去られそうになっていた一つの目標が残っていた。

 せめて僕が理想の従兄弟でありたいと思っていた、昔の思い出は無くなることはなかったから。

 ちっぽけな虚栄と、僕の心の衝動を燃料にして僕は今ここにいる。

 

 隣に腰掛けていたエミの頭をポンポンと優しく撫でる。

 結局のところ、スイッチを押したのは彼女だった。

 気恥ずかしいのか、今すぐ隣で顔をぽっと赤らめている彼女がいなければ、何も始まることはなかった。

 そう断言しても構わないだろう。

 

「ありがとう、エミちゃん。まだ何も終わってないけれど」

「お礼を言われるようなことは何もしてないですよ、まだ何も始まってないんですから」

 

 ようやく頭から手を振り落とされて、手持ち無沙汰になり千鶴へと向き直る。

 

 そう。

 まだ何も始まってないし、何も終わってない。

 そのために僕はここに来た。

 これからの僕たちの話をするために来たのだ。

 

「今日は、千鶴に話があるんだ」

「……仕方ないから聞いてあげる」

 

 これから何が始まるのかまるでわかってきっているかのように、千鶴はニイと笑みを浮かべて僕のことを見つめていた。

 

 すっと、一つ息を吸い込む。

 大丈夫、覚悟は出来ていた。

 ここからいい方向に転がろうが、悪い方に転がろうが、素直に受け止めてもう前に進むしかない。

 

 もう、停滞し続ける事はできない。

 今隣にいる彼女の為にも。

 理想の従兄弟であろうとするのであれば。

 

「――そう、旭お兄ちゃん()覚悟が出来たんだ」

 

 不意に横から言葉が滑り込んできた。

 今回の出来事の立役者にして、間違いなくMVPであろう彼女。

 本来だったら僕らの話に関わるべきではなかった、一粒のイレギュラー要素。

 

「ねえ、こっちを向いてよ。お兄ちゃん」

 

 その言葉に反応するより早く、僕が自分から隣を向くより先に、顔を掴まれてグイッと向けられる方が早かった。

 そして困惑が脳に届くより先に、顔に衝撃が走る方が早かった。

 

 柔らかく、そして湿ったものが唇にぶつかって、そのまま離れようとせずにぎゅっと強く押し付けられていた。

 あ、オレンジジュースの味がするな、なんて現実逃避気味に考えていれば、ふっと目の前にあったエミの顔が遠ざかっていく。

 

「何惚けてるのよ、旭お兄ちゃん」

「あ……え……? な、んで……何が、どうして……どうなった……?」

「もう、ちゃんと言わなきゃわからないのかな。人が人にキスをする理由なんて、そんなの一つしかないでしょ?」

 

 唐突にエミにキスをされた。

 僕が従姉妹に唇を唐突に奪われた。

 理解が追いつくにつれて、顔から火が出るような気がした。

 

 こんな状況の意味なんて、どんな朴念仁でもわかるはず。ただ、その現実を僕が理解しようとしないだけで、逃げようのない事実だけがそこに転がっていた。

 

 エミが僕に向けている感情はなんだ?

 どうして、それをこの場で明かす?

 

 負けヒロインになる気なんて私にはさらさらないんだから、そんな彼女のセリフが左から右へと通り過ぎていく。

 

 千鶴は心底可笑しそうに口の端を吊り上げていた。

 ほら、ここが選択の時間だぞと言わんばかりに。

 

「ようやく、私のことをちゃんとみてくれたね。旭お兄ちゃん」

 

 視線を隣に戻せば、エミがこちらに半身を乗り出して微笑んでいる。

 気押されて思わず少し席をずれるも、同じ距離だけ彼女は近づいてくる。

 

「私はずっと、ずーっと、旭お兄ちゃんのことが好き。ねえ――旭お兄ちゃんは、私のことをどう思ってるの?」

「……それは、もちろん、ずっと可愛いと思って」

「違うよ、そうじゃない。可愛いか可愛くないかじゃないの、そんな分かりきった答えは求めてない。私が求めてるのはね、好きか、愛してるかしか聞いてないの」

 

 それは一択じゃん、二択じゃないじゃん。

 どろりと溶け込むような彼女の視線に見つめられて、いよいよ息が苦しくなってきた。

 

「ね、教えてよ。旭お兄ちゃん」

 

 とびっきりの笑顔で、彼女が詰め寄ってくる。

 

 僕が選んだ行動は一つ。

 あまりに冴えないやり方。

 

 脱兎の如く、僕はファミレスから逃げ出した。

 

 6

 

「……逃げましたねぇ」

「……いい逃げっぷりだねぇ」

 

 千鶴さんと二人揃って笑い合う。

 結局、こうなってしまったけれどもそれでいい。

 少なくとも終わったわけではないのだから。

 

「ねえ、千鶴さん。今の旭お兄ちゃんをどう思ってるんです?」

「一から十まで言わなきゃわからない?」

 

 旭お兄ちゃんは何も変わっていないという。

 それなら前に振られた状況と同じだから失敗に至るはずなのに、私にはそうなるとはどうしても思えなかった。

 

「一度自分勝手に振っておいて、酷い人」

「憧れのお兄ちゃんの恋路を邪魔した人のセリフとは思えないけど、わかってる?」

「だって、あの場で我慢できるはずないじゃないですか。そこで見逃したら負けるってわかってるのに、黙って許すはずがないじゃないですか」

「それが旭の幸せを妨げることになったとしても? 私が旭を見捨てる結果になったとしても?」

「別に、幸せのあり方なんて一通りじゃないんですよ。千鶴さんと結ばれなかったとしても、旭お兄ちゃんが不幸一直線ってわけじゃないでしょう?」

 

 私じゃなくても、千鶴さんじゃなくても、旭お兄ちゃんのことを好きになる人が現れるかもしれない。

 そういうルートだって当然あるのだ、ただあの場で黙っていたら問答無用で千鶴さんルートで一直線間違いなしではあっただろうから。

 

 それは、どうしても許せない。

 

「旭お兄ちゃんがこの場から逃げ出したからって、何も変わっちゃいない。結局は千鶴さんはあの人のことを嫌いになってないんでしょう?」

「当然。そういう弱いところを含めて、私は旭のことが好きなんだから」

「やっぱり、ね。もしもの話……あのとき、旭お兄ちゃんが千鶴さんにもう一回告白したら、千鶴さんは受け入れたんですか?」

 

 ご想像にお任せするよ、彼女はそう言って私から目を逸らした。

 そう、結局そうなのだ。

 

「ならいいでしょう、私にも時間が欲しいんですよ」

 

 私が行動することで、少なからず旭お兄ちゃんの動きは縛った。

 私がまたあの街に戻っても、すぐに千鶴さんとくっつくことはないだろう。

 

 なぜなら、あの人はどうしようもなく優しいから。

 自分に好意を向けてくれる相手を無碍に出来ない。

 その上で、私に対する答えからも逃げ続ける。

 そう。逃げ続けてくれる。

 そのうちは、二者択一が始まることもない。

 

「千鶴さんには悪いことしたと思ってますよ」

「なーんも思ってないくせに、ね」

「思ってますよ、悪いことをしたなーって」

 

 半分嘘、結局それも千鶴さんの自業自得だ。

 彼女は旭お兄ちゃんから寄りかかられることから逃げた人なのだから。そもそも最初に権利を手に入れたのに、あっさり投げ捨てて、たまたまセカンドチャンスを私のおかげで拾っただけなのだから、こちらが責められる筋合いは一切ない。

 

 でも、千鶴さんがいなければ私が勝負の土俵に上がれなかったのだから、その点だけに関しては感謝してる。まだ恋愛対象として千鶴さんという女性がいたから、比較として私を並べることができた。

 元カノという楔がなかったら、もしかしたら恋愛対象も男性へと変わっていたのかもしれない。

 

「ずっとなんとなく勉強してたけど、ようやく何がやりたいか決めました。私もこっちの、旭お兄ちゃんが通っていた大学を目指します。今年合格したら、旭お兄ちゃんの家に居候します」

「へえ、エミちゃんも結構頭いいんだ?」

「いえ、まだ全然届かないですよ。今まで一度も目指そうと思わなかったレベルです」

 

 ずるっと頬杖から千鶴さんの頭をずり落ちるのをみながら、実際どの程度の可能性なのかを考える。

 10パー、20パーもあるか? ……いや。

 

「受かるか受からないか、50パー50パーと言ったところですね」

「いやいや、無茶があるからねそれ。ほんとにもう……」

 

 呆れたように千鶴さんがため息を吐いた。

 

「本当に仕方ない子。居ない間に勝負をつけようかと思ったけど、それも可哀想」

「仕方ない子ってなんですか、こんなに可愛い顔をしてるのに」

「あら、エミちゃんの受験結果がわかるまでアタックしないっていう淑女協定を結んであげようと思ったのに、それもいらないんだ」

「是非、お願いします」

 

 テーブルの上で平身低頭、わざわざ断ってハードモードに突入する必要ない。あっさり脳破壊されかねないリスクを回避できるなら乗り得だ。

 まあ、千鶴さんが嘘をついてるのかもしれないけれど、どちらにしろ選択権は彼女にしかない。

 

「私、昨日旭お兄ちゃんが千鶴さんの為に必死に原稿を書いてるのを見たんですよ」

 

 初めて原稿に取り掛かってる姿を見た。

 あの人は私に意識を一切向けないで、ペンと紙に向かい合っていた。正確にいえば紙の向こう側にいる、千鶴さんに語りかけていたのだろう。

 

 空に向かって石を投げるような作業だな、それを見ながら私は思った。

 石が違う星にいる誰かに届くかもわからないのに、そもそも大気圏すら突破できずにまっすぐ自分の元に落ちてきているのかもしれないのに、きっと届くだろうと信じて、ひたすら言葉を投げつけ続ける。

 

「千鶴さんは、羨ましい。そしてズルい。私はまだそこまで辿り着けてない。同じ場所にいたから、ただの従兄弟同士でしかなかった」

 

 いつかそのうち、旭お兄ちゃんは私に向かって言葉を投げつけてくれるようになるのだろうか。

 

 そうなって欲しいのだ。

 

 千鶴さんに恋焦がれて取り憑かれたように原稿に向かい合う旭お兄ちゃんを見てしまったから。

 その矛先がどこまでいっても私じゃないことに、どうしようもなく泣きたくなってしまったから。

 

「……旭お兄ちゃんはアメリカで行方不明になったのが本当だったら、素直に失恋できたのにな」

 

 そんなの全部嘘。

 私の言ったセリフをきっと一ミリも理解できていないだろうに、千鶴さんは優しそうに微笑んでいた。

 本当にもう、この人のことは好きになれない。

 

「……千鶴さんは私たちのお爺ちゃんの話を聞いたことあります?」

 

 なのに、自然と口は動いていた。

 私と旭お兄ちゃんの話を、この人に聞いて欲しいと思ったのだ。

 

 話初めの掴みは、なんとなく思い浮かんでいた。

 

 

 

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