To heart 30年後〜屋根裏物語〜 作:Joseph Lee
ーーーー翌朝。
藤田家の食卓には、味噌汁の香りと焼きたての魚の匂いがふんわりと漂っていた。
明け方から降っていた雨はいつの間にかやみ、濡れた塀の上には淡い陽射しが差し込んでいた。
あかりはエプロン姿で茶碗を置きながら、にこやかに微笑んだ。
「はい、たくさん食べてね。今日は卵焼きも作ったよ。」
普段なら、忍とみさきがごはんを食べながら騒いで言い合いになり、ひとこと注意される頃だった。
しかし今日は違った。
二人は並んで座り、妙におとなしくごはんだけを食べていた。
忍はテーブルの下でこっそりスマートフォンを覗くのに忙しく、みさきはそんな忍の脇腹をつつきながら、しきりに大人たちの様子をうかがっていた。
あかりが小首をかしげる。
「忍ちゃんとみさきちゃん、今日は珍しく物静かだね?」
子どもたちの向かい側で新聞を読んでいた浩之が、コーヒーをひと口飲んだ。
度の強い眼鏡の向こうの視線は、記事から離れない。
「なんかやらかして、まだ片づいてない時はああなるな。」
二人は同時にびくっとした。
みさきの箸先からソーセージが滑り落ち、忍はスマホを落としかけた。
あかりが目を丸くする。
「えっ、本当?」
「いや、なんとなくそう感じただけだ。」
浩之は素っ気なく答え、また新聞をめくった。
忍は慌てて首を振った。
「ち、違うって! なんにもしてないって!」
「そ、そうです! うちのママも、ごはん食べる時は騒いじゃだめって言ってたし!」
みさきまで加勢すると、あかりはますます怪しそうに笑った。
「二人そろって言い訳すると、もっと怪しいかな。」
浩之はくすっと笑い、またコーヒーカップを持ち上げた。
「ほっとけよ。子どものことだろ。」
忍はわざとらしく咳払いしながら、ごはんを口の中に押し込んだ。
テーブルの下のスマホ画面には、検索履歴がずらりと並んでいた。
旧型サービスロボット 電力不足 原因
キャパシタ 寿命 症状
古いロボット バッテリー 復活できる?
メイドロボット 診断ポート 規格
みさきが小声でささやいた。
「ねえ、ごはんの時くらいやめなよ。」
「今がいちばん大事な時間なんだよ。」
「なにが。」
「情報収集。」
「昨日三時間しか寝てないって言ってたじゃん。」
「四時間。」
「どっちでも同じでしょ。」
あかりが水の入ったコップを置きながら言った。
「みさきちゃん、今日も放課後こっちにいるんでしょ?」
「え、あ、はい。うちのママ、今日も取材で……」
語尾を濁しながら、みさきは肩をすくめた。
志保はスポーツ新聞の記者である。
試合日程によっては朝早く現場へ出たり、夜遅く帰る日もあった。
雅史は地域の少年サッカーチームのコーチをしており、週末はほとんどグラウンドに張りついていた。
そのため、みさきが放課後や登校前の朝に藤田家の食卓へいる光景は、もうすっかり当たり前になっていた。
あかりは慣れたように微笑んだ。
「お母さん遅くなりそうなら、夕飯も食べていっていいよ。」
「ありがとうございます。」
みさきはぺこりと頭を下げた。
浩之が新聞の向こうからひと言投げる。
「雅史はまた子どもたちを鍛えてるんだろうな。」
「今週試合あるんだって。」
「学生の頃から、あいつも変わんないな。」
あかりがくすっと笑った。
その時、忍が素早く口を開いた。
「あ、母さん。今日……みさきんちで宿題してくる。」
食卓が一瞬静かになった。
みさきが目を見開く。
「えっ?」
あかりも手を止めた。
「え? いつもここでやってるよね?」
忍は一瞬、唇を噛んだ。
「た、たまには環境変えるのも勉強にいいって。」
「誰からそんなこと言われたの?」
「YouTube。」
浩之がコーヒーカップを置いた。
片方の口元がわずかに上がる。
「最近はYouTube先生がなんでも教えてくれるんだな。」
みさきはまだ状況が飲み込めない顔だったが、少し遅れてうなずいた。
「あ、うん。うち……静かだし。」
「だな。みさきちゃんのお母さんがいない時だけは。」
みさきは吹き出した。
「ぷっ——」
すぐに口を押さえる。
「……い、いや、私なにも言ってません。」
「もう、浩之ちゃ……お父さんったら。みさきちゃん、冗談だから気にしないでね。」
あかりは苦笑しながら浩之をたしなめた。
「じゃあ行ってらっしゃい。夕方までには帰ってきてね。」
ーーーー授業が終わると同時に、二人は駅前の商店街へ一直線に走った。
「ちょっと! うち行くって言ったじゃん!」
「お前まで信じてどうすんだよ!」
「じゃあどこ行くの!?」
電気街の路地は、古びた看板とさまざまな部品屋で埋め尽くされていた。
携帯修理店、中古のノートパソコンの店、ケーブルの山が積まれた店先、はんだの匂いが染みついた小さな工房まである。
忍の目が輝いた。
「宝の山だ……!」
「私にはガラクタの山にしか見えないけど。」
二人は何軒か店を回り、雑然と積まれた部品箱をのぞき込んだ。
忍はスマホでマルチの写真とメモを見せながら、店員たちに尋ねていく。
「こういう昔のメイドロボットの故障診断できる機械、ありませんか?」
三軒目の店の奥のカウンターには、一人の老人が座っていた。
まばらに伸びた髭は何日も手入れしていないように乱れていたが、なぜか髪だけは艶のあるポマードできっちり撫でつけられている。
少し垂れた目元は眠たげだったが、客が入ると、その瞳だけが一瞬鋭く動いた。
ついさっきまで居眠りしていた人間の目ではなかった。
忍は鼻先をかすめた匂いに、ふと足を止めた。
かすかな煙草の匂い。
仕事帰りの父のシャツに染みついていた、覚えのある香りだった。
見知らぬ店なのに、なぜか少しだけ懐かしい気がした。
老人は眼鏡をかけ直し、スマホ画面を受け取った。
しばらく写真を見つめたあと、小さくつぶやく。
「ふむ。来栖川エレクトロニクスのHMシリーズか。」
忍がすぐに言い足した。
「形式番号はHMX-12です。」
老人の手が、ほんのわずか止まった。
みさきは気づかなかったが、忍はその短い沈黙を感じ取った。
「……そうか。」
老人は何事もなかったように眼鏡を直した。
「最近の子どもは、妙なもん拾ってくるな。」
忍の目がまた輝く。
「じゃあ、知ってるんですか?」
「古い物だってことくらいはな。」
老人はショーケースの下から、手のひらサイズの機械を取り出した。
灰色のプラスチックケースに、小さな画面と汎用端子がついている。
「ユニバーサル・ホームロボット診断機。URD規格。」
忍はスマホ画面をちらりと見た。
さっき検索した単語を思い出す。
「車のOBDみたいな……そういうやつ?」
老人はニヤッと笑った。
「似たようなもんだ。つなげば状態とエラーコードが読める。」
忍は息を止めそうな顔でそれを受け取った。
「いくらですか?」
老人は忍とみさきを交互に見て言った。
「学生割引で安くしといてやる。」
そして少し間を置き、付け加えた。
「ただし……むやみに開けるのはやめたまえ。」
「え?」
「機械も人間と同じだ。距離の詰め方を間違えると、心を閉ざす。」
忍は真面目な顔でうなずいた。
「わかりました。」
みさきが小さくつぶやく。
「あんた、今日太っ腹だね。」
忍はもう財布を取り出していた。
夕暮れ時。
二人は再び、藤田家の屋根裏へのハシゴの前に立っていた。
忍は袋の中から診断機を取り出す。
みさきがごくりと唾を飲んだ。
「……ほんとにやるの?」
忍はうなずいた。
「よし。ここから始まりだ。」
静かに眠っているはずのマルチを思いながら、少年はハシゴを見上げた。