To heart 30年後〜屋根裏物語〜 作:Joseph Lee
――――2026年4月。
朝の日差しが玄関いっぱいに差し込んでいた。
浩之は黒いスーツを着て、ネクタイを整えていた。
あかりは鏡の前で、着物の帯締めと奮闘していた。
「お母さぁん……」
あかりが半泣きになりながら呟く。
「また結び方間違えたかも……」
隣に立っていた年配の女性がため息をついた。
「あかり。なんで四十過ぎてもまだ一人できないの」
忍は階段を降りながら、思わず吹き出した。
忍の祖母は慣れた手つきで帯を結び直した。
あかりは大人しく両腕を広げたまま立っていた。
「お母さんが上手すぎるんだよ……」
「言い訳しない」
忍が玄関へ歩いてくる。
新しい制服だった。
マルチは、それを見つめた。
背が伸びた。
肩幅も広くなった。
だが、目元だけは――
マルチはほんの一瞬、止まった。
「どうした?」
忍が訊く。
マルチは静かに言った。
「……あの頃の浩之さんに、似てますね」
浩之が咳払いした。
あかりが笑った。
忍は照れくさそうに頭を掻いた。
「行くぞ」
浩之が先に外へ出た。
マルチは、走り去っていく藤田家のファミリーバンを玄関から見送っていた。
春風が吹いた。
マルチは静かに扉を閉めた。
――――入学式。
桜が舞う校庭。
藤田家と佐藤家は並んで写真を撮っていた。
浩之と雅史はぎこちなくスーツを整えた。
あかりと志保は自然と子どもたちの間に立つ。
忍とみさきは並んで立っていた。
シャッター音が響いた。
写真を確認していたあかりが顔を上げる。
グラウンドの向こう側。
見覚えのある後ろ姿が見えた。
初めて見る人でも、思わず目を奪われるほど綺麗なウェーブの長髪。
「……あれ、琴音ちゃんじゃない?」
浩之が目を細めた。
「……ほんとだ」
隣には、背の高い男子生徒が並んで歩いていた。
みさきがちらりとそちらを見る。
入学式が終わったあと。
子どもたちが教室へ向かう間、大人たちは校庭の端に集まっていた。
浩之とあかり。
雅史と志保。
そして、姫川琴音。
「お久しぶりです、皆さん」
琴音が静かに笑った。
しばらく、笑い声と賑やかな声が続いた。
――――教室の廊下。
みさきが忍の隣を歩きながら、小さく言った。
「さっきの背の高い男子」
「ん?」
「あの子のお母さん、うちの両親たちと知り合いっぽかった」
忍が廊下の先を見る。
窓際の席で、一人外を眺めている男子がいた。
忍は少し考えてから近づいた。
「よう」
男子が顔を上げる。
「藤田忍だ。よろしく」
「……姫川隼人」
コツン。
軽く拳がぶつかった。
短い沈黙。
それだけだった。
――――2027年春の朝。
キッチン。
あかりが冷蔵庫へ向かう。
その瞬間。
マルチが調理台へまな板と包丁を置いた。
あかりが食材を持って振り返る。
まな板は、もうそこにあった。
あかりは立ち止まらなかった。
マルチをちらりと見て、小さく笑う。
マルチも静かに笑った。
忍は食卓からそれを見て、一人小さく笑った。
――――ある午後。
スーパーの中は、夕飯の買い物客で賑わっていた。
忍はインスタントラーメン売り場の前にしゃがみ込んでいた。
赤いパッケージが延々と並んでいる。
『業火麻辣炒め』
『2倍激辛』
『カプサイシンMAX』
忍はしばらく見つめた。
「……なんでこんな辛いの好きこのんで食べるんだ」
少し悩んでから振り返る。
マルチは通路の向こう側で、誰かと向かい合っていた。
青い短髪のメイドロボット。
マルチより頭一つ大きい体格だった。
二人はしばらく互いを見つめた。
相手のロボットの目が、ほんの少し見開かれる。
そして。
ぺこり。
丁寧なお辞儀だった。
マルチも反射的に頭を下げる。
少しだけ言葉を交わした。
だが忍の位置からは聞こえなかった。
しばらくして。
青いロボットは買い物袋を持ったまま静かに立ち去った。
マルチはその背中をしばらく見つめていた。
「知り合い?」
忍の問いに、
マルチは少し考えて答えた。
「……初対面だと思います」
だが、ほんの一瞬だけ。
マルチの瞳が揺れた。
スーパーを出て歩いていた。
街の大型モニターが切り替わる。
『来栖川エレクトロニクス、次世代大規模言語モデル搭載ヒューマノイド公開』
画面の中では、人型ロボットが自然に会話していた。
『感情文脈解析機能強化、家庭市場へ本格再参入』
マルチが足を止めた。
画面のロボットは、昔のメイドロボットみたいにメイド服を着ているわけでもなく、
人間に完全に似ているわけでもなかった。
それでも。
人の隣に立っていた。
忍も画面を見上げる。
「……残ってたんだな」
マルチは何も言わなかった。
画面のロボットは人の隣に立っていて、
人々はそれをあまりにも自然に受け入れていた。
忍は空を見上げながら思った。
早すぎたものたちがいた。
怖がったものもいた。
傷ついたものもいた。
待たなければいけなかったものもいた。
でも今なら。
歩き出せる、この場所から。
マルチはゆっくりと画面を見つめた。
春風が二人の間を通り抜けていった。
――――2027年5月23日。
藤田家のリビング。
テーブルの上には料理が並んでいた。
藤田浩之とあかり。
佐藤雅史と志保、みさき。
姫川琴音と隼人。
そして、マルチ。
忍は自分の誕生日の席を前にして、少し照れた顔をしていた。
料理が回り、 笑い声が行き交う。
みさきが琴音を見て訊いた。
「てかさ、琴音さんってうちの親たちとどんな関係なの?」
琴音が平然と言った。
「藤田先輩に告白して、一回振られた間柄?」
一瞬。
食卓が崩壊した。
浩之は水を吹きそうになり、
あかりは顔を真っ赤にした。
「琴音ちゃん!!」
志保が目を丸くした。
「え!?あたしそれ 初耳なんだけど!?」
雅史は俯いたまま笑っていた。
忍は固まっていた。
隼人は何事もないように水を飲んでいた。
みさきの目だけが輝いた。
「へぇ~?」
琴音は昔を思い出すように、いたずらっぽく笑った。
マルチがケーキを運んできた。
十六本のろうそくが灯っていた。
明かりが消える。
拍手が響いた。
忍は目を閉じたまま、しばらく動かなかった。
何を願ったかは、誰もしらなかった。
――――お客さんたちが帰ったあと。
リビングは静かだった。
浩之とあかりは洗い物をしていた。
忍はテーブルを片付けてから、ソファーに座っていた。
マルチが隣に座る。
しばらく沈黙が流れた。
マルチが静かに言った。
「忍さん」
「ん?」
「生まれてきれくれて、ありがとうございます」
忍は何も言えなかった。
マルチが続ける。
「おかげで、私も今ここにいられました」
冷却ファンの音が静かに流れる。
忍は天井を見上げた。
しばらくして。
「……それは、俺の台詞だよ」
マルチは何も言わなかった。
ただ静かに、
隣にいてくれた。
――――翌朝。
登校途中。
忍とみさきが並んで歩いていた。
春風が吹く。
校門が近づいた頃。
みさきが言った。
「ねえ、マルチさんって料理上手なの?」
忍が吹き出した。
「母さんよりも上手い」
みさきは校門へ入っていきながら、
振り返らずに言った。
「おめでとう」
春風が二人の間を通り抜けていった。
お読みいただき、ありがとうございました。