To heart 30年後〜屋根裏物語〜 作:Joseph Lee
――――夕暮れ頃
「……もうやめなさいって、言ったよね」
「母さんには、見なきゃいけないものがある」
「忍ちゃん」
あかりの声は低かったが、わずかに震えていた。
「忍ちゃんには、まだ早い話だよ」
「もう遅い」
忍は一歩、前に出た。
「俺、全部見たよ」
あかりの唇が固まった。
「……何を」
「マルチのビデオ記録」
手からビニール袋が滑り落ちた。
じゃがいもが一つ、地面に転がる。
浩之は、ゆっくりと目を閉じた。
「震災の日、マルチが俺たちを助けたところも見た。母さんが俺のことで泣いてた日々も」
あかりは首を横に振った。
「……まだ、知らなくてもいいことだった」
「母さんが、隠していたかっただけだろ」
その言葉に、あかりの表情がわずかに歪んだ。
怒りではなく、傷ついた顔だった。
――――リビング。
三人は、いつものようにそれぞれの場所に座った。
あかりは台所に近い席。
浩之は新聞を読んでいた席。
忍は鞄を置く席。
見慣れた光景なのに、今日はどの席も落ち着かなかった。
冷蔵庫のコンプレッサー音だけが、リビングに響く中、先に口を開いたのは、あかりだった。
「忍ちゃん。言ったと思うけど、マルチちゃんの話はまだ――」
「母さん、ガキ扱いするなよ」
忍の声が少し大きくなった。
「なんで俺にだけ、何も教えてくれなかったんだよ」
「まだ、知らなくてもよかったよ」
「なんでだよ」
拳がテーブルに落ちた。
コップが揺れた。
忍は荒く息を吐いた。
「マルチは……俺達の家族だったんだろ」
あかりは、何も言わなかった。
冷蔵庫の音だけが続いていた。
あかりは忍に視線を向けず、口を開いた。
「……私にとっては、難しい家族だった」
指先でカップの縁をなぞる。
「忍ちゃんは、私の初めての子供だよ」
さぞ当たり前なことを今更言う母親を見ながら、忍は瞬きをした。
「初めて抱いた子。初めて名前をつけた子。初めて……自分の命より大事だと感じた子」
声が少し震えた。
「だから、怖かった」
浩之は黙って聞いていた。
「泣いたら、どうして泣いているのか分からなかった。熱が出たら、病院に行くのが先か、服を脱がすのが先かも分からなかった。眠らないと、私が何か間違えたんじゃないかと思った」
あかりは笑えない顔で言った。
「いいお母さんになりたかった。でも、いいお母さんって何なのかも分からなかった」
少しの沈黙。
「あなたが生まれるまでは、子どもを産めば自然に母親になれると思っていたよ」
あかりは小さく笑った。
「でも、違った」
それは誰かに説明するというより、自分の非を認めるような物言いだった。
「毎日がテストみたいだった。間違えたらあなたが苦しむ気がして、私が失敗したらあなたが泣く気がして、私が足りなければ、忍ちゃんの人生を壊してしまう気がして」
忍は何も言えなかった。
「そのとき、マルチちゃんがいてくれた」
あかりの目が少し潤んだ。
「震災の日、私たちを守ってくれた。崩れた家の中で、忍ちゃんと私を守って、家族を守ってくれた」
浩之の指先がわずかに動いた。
「私はあの日から、借りができたと思っているよ」
「借り?」
「うん。私の命も、忍ちゃんの命も」
忍は黙った。
「だから、マルチちゃんは家族であり、恩人でもあった」
忍の目が少し大きくなった。
「本当にそう思っていたよ」
あかりは小さく笑った。
「共同養育者……そんなふうに思っていた」
「……母さんが二人みたいなもんだな」
忍が小さく言った。
あかりは少しだけ笑い、すぐに表情を戻した。
「……うん。最初はそうだった」
言葉が少し止まる。
「あの頃、お父さんは家にあまりいなかった」
浩之の肩がわずかに動いた。
「震災のあと、会社が忙しかったから。工場も取引先も、全部大変だったよね」
浩之が低く言った。
「……ああ」
「世の中は、もっとたくさんのメイドロボットを欲しがっていたから」
あかりは小さく笑った。
「私たちは、メイドロボットと一緒に揺れていたのに」
浩之は視線を落とした。
「だから家には、私とマルチちゃんだけだった。マルチちゃんは揺れなかった。いつも正確で、いつも落ち着いてて、泣いている理由も当てて、授乳の時間もちゃんと覚えていて、体温も見てくれて、疲れたりもしなかった」
声が少し掠れた。
「私は泣いているのに。私が忍ちゃんの母親なのに」
あかりはうつむいた。
「いつの間にか、あの子に頼ってばかりだったと思う」
忍の指先がわずかに震えた。
「ありがたかった。本当にありがたかった」
そして小さく続けた。
「だからこそ、怖かった」
「怖かった?」
「うん。忍ちゃんが泣いていても、マルチちゃんに抱かれたら眠ってしまう。私が抱くと、もっと泣くのに。そのたびに……自分が母親失格みたいに感じたよ」
忍の唇が固まった。
浩之が低く言った。
「あかり」
「マルチちゃんが嫌いだったことは、一度もない」
その言葉は、一片の迷いもなく出てきた。
「嫌だったのは……」
唇が震えた。
「あの子の隣にいると、情けなくなる自分自身だった」
リビングが静まり返った。
浩之が、あかりの手を握った。
「一番卑怯だったのは、俺だ」
二人が彼を見た。
「お前が苦しんでいるのも分かっていた。マルチが戸惑っているのも分かっていた」
忍がゆっくり顔を上げた。
「マルチが、一歩引いているのも見ていた」
あかりが息を止めた。
「それでも俺は、仕事を理由に見て見ぬふりをしていた。今は忙しいと言い訳して、家族が崩れていくのを見なかったことにしていた」
浩之は小さく笑った。
「俺が、みんなを寂しくさせた」
忍は拳を握った。
怒りは行き場を失っていた。
「……じゃあ、なんでマルチは眠ったんだよ」
二人は言葉を失った。
少しの沈黙のあと、浩之が言った。
「……多分、俺たちのせいで」
あかりが続けた。
「私が崩れかけていたことも、マルチちゃんが自分自身を責めていたのも。マルチちゃんは、察しがよかったから。」
忍の目が赤くなった。
「じゃあ、全部一人で抱え込んだってのか」
誰も答えなかった。
しばらくして。
二階の自室に上がっていた忍が、ノートパソコンを持って戻ってくる。
忍は、みさきが言ったことを思い出す。
『これ見なきゃだめでしょ! 絶対見なきゃだめなやつでしょ!』
忍は、テーブルの上にノートパソコンを置く。
あかりの肩がわずかに揺れた。
「何? マルチちゃんとの思い出なら、わざわざ見なくても――」
「母さんの知らない、マルチの記録だよ」
あかりがゆっくり顔を上げた。
「……え?」
忍の声は少し震えていた。
「俺、もう分かったよ。母さんも怖がっていたし、父さんは逃げてたし、マルチは一人で我慢してたと」
ノートパソコンの画面が点いた。
REMEMBER_MY_MEMORIES
「だから見せる」
忍は、まっすぐあかりを見た。
「母さんのことを責めたいわけじゃない」
一度、息を飲む。
「マルチが残した言葉を、今からでも一緒に聞いてほしいから」
あかりの唇が震えた。
画面の端に日付が表示される。
2012-02-14
あかりの瞳が大きく揺れた。
「……この日は……」
両手を膝の上で握りしめる。
浩之が静かに椅子を引き、隣に座った。
忍が再生ボタンに指を置く。
ゆっくりと押した。
黒い画面のあと、古いリビングの映像が映る。
カーテンの隙間から光が差し込んでいた。
スピーカーから、懐かしい声が流れる。
「忍さん。私、実は分かっているんですよ」
あかりが両手で口を押さえた。
忍は画面を見つめたまま動かなかった。
浩之は目を閉じた。
マルチの声が続く。
「忍さんは、私の腕の中で一番よく寝てくれますが……」
画面のソファには、十二年前のあかりが、泣き疲れて眠っていた。
「本当は、あかりさんと少しでも長く遊びたくて、眠りたくないんですよね?」
あかりの肩が大きく揺れた。
「お母さんが大好きで、眠りたくないその気持ち……私が代わりに受け止めます」
涙がテーブルに落ちた。
「だから、今はぐっすり寝て、目が覚めたら、あかりさんに笑顔を見せてください」
忍は歯を食いしばった。
「今、あかりさんが頑張っている分、大きくなったら、その気持ちを伝えてください。
――大好きだよ、
って」
映像が途切れた。
黒い画面だけが残った。