To heart 30年後〜屋根裏物語〜 作:Joseph Lee
2023年3月10日
――春の雨が、しとやかに降っていた。
窓ガラスを伝う雨粒が細い筋を描き、軒先からは一定の間隔で雫が落ちていく。
雨の日特有の湿った空気の中、淹れたての紅茶の香りだけが、家の中にやさしく広がっていた。
あかりはキッチンでコップを片づけながら、食器洗浄機の上に置いた携帯電話で通話していた。スピーカーフォン越しに、聞き慣れた賑やかな声が響いている。
「うんうん。今着いたばかりなの? 結構大雨だったでしょう」
『雨より大きな問題があるわよ』
開口一番、それだった。
『あんたの夫、まだ傘忘れするの?』
あかりは思わず笑ってしまう。
「今日も玄関に置いたまま出ようとしてたから、私が捕まえたよ」
『変わらないわねぇ。学生の頃からそうだったじゃない。傘忘れる、体操服忘れる、宿題忘れる』
「……世話のやける子を持つと大変だよ」
『それ、同意ってことでいいの?』
「あ、いや……そういう意味じゃなくて」
『いいわよ。そういうことにしておくから』
あかりは苦笑しながら携帯電話を手に取り、スピーカーフォンを切って耳に当てた。
「志保、忍ちゃんが聞いちゃうよ」
『いいじゃない。父親がどれだけダメ人間なのか、知っておく必要もあるわよ』
「そこまで言わなくても……」
『またかばう』
返事の代わりに、あかりは小さく笑った。
『みさきは今、忍くんと遊んでるの?』
「うん。またかくれんぼ。ほんと、昔の私と浩之ちゃんみたい」
『二人そろうと騒がしいよね』
「仲がいいってことだよ」
『当然じゃない。優秀な親を持った子どもたちなんだから』
「優秀な?」
『お父さん一人は除いてね』
あかりはついに吹き出した。
「浩之ちゃんが聞いたら落ち込むかなぁ」
『あいつは少しくらい落ち込んでるほうがちょうどいいの』
「それは……ちょっと分かるかも」
『あら、今日はずいぶん素直じゃない』
あかりは窓の外へ目を向けた。
雨粒が流れ落ち、ぼやけた景色をさらににじませている。
「……時間、早いね」
『なに、いきなり』
「志保と中学で出会ったの、昨日みたいに思えるのに」
受話器の向こうが、一瞬だけ静かになった。
『……そうね』
「もう子どもたちが、一緒に遊ぶ歳なんだもんね」
「ちょっと、何しんみりしてんの。こっちまで年取った気分になるじゃない」
「ふふ……ごめん」
『もういいわ。夕方前にはみさきを迎えに行くから。それと、ヒロにちゃんと傘持たせなさいよ』
「はいはい」
『いや、あんたが直接渡しなさい。どうせまた忘れるんだから』
そこで電話は切れた。
あかりは携帯を下ろし、くすりと笑う。
「ほんと……何も変わってないなぁ」
そのまま、ふと天井を見上げた。
廊下の端。
普段は誰も気に留めない、屋根裏への入り口。
しばらく視線を向けていたが、やがて何事もなかったように背を向けた。
――忍はリビングの真ん中で、両手で目を隠していた。
もうすぐ小学六年生。
それでも二人は毎日のように飽きもせず、家じゅうを遊び場にしている。
「18、19、20! もういいかーい!」
勢いよく目を開ける。
「探すぞー!」
とたとた、と階段を駆ける音。
そのあと、二階のどこかで扉の閉まる音がした。
忍はにやりと笑う。
「上手く隠れたかな」
カーテンの裏。いない。
ソファの後ろ。いない。
靴箱の横の隙間。もちろんいない。
「なかなか頭使ったな……」
二階へ上がり、両親の部屋、書斎、物置まで確認したが、みさきの姿はなかった。
「……まさか外?」
そうつぶやきながら廊下を歩いていた時だった。
ふと、天井に目が止まる。
廊下の端に、四角い木製パネル。
その下には、短いロープが一本だけ垂れていた。
「……こんなの、あったっけ?」
忍は背伸びし、ロープを思いきり引いた。
ガタンッ。
折り畳み式のはしごが降りてきて、たまっていた埃がぶわっと舞い上がる。
「うわっ!」
が、驚きより先に胸が躍った。
「ねぇ! 一人で何してんの!」
背後から、みさきが飛び出してきた。
どうやらクローゼットに隠れていたらしい。
「そこにいたのかよ!」
「あんたが鈍いだけでしょ!」
「なんで出てきたんだよ」
「あんたが面白そうなもの見つけたから!」
二人は同時にはしごの上を見上げた。
みさきが一歩下がる。
「……ほこりすごそう」
「びびった?」
「そんなわけないでしょ」
「じゃあ行こうぜ」
「……あんたが先ね」
――屋根裏部屋は薄暗かった。
小さな換気窓から曇った昼の光が差し込み、古い木と埃の匂いが満ちている。
積み上げられた段ボール。古びた扇風機。ラジオ。色褪せたアルバム。
「うちにこんな場所あったんだ……」
「あんたの家でしょうが」
忍は箱をひとつ開けた。
古い制服。ノート。カセットテープ。
別の箱にはアルバムが入っていた。
そこには、今よりずっと若い父と母。
そして、みさきの両親――佐藤雅史と佐藤志保が、制服姿で笑っていた。
「若っ」
「うちのパパとママだ」
「中学の頃からずっと一緒だったんだって」
「ふーん」
ページをめくっていた二人の手が、同時に止まる。
部屋の隅。
布をかぶせられた、細長い何か。
人ひとり横たわれるほどの大きさだった。
「……なに、あれ」
「あんたん家なんだから、あんたが知ってなさいよ」
「おれも初めて見るって」
忍はゆっくり近づいた。
みさきはその服の袖をつかむ。
「ちょ、ちょっと待って。幽霊とかだったらどうすんの」
「どんな暇な幽霊が、人ん家の屋根裏で昼寝するんだよ」
そう言って、布の端をつかむ。
一気にめくった。
舞い上がる埃。
そこにいたのは、一人の少女だった。
短い緑の髪。
耳を覆うアンテナ状の白い装飾。
黒と白のメイド服。
両手は腹部の上で静かに重ねられている。
人形。
そう思うには、あまりにも精巧だった。
肌の質感。まつげ。唇。
関節部にわずかな継ぎ目がなければ、人間そのものにしか見えない。
しかし、その顔には細いひびが走っていた。
頬に。額に。顎の線に沿って。
まるで、古い陶器のように。
「……なにこれ」
みさきが後ずさる。
忍は吸い寄せられるように近づき、指先で額の埃を払った。
そこに文字が刻まれていた。
HMX-12:MULTI
「……名前?」
「メイドロボ、とか?」
二人は顔を見合わせ、息をのむ。
やがて忍の視線が壁際へ向いた。
古い電源ケーブルが一本、丸められて置かれている。
「……電源、入れてみるか」
「はぁ!? 本気で言ってんの?」
「気になるだろ」
「爆発したら?」
「しないって」
「その自信が一番信用できないんだけど」
忍はもうケーブルを手に取っていた。
壁のコンセントへ差し込む。
カチッ。
沈黙。
何も起こらない。
「ほらぁ、やっぱり――」
ピッ――
小さな電子音。
二人の体が硬直する。
少女の身体の奥で、冷却ファンが回り始めた。
閉じていたまぶたが、ゆっくりと開く。
緑の瞳が、焦点を結ぶ。
首が静かに動き、二人の子どもを見つめた。
そして、少女はやわらかな声で告げた。
「……おはようございます」
老朽化した発生モジュールから発せられた挨拶には、わずかにノイズが混じっていた。
みさきは悲鳴を上げかけ、自分で口を押さえた。
忍は呼吸することすら忘れていた。
外では変わらず、春の雨が降っている。
階下では、あかりが食器を片づける音がかすかに響いていた。
誰も知らなかった。
この屋根裏で。
ずっと昔に止まったままの時間が、今、再び動き始めたことを。