To heart 30年後〜屋根裏物語〜 作:Joseph Lee
「……おはようございます」
古びた発声モジュールから流れた挨拶は、微かなノイズを含んでいた。
屋根裏の空気が、そのまま凍りついたようだった。
忍はぽかんと固まり、みさきは声が上がりかけたところで、両手で自分の口を塞いでいた。
屋根を打つ雨の音だけが、小さく続いていた。
マルチはゆっくりと目を動かした。
緑の瞳の絞りが収縮し、二人の子どもを順番に映し出す。
そして、極めてゆっくりと上半身を起こした。
関節から小さな作動音が鳴った。
「現在の日付と時刻を入力してください」
忍は、はっと我に返った。
「え……っと……2023年3月10日、16時12分」
「確認しました。」
マルチは短く答えると、周囲を見回した。
「室内照度低下。空気中の粉塵濃度高。長期未整備状態と判断します。」
みさきが忍の腕をぎゅっと掴んだ。
「ねえ……」
「な、なんだよ。」
「こいつ、なんか怖い」
「俺だってちょっと怖いって」
「なのに、なんであんたの顔そんなうきうきしてんの?」
忍は答える代わりに、一歩前へ出た。
「お前、名前マルチっていうの?」
「形式番号、HMX-12形。MULTI」
はっきりとした声だった。
「家庭用メイドロボットです」
そしてマルチは頭を下げた。
「無断起動によりご迷惑をおかけし、申し訳ありません」
みさきが目をぱちくりさせた。
「礼儀正しいんだ……」
忍は感心した顔で頷いた。
「すげえ……本物のメイドロボだ……」
「感心するとこ、そこ?」
忍はマルチの前にしゃがみ込んだ。
「なんでここにいたんだ? なんで屋根裏で寝てたの?」
マルチの瞳が一度点滅した。
「関連する記録が見つかりません。」
「え、覚えてないってこと?」
「質問表現が不正確です」
「じゃ、要するに?」
「回答可能なデータが存在しません」
みさきがぼそっと言った。
「なんか言い方イラッとする」
「おい」
「だって」
忍は少し考えると、胸を張った。
「俺は藤田忍」
マルチの視線が彼に固定された。
「新規ユーザー登録手続きを開始します」
みさきが目を丸くした。
「え、そんなことまでできるの?」
「氏名登録中」
マルチの瞳の絞りが微かに揺れた。
「藤田……」
忍が頷く。
「うん。藤田忍」
短い沈黙。
マルチの視線が宙に固定されたまま止まった。
「……エラー」
「え?」
「登録に失敗しました。申し訳ありません」
「なんでだよ?」
「関連する記録が見つかりません」
「いや、今ちゃんと言ったろ!」
「関連する記録が見つかりません」
みさきが腕を組んだ。
「やっぱポンコツじゃん」
忍はマルチをじっと見つめた。
「登録できそうだったのに……」
マルチは忍の疑問に答えなかった。
忍は床に落ちた写真帳を拾い上げた。
「この写真の人たち、わかる?」
写真帳を開き、マルチに差し出す。
若い頃の浩之とあかり、志保と雅史が制服姿で笑っていた。
マルチの視線が写真の上で止まる。
数秒のあいだ、沈黙が続いた。
みさきが息を呑んだ。
「……知ってるんじゃない?」
緑の瞳の中で、絞りが微かに震えた。
「画像データ確認中」
忍とみさきは顔を見合わせた。
「関連する記録が見つかりません」
緊張していた忍の肩が、がくっと落ちた。
「なんだよ……」
マルチは写真帳を見下ろしたまま動かなかった。
やがてゆっくりとそれを忍へ返した。
「申し訳ありません」
今度は、なぜか少し低い声だった。
その瞬間、マルチのうなじから警告音が鳴った。
ピッ。ピッ。ピッ。
体が微かに揺れる。
「電力不足」
「え?」
「活動継続可能時間、60秒」
みさきが叫んだ。
「ちょ、ちょっと! もう止まっちゃうってこと!?」
忍は慌てて周囲を見回した。
「充電器ないの!? ケーブル挿してあっただろ!」
「キャパシタモジュール劣化」
「何それ!?」
「正常運用不可。」
「わかりやすく言えって!」
「修理が必要です」
「それは俺もわかる!」
マルチの膝がゆっくりと崩れた。
忍は慌てて駆け寄り、その体を支えた。
冷たかった。
外側は人のように柔らかいのに、内側は金属のような冷気を帯びていた。
「待って。まだ止まるな」
「活動継続可能時間、20秒」
みさきも、いつの間にか近くまで来ていた。
「……どうすんの?」
忍はマルチの顔を見つめた。
さっき埃を拭ったところのあいだから、ひび割れの痕が長く続いていた。
古い傷跡みたいだった。
「……俺が直す」
みさきが見開いて振り向いた。
「は?」
「俺が、こいつを直す」
「何言ってんの? あんたスマホだって変なの入れて壊して、おじさんに見てもらって結局初期化してもらうくせに」
「わかんない。でも……なんか、そうしなきゃダメな気がする」
マルチの瞳が、最後に一度だけ動いた。
忍を見る。
「その発言を一時保存します」
短いノイズが弾けた。
「……あり……」
灯りが消えた。
体から力が抜けるように、マルチはそのまま忍の腕の中にもたれ、停止した。
屋根裏は再び静まり返った。
雨音だけが聞こえていた。
先に口を開いたのはみさきだった。
「……今、なんて言ったの?」
忍は答えなかった。
マルチをゆっくりと横たえ、そのそばに置かれた電源ケーブルを見つめた。
そして小さく言った。
「明日、また来よう」
階下から あかりの声が聞こえてきた。
「忍ちゃん? みさきちゃん? おやつできたよー」
二人の子どもは同時にびくっとした。
忍は慌ててマルチの上に布をかけ直した。
「誰にも言うなよ」
みさきは唇を尖らせた。
「……わかってる。私も気になるし」
忍はハシゴのほうへ歩いていった。
降りる前に、一度振り返る。
布の下、人の形をした輪郭が静かに横たわっていた。
「また明日」
返事はなかった。
だが忍は不思議と、本当に誰かと約束をしたような気がしていた。