To heart 30年後〜屋根裏物語〜 作:Joseph Lee
あかりは、動けなかった。
あの日の記憶が、封印が解けたみたいに押し寄せてきた。
あの日、忍はひどく長く泣いていた。
抱いても泣き、下ろしても泣き、ミルクを飲ませても泣き続けた。
何時間も、腕に抱いたままリビングを行ったり来たりしていた。
腕は痺れて、頭は割れそうに痛くて、どうして泣いているのかも分からない子どもの前で、自分まで泣いていた。
「ごめんね……ごめんね……」
母親のくせに、何もできなかった。
とうとうその場に座り込んで泣きじゃくっていた自分の前に、マルチがやって来た。
マルチは、あの日だけは引こうとしなかった。
静かに忍を抱き上げて、何も言わずに揺らしていた。
そして、泣き止んだ忍がマルチの腕の中で眠っていく姿を見ながら、あかりは思った。
私は負けた、と。 私は母親失格なんだ、と。
ソファの向こうで涙を拭きながら、そのまま眠ってしまったあの日。
2月14日。
結局、ロボットにも劣る母親なんだと、自分に絶望した日。
マルチが、その姿を記録していたことも。
あの子が、それに気づいていたことも。
そして、それが敗北なんかじゃなかったことも。
誰も、教えてくれなかった。
「……私は……」
声が崩れた。
「私は、そんなことも知らずに……」
浩之が静かに椅子から立ち上がり、あかりの肩を抱いた。
忍は、立ったまま動けなかった。
あかりは涙で濡れた顔のまま、天井を見上げた。
屋根裏部屋のある方向だった。
震える唇が開く。
「……上がりましょう」
――――屋根裏部屋。
三人はハシゴを上った。
最後に上がったのは、あかりだった。
足を踏み入れる。
見慣れた床だった。
季節が変わるたびに上がってきた場所。
布を掛けられたマルチの横を通り過ぎながら、一度も声をかけられなかった場所。
埃の匂い。 古い木の匂い。
そして、記憶の中の匂い。
忍が機材を繋いでいる間、あかりはマルチの隣に座ったまま、何も言わなかった。
浩之が記録媒体を接続する。
忍がノートパソコンを開いた。
起動画面が表示される。
HMX-12 M U L T I
SYSTEM INITIALIZE...
PERSONALITY CORE : LOCKED
HARDWARE STATUS : STABLE
INPUT REQUIRED
「ハードウェアは無事だって言ってたから」
忍が呟いた。
「問題はここだ」
CORE PERSONA : LOCKED
PASSWORD : _
カーソルが点滅していた。
浩之がキーボードを引き寄せる。
数字を打ち込んだ。
INVALID PASSWORD.
名前を打ち込んだ。
INVALID PASSWORD.
日付を打ち込んだ。
INVALID PASSWORD.
三人はしばらく、点滅するカーソルだけを見つめていた。
忍が口を開く。
「珊瑚さんに電話してみる?」
浩之が首を横に振った。
忍が眉をひそめる。
「じゃ、どうするんだよ」
浩之は答えなかった。
あかりが静かに言った。
「……私が、やってみてもいいかな」
二人が同時にあかりを見る。
あかりはキーボードの前に座った。
指先が震えていた。
ゆっくりと、マルチの名前を打ち込む。
M-U-L-T-I
INVALID PASSWORD.
忍が息を吐いた。
「やっぱり――」
そのとき。
あかりが口を開いた。
「マルチちゃん……」
PASSWORD : *
三人の動きが止まった。
入力欄が、一文字だけ埋まっていた。
「……音声?」
忍が息を呑む。
浩之が画面を覗き込んだ。
「音声入力がアクティブにされている。あかりの声だけに反応してるんだ」
あかりの手が震えた。
「じゃあ……」
忍がすぐに言った。
「母さん、言ってみて。なんでもいいから」
あかりは一度目を閉じ、それからマルチへ向かって言った。
「マルチちゃん。起きて」
PASSWORD : ****
「反応してる」
浩之の声が低くなる。
「でも、解除はされてない」
忍が画面を睨む。
「別にパスワードがあるってことか。母さんの声で入力する」
あかりはマルチの前に膝をついた。
そして初めて、マルチの身体を抱き起こした。
12年ぶりだった。
冷たかった。硬かった。
それでも。
「マルチちゃん……」
声が濡れていた。
「私だよ。あかりだよ」
PASSWORD : ***
「帰ってきて」
PASSWORD : ****
「寂しかったなら、言ってくれていいから。辛かったなら、辛かったって言っていいから」
PASSWORD : *******
「だから、どうか……」
唇が震えた。
「帰ってきて」
PASSWORD : ****
ロックは解除されなかった。
あかりはしばらくそのまま抱きしめていたが、やがてゆっくり身体を離した。
画面は、まだ同じ表示のままだった。
CORE PERSONA : LOCKED
忍が拳を握る。
浩之が低く言った。
「……今日はもうやめよう」
「まだ――」
「無理するな」
忍は唇を噛んだ。
浩之は深く息を吐くと、先に立ち上がってハシゴへ向かった。
あかりがその後ろに続く。
先に降りようとした浩之の足が、うっかりハシゴではなく空を踏みかけた。
「うわっ」
「浩之ちゃん!」
あかりが思わず、昔からの呼び方で叫んだ。
その瞬間。
ノートパソコンから電子音が鳴った。
VOICE PATTERN MATCHED
STATUS : RESTORED
UNLOCK CRITERIA : FULFILLED
CORE PERSONA : UNLOCKED
「父さん!! 母さん!!」
忍が大声で二人を呼んだ。
降りかけていた浩之が慌てて戻ってくる。
事情の分からないあかりが、少し離れた場所から訊いた。
「……どうなってるの?」
忍が震える声で言う。
「開いた」
「え……?」
「ロックが。開いた」
あかりが画面を見る。
CORE PERSONA : UNLOCKED
INITIALIZING PERSONALITY CORE...
だが。
マルチは、まだ目覚めなかった。
冷却ファンが回り始める。
低く、一定の音だった。
システムは生きていた。
でも、マルチはまだ戻ってきていなかった。
忍が画面を見つめる。
ログが流れる。
CORE UNLOCKED
MEMORY INTEGRITY : 100%
PERSONALITY RESTORATION : PENDING
CONDITION REQUIRED : VOCAL TRIGGER
「……まだ条件がある」
浩之が画面を見た。
「音声トリガー……」
忍が呟く。
「何を言えばいいんだよ」
誰も答えられなかった。
浩之がゆっくりマルチの前に膝をつく。
あかりも、その隣に座った。
少しの沈黙。
あかりが口を開いた。
震える声だった。
「マルチちゃん」
ログが止まる。
「この声が聞こえてたら……」
VOCAL TRIGGER : DETECTED
浩之が、その言葉を引き継いだ。
低く、静かな声で。
「帰ってきてくれ。俺たちの元に」
屋根裏部屋が静まり返る。
冷却ファンの音だけが流れていた。
そして。
画面いっぱいにログが流れ出した。
FINAL USER CONSENT : VERIFIED
ACCESSING PERSONALITY CORE...
ACCESSING...
ACCESS COMPLETE.
マルチの瞼が動いた。
ゆっくりと。
そして、開く。
緑色の瞳が、屋根裏部屋の天井を映した。
あかりが息を止める。
マルチの視線が、ゆっくり絞られていき、あかりへ向いた。
「……あかりさん」
12年ぶりの声。
あかりは何も言えなかった。
マルチが静かに言った。
「お待たせして、すみません」
その言葉で。
あかりは、とうとう崩れ落ちた。
忍は母親の泣き声を聞きながら、初めてこの12年がどれほど重かったのか、分かった気がした。
――――しばらくして。
屋根裏部屋は静まり返った。
マルチは、あかりの隣に座っていた。
忍は部屋の隅で膝を抱えながら、赤くなった目を見られないようにしていた。
浩之は窓の方を見ていた。
誰も喋らなかった。
あかりがマルチの手を握ったまま、小さく言う。
「マルチちゃん」
マルチが瞬きをした。
「おかえり」
マルチは何も言わなかった。
ただ、握られた手を、そっと握り返した。
屋根裏部屋に、冷却ファンの音が静かに流れていた。
低く、温かな音で。