To heart 30年後〜屋根裏物語〜   作:Joseph Lee

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第12話~Feeling Heart~

――――日曜日の朝。

 

「マルチ、ここに座ってくれ」

 

 朝の日差しが窓からリビングへ差し込んでいた。

 

 浩之は小さなドライバーを口に咥えたまま、マルチの顔を見つめていた。

 両頬には、古いひび割れが残っている。

 

 いつからできたものなのかは分からない。

 

 2012年にマルチが凍結された時には見えなかったものだ。

 凍結後、長い年月をかけて進行したものなのか。

 

 それとも、凍結前から既に見えない場所で亀裂が走っていたのか。

 

 マルチは、大人しく椅子に座っていた。

 

「浩之さん。何をするんですか……?」

 

 浩之は答えなかった。

 工具箱の中を探る。

 

 透明なビニールに密封された、新品の顔面パーツが入っていた。

 変色もほとんどない。

 

 マルチが瞬きをした。

 

「交換パーツ……保管してたんですか?」

 

 浩之は視線を逸らしたまま言った。

 

「いつか必要になるかもしれないと思ってな」

 

「ですが、当時の私の故障箇所は――」

 

「分かってる」

 

 浩之が言葉を遮った。

 

「お前が眠ったあとに手に入れたパーツだ。未練っちゃ未練だな」

 

 短い沈黙。

 

 マルチは静かに浩之を見つめていた。

 

「ほら、顔をこっちに向けてみろ」

 

 浩之はゆっくり、新しいパーツを取り付けた。

 

 カチッ。

 

 小さな音と共に、マルチの白い頬の外装が交換される。

 浩之はしばらく無言だったが、やがて小さく笑った。

 

「ようやく、戻ってきた気がするな」

 

 マルチは意味が分からないというように、小さく首を傾げた。

 

――――月曜日の朝。

 

 チャイムが鳴った。

 マルチが玄関を開ける。

 

 そこには、小学校の制服を着た少女が立っていた。

 

 茶色のボブカット。

 見覚えのある目元。

 聞き覚えのある声で、挨拶を始めようとする口。

 

「おはよ――」

 

「おはようございます……志保さん? 志保さん??? でも小さい??? はわわわわわ?!」

 

 マルチの目が大きく開かれた。

 

「うわっ!? メイドロボ!? 動いてる!?」

 

 向かい合った二人が、同時に飛び退いた。

 

 みさきが胸を押さえて叫ぶ。

 

「えっ、いつ直ったの!? ちょっと忍~~!!」

 

「も、申し訳ありません! 失礼いたしました! 情報処理にエラーが――!」

 

 マルチが慌てて頭を下げる。

 そして困惑した顔のまま、みさきの周囲をぐるりと回った。

 

「身体年齢はおおよそ12歳……ですが外見データは志保さんと94%一致――」

 

 そのとき。

 みさきの後ろから声がした。

 

「みさき、人ん家の玄関で騒いだら――」

 

 志保が門をくぐりながら、マルチと目を合わせた。

 

 マルチは、玄関先の少女と、その後ろの志保を交互に見た。

 交互に見た。

 もう一度、交互に見た。

 

「はわわわわわわ」

 

「マルチ!?」

 

 志保の声が裏返った。

 

 

 

 マルチが固まる。

 志保が若返ったのではないことを、ようやく理解した。

 

「……志保さんの娘さんだったんですね!」

 

 志保が目を丸くした。

 

「え、分かるの?」

 

「はい。雅史さんと結婚されたことは、凍結前から覚えてますから」

 

 マルチがみさきを見た。

 

「娘さんができてたんですね。知りませんでした」

 

「うわ、本当に動いてる……」

 

 みさきがマルチを見上げながら呟く。

 マルチが小さく首をさげる。

 

「初めまして。藤田浩之さんと、あかりさんのメイドロボット。HMX-12型、マルチと申します」

 

「……佐藤みさきです」

 

 みさきは少しマルチを見つめてから、無表情のまま付け加えた。

 

「……朝ごはん、いただけますか」

 

「はい! どうぞ上がってください!」

 

 マルチが元気よく案内した。

 みさきが中へ入っていく。

 

 志保は、玄関先に少し佇んでいた。

 マルチの後ろ姿を見つめる。

 

 約十二年前、最後に見た時と変わらない姿だった。

 故障して凍結されたと聞いていた、あの顔。

 

「……よかった」

 

 マルチが首を傾げる。

 

「どうかなさいましたか?」

 

 志保はすぐ、いつもの表情に戻った。

 

「ううん。なんでもない」

 

――――ある週末。

 

 藤田家は家族で出かけていた。

 マルチも一緒だった。

 春の日差しの街は、人で賑わっていた。

 

 マルチは歩きながら、街を見つめていた。

 十二年前、この街には自分と同じ存在たちがいた。

 メイド服を着て、 人型の姿で、 主人の隣を歩いていた、自分の妹たち。

 

 今は、もういない。

 

 マルチの歩調が少しだけ遅くなった。

 通りの向こう、カフェの前を通っていた小学生たちがマルチを見つける。

 

「うわ」

 

「本物のメイドロボットだ!」

 

「俺、実物初めて見た!」

 

「バカ、前に消防署見学行った時、消防用メイドロボいたろ!」

 

 マルチは子どもたちへ向かって、ぺこりと頭を下げた。

 子どもたちは面白そうに笑いながら去っていく。

 

 マルチは少し静かになった。

 

 あかりがそれに気づく。

 浩之と目を合わせた。

 忍も歩みを止めた。

 

 誰も何も言わなかった。

 

 しばらくして。

 

 浩之が再び歩き始める。

 あかりが続く。

 忍が続く。

 マルチも、続いた。

 

 昼食を取った店には、配膳ロボットがいた。

 人型とは程遠い、車輪でゆっくり動く三段トレイ型ロボット。

 

「ご注文のお料理をお持ちしました~」

 

 録音された明るい音声が流れる。

 マルチは、それをしばらく見つめていた。

 

 ファストフード店の前には、注文用の無人キオスクがあった。

 電気店のショーウィンドウには、スマートスピーカーやロボット掃除機が並んでいた。

 

 人々は画面を触りながら、当たり前のように注文していた。

 

 帰宅後。

 マルチはリビングの窓辺に立ち、静かに言った。

 

「私たちの……メイドロボットの役割は……もう終わってしまったみたいですね」

 

 浩之が小さく笑った。

 

「そんなことねぇよ」

 

 マルチが瞬きをする。

 あかりが静かに笑った。

 

「そんなふうに消えたわけじゃないよ」

 

 忍がノートパソコンを開いた。

 

「これ見てくれよ」

 

 画面には、チャットボットのインターフェースが表示されていた。

 

 忍がタイピングする。

 

『こんにちは。君は誰?』

 

 少しして、画面に文章が表示された。

 

『こんにちは。私は大規模言語モデルベースのAIアシスタントです。ご質問があれば何でもお手伝いします』

 

 マルチは画面を見つめながら、一番目の妹のことを思い出していた。

 衛星を通じて世界中の情報を検索し、いつも正確な答えを返していた、賢い妹。

 

「セリオさんは……どうなったんですか」

 

 浩之が目を閉じた。

 

「綾香がずっと連れてたけど、今はもういない」

 

 マルチは、画面の文字をしばらく見つめていた。

 

『何でもお手伝いします』

 

「……私たちの、代用品でしょうか」

 

 忍が首を横に振った。

 

「違う」

 

 マルチが視線を上げる。

 忍が笑った。

 

「妹たちだよ」

 

 マルチの瞳が、ゆっくり揺れた。

 リビングの窓から、夕陽が差し込んでいた。

 

――――深夜。

 

 家の中は静かだった。

 

 忍は喉が渇いて、階段を下りてきた。

 

 小さな常夜灯だけが点いているキッチン。

 マルチはソファに静かに座っていた。

 忍が冷蔵庫を開ける。

 

「寝ないの?」

 

 マルチが忍を見る。

 

「私は睡眠機能を必要としません。今は充電中です」

 

「それは前にも聞いた」

 

 水を注いで飲み、冷蔵庫にもたれかかった。

 

「ところで」

 

 マルチが小さく首を傾げる。

 

「屋根裏で凍結が解除された日のことなんだけど」

 

 マルチの動きが、一瞬だけ止まった。

 

「なんで音声認証、母さんの声だけにしてたの。メインユーザーって父さんだろ」

 

 冷却ファンの音が低く流れる。

 マルチが静かに口を開いた。

 

「浩之さんなら、条件さえ整えば、いつでも私を起動させたと思いますが…」

 

 忍の手が止まった。

 

「あかりさんは違います」

 

 キッチンが静かになる。

 

「戻ってくるには、受け入れてもらう必要があると思ったんです」

 

 マルチは少し沈黙した。

 

「以前にも一度、同じ理由で停止したことがありました」

 

 忍が顔を上げる。

 

「あの時は、自分で結論を出せなくて、暴走してしまいました」

 

 冷却ファンの音が低く流れた。

 

「でも今回は、“待つ”という結論を、自分で選びました」

 

 マルチは視線を落としたまま続ける。

 

「だから待っていたんです。あかりさんが、また“浩之ちゃん”と呼べるようになるまで」

 

 忍が目を細めた。

 

「……それが、なんで」

 

「あかりさんが辛い時は、浩之さんのことを“あなた”と呼んでおられました」

 

 冷却ファンの音が静かに響く。

 

「浩之さんを、また昔みたいに呼べるようになったら、その時は、戻ってきてもいいと思ったんです」

 

 忍は、コップの中の水だけを見つめていた。

 映像の中で、何度も聞いた“あなた”という呼び方が耳に蘇る。

 それを不自然だと思ったことすらなかった自分に、今さら気づいた。

 そして、小さく呟く。

 

「……ほんとバカだな」

 

 マルチが瞬きをした。

 

「すみません」

 

「怒ってねえよ」

 

 マルチは少しだけ処理に迷ったように止まり、それから小さく笑った。

 忍はもう一口、水を飲んだ。

 

「母さんが最後まで呼ばなかったら?」

 

 マルチはすぐには答えなかった。

 冷却ファンの音だけが静かに流れる。

 

「……ずっと待っていたかもしれません」

 

 忍はマルチを見た。

 

 しばらくして。

 

 忍は無言のまま、マルチの隣に座った。

 そしてゆっくり、マルチの方へ身体を預ける。

 肩に頭を乗せた。

 

 マルチは少し目を丸くしたが、動かなかった。

 

 低く、一定の音が耳元で聞こえる。

 冷却ファンの振動だった。

 一定のリズムで。

 忍は目を閉じたまま言った。

 

 

 

「……心臓の音を感じる」

 

 マルチは何も言わなかった。

 

 ただ、少しだけ、そのままでいてくれた。

 

 月明かりがキッチンを横切る。

 冷却ファンの音は、ずっと流れていた。

 

 低く。

 一定で。

 温かく。

 

 

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