To heart 30年後〜屋根裏物語〜 作:Joseph Lee
――――日曜日の朝。
「マルチ、ここに座ってくれ」
朝の日差しが窓からリビングへ差し込んでいた。
浩之は小さなドライバーを口に咥えたまま、マルチの顔を見つめていた。
両頬には、古いひび割れが残っている。
いつからできたものなのかは分からない。
2012年にマルチが凍結された時には見えなかったものだ。
凍結後、長い年月をかけて進行したものなのか。
それとも、凍結前から既に見えない場所で亀裂が走っていたのか。
マルチは、大人しく椅子に座っていた。
「浩之さん。何をするんですか……?」
浩之は答えなかった。
工具箱の中を探る。
透明なビニールに密封された、新品の顔面パーツが入っていた。
変色もほとんどない。
マルチが瞬きをした。
「交換パーツ……保管してたんですか?」
浩之は視線を逸らしたまま言った。
「いつか必要になるかもしれないと思ってな」
「ですが、当時の私の故障箇所は――」
「分かってる」
浩之が言葉を遮った。
「お前が眠ったあとに手に入れたパーツだ。未練っちゃ未練だな」
短い沈黙。
マルチは静かに浩之を見つめていた。
「ほら、顔をこっちに向けてみろ」
浩之はゆっくり、新しいパーツを取り付けた。
カチッ。
小さな音と共に、マルチの白い頬の外装が交換される。
浩之はしばらく無言だったが、やがて小さく笑った。
「ようやく、戻ってきた気がするな」
マルチは意味が分からないというように、小さく首を傾げた。
――――月曜日の朝。
チャイムが鳴った。
マルチが玄関を開ける。
そこには、小学校の制服を着た少女が立っていた。
茶色のボブカット。
見覚えのある目元。
聞き覚えのある声で、挨拶を始めようとする口。
「おはよ――」
「おはようございます……志保さん? 志保さん??? でも小さい??? はわわわわわ?!」
マルチの目が大きく開かれた。
「うわっ!? メイドロボ!? 動いてる!?」
向かい合った二人が、同時に飛び退いた。
みさきが胸を押さえて叫ぶ。
「えっ、いつ直ったの!? ちょっと忍~~!!」
「も、申し訳ありません! 失礼いたしました! 情報処理にエラーが――!」
マルチが慌てて頭を下げる。
そして困惑した顔のまま、みさきの周囲をぐるりと回った。
「身体年齢はおおよそ12歳……ですが外見データは志保さんと94%一致――」
そのとき。
みさきの後ろから声がした。
「みさき、人ん家の玄関で騒いだら――」
志保が門をくぐりながら、マルチと目を合わせた。
マルチは、玄関先の少女と、その後ろの志保を交互に見た。
交互に見た。
もう一度、交互に見た。
「はわわわわわわ」
「マルチ!?」
志保の声が裏返った。
マルチが固まる。
志保が若返ったのではないことを、ようやく理解した。
「……志保さんの娘さんだったんですね!」
志保が目を丸くした。
「え、分かるの?」
「はい。雅史さんと結婚されたことは、凍結前から覚えてますから」
マルチがみさきを見た。
「娘さんができてたんですね。知りませんでした」
「うわ、本当に動いてる……」
みさきがマルチを見上げながら呟く。
マルチが小さく首をさげる。
「初めまして。藤田浩之さんと、あかりさんのメイドロボット。HMX-12型、マルチと申します」
「……佐藤みさきです」
みさきは少しマルチを見つめてから、無表情のまま付け加えた。
「……朝ごはん、いただけますか」
「はい! どうぞ上がってください!」
マルチが元気よく案内した。
みさきが中へ入っていく。
志保は、玄関先に少し佇んでいた。
マルチの後ろ姿を見つめる。
約十二年前、最後に見た時と変わらない姿だった。
故障して凍結されたと聞いていた、あの顔。
「……よかった」
マルチが首を傾げる。
「どうかなさいましたか?」
志保はすぐ、いつもの表情に戻った。
「ううん。なんでもない」
――――ある週末。
藤田家は家族で出かけていた。
マルチも一緒だった。
春の日差しの街は、人で賑わっていた。
マルチは歩きながら、街を見つめていた。
十二年前、この街には自分と同じ存在たちがいた。
メイド服を着て、 人型の姿で、 主人の隣を歩いていた、自分の妹たち。
今は、もういない。
マルチの歩調が少しだけ遅くなった。
通りの向こう、カフェの前を通っていた小学生たちがマルチを見つける。
「うわ」
「本物のメイドロボットだ!」
「俺、実物初めて見た!」
「バカ、前に消防署見学行った時、消防用メイドロボいたろ!」
マルチは子どもたちへ向かって、ぺこりと頭を下げた。
子どもたちは面白そうに笑いながら去っていく。
マルチは少し静かになった。
あかりがそれに気づく。
浩之と目を合わせた。
忍も歩みを止めた。
誰も何も言わなかった。
しばらくして。
浩之が再び歩き始める。
あかりが続く。
忍が続く。
マルチも、続いた。
昼食を取った店には、配膳ロボットがいた。
人型とは程遠い、車輪でゆっくり動く三段トレイ型ロボット。
「ご注文のお料理をお持ちしました~」
録音された明るい音声が流れる。
マルチは、それをしばらく見つめていた。
ファストフード店の前には、注文用の無人キオスクがあった。
電気店のショーウィンドウには、スマートスピーカーやロボット掃除機が並んでいた。
人々は画面を触りながら、当たり前のように注文していた。
帰宅後。
マルチはリビングの窓辺に立ち、静かに言った。
「私たちの……メイドロボットの役割は……もう終わってしまったみたいですね」
浩之が小さく笑った。
「そんなことねぇよ」
マルチが瞬きをする。
あかりが静かに笑った。
「そんなふうに消えたわけじゃないよ」
忍がノートパソコンを開いた。
「これ見てくれよ」
画面には、チャットボットのインターフェースが表示されていた。
忍がタイピングする。
『こんにちは。君は誰?』
少しして、画面に文章が表示された。
『こんにちは。私は大規模言語モデルベースのAIアシスタントです。ご質問があれば何でもお手伝いします』
マルチは画面を見つめながら、一番目の妹のことを思い出していた。
衛星を通じて世界中の情報を検索し、いつも正確な答えを返していた、賢い妹。
「セリオさんは……どうなったんですか」
浩之が目を閉じた。
「綾香がずっと連れてたけど、今はもういない」
マルチは、画面の文字をしばらく見つめていた。
『何でもお手伝いします』
「……私たちの、代用品でしょうか」
忍が首を横に振った。
「違う」
マルチが視線を上げる。
忍が笑った。
「妹たちだよ」
マルチの瞳が、ゆっくり揺れた。
リビングの窓から、夕陽が差し込んでいた。
――――深夜。
家の中は静かだった。
忍は喉が渇いて、階段を下りてきた。
小さな常夜灯だけが点いているキッチン。
マルチはソファに静かに座っていた。
忍が冷蔵庫を開ける。
「寝ないの?」
マルチが忍を見る。
「私は睡眠機能を必要としません。今は充電中です」
「それは前にも聞いた」
水を注いで飲み、冷蔵庫にもたれかかった。
「ところで」
マルチが小さく首を傾げる。
「屋根裏で凍結が解除された日のことなんだけど」
マルチの動きが、一瞬だけ止まった。
「なんで音声認証、母さんの声だけにしてたの。メインユーザーって父さんだろ」
冷却ファンの音が低く流れる。
マルチが静かに口を開いた。
「浩之さんなら、条件さえ整えば、いつでも私を起動させたと思いますが…」
忍の手が止まった。
「あかりさんは違います」
キッチンが静かになる。
「戻ってくるには、受け入れてもらう必要があると思ったんです」
マルチは少し沈黙した。
「以前にも一度、同じ理由で停止したことがありました」
忍が顔を上げる。
「あの時は、自分で結論を出せなくて、暴走してしまいました」
冷却ファンの音が低く流れた。
「でも今回は、“待つ”という結論を、自分で選びました」
マルチは視線を落としたまま続ける。
「だから待っていたんです。あかりさんが、また“浩之ちゃん”と呼べるようになるまで」
忍が目を細めた。
「……それが、なんで」
「あかりさんが辛い時は、浩之さんのことを“あなた”と呼んでおられました」
冷却ファンの音が静かに響く。
「浩之さんを、また昔みたいに呼べるようになったら、その時は、戻ってきてもいいと思ったんです」
忍は、コップの中の水だけを見つめていた。
映像の中で、何度も聞いた“あなた”という呼び方が耳に蘇る。
それを不自然だと思ったことすらなかった自分に、今さら気づいた。
そして、小さく呟く。
「……ほんとバカだな」
マルチが瞬きをした。
「すみません」
「怒ってねえよ」
マルチは少しだけ処理に迷ったように止まり、それから小さく笑った。
忍はもう一口、水を飲んだ。
「母さんが最後まで呼ばなかったら?」
マルチはすぐには答えなかった。
冷却ファンの音だけが静かに流れる。
「……ずっと待っていたかもしれません」
忍はマルチを見た。
しばらくして。
忍は無言のまま、マルチの隣に座った。
そしてゆっくり、マルチの方へ身体を預ける。
肩に頭を乗せた。
マルチは少し目を丸くしたが、動かなかった。
低く、一定の音が耳元で聞こえる。
冷却ファンの振動だった。
一定のリズムで。
忍は目を閉じたまま言った。
「……心臓の音を感じる」
マルチは何も言わなかった。
ただ、少しだけ、そのままでいてくれた。
月明かりがキッチンを横切る。
冷却ファンの音は、ずっと流れていた。
低く。
一定で。
温かく。