To heart 30年後〜屋根裏物語〜 作:Joseph Lee
ーーーー数日後、夜。
屋根裏には、小さな作業灯がひとつだけ灯っていた。
マルチは静かに横たわっている。
新しい電源パックと冷却ファン、さらに一部の関節サーボまで交換されたおかげで、胸の奥からはごくかすかな駆動音が聞こえていた。
だが、目は開かない。
忍はマルチの手首ポートに診断機をつないだまま、画面をにらんでいた。
BOOT COMPLETE
SAFE MODE ENTERED
GUEST PROFILE LOADED
CORE PERSONA : LOCKED
忍はスマホの翻訳アプリをかざした。
起動完了
セーフモード移行
ゲストプロファイル読込完了
コア人格:ロック状態
みさきが画面と忍の顔を見比べる。
「で、これどういう意味?」
「体は起きてるけど……魂がいない状態」
「言い方こわ」
「簡単に言えば、お客さん用モード」
「説明されるほど怖いんだけど」
忍は唇を噛んだ。
「動けることは動ける。でも、マルチ本人が出てこられないんだ」
マルチは何も言わず横たわっていた。
目を閉じた顔は、相変わらず人みたいに穏やかだった。
忍は低くつぶやく。
「3月11日に何があったのか……母さんと一緒にいたのか……聞きたいのに」
みさきも珍しく静かだった。
「……答えられないってことか」
「うん」
短い沈黙が落ちる。
その時、スマホが震えた。
電気街の老人からメッセージだった。
藤田君、
君が言っていた症状、部品替えで終わりとは限らん。
リンクを送った。入ってみたまえ。
見慣れない招待リンクがひとつ。
非公開Biscordサーバーだった。
みさきが眉をひそめる。
「怪しすぎ」
「めっちゃ怪しい」
「入る?」
「……入るしかない」
しばらくして。
画面にビデオ通話の着信が出た。
発信者名は sango_dango。
みさきが小さく読む。
「さんご……だんご?」
「ハンドルネームだろ」
通話を開く。
整然と片づいた作業部屋。
技術者の部屋にしては妙にきれいで、棚にはテディベアがずらりと並んでいた。
大きさも表情もばらばらだ。
忍は、それを見たら母親が悲鳴を上げて喜ぶだろうと思った。
みさきがひそひそ声で言う。
「なにここ……くま天国?」
「静かにしろ」
画面の女性がゆっくり顔を上げた。
青みがかった長い髪は、左右で丸くまとめられている。
白衣の下には茶色のワンピース。
やわらかく笑っているのに、目だけは長く技術現場を生き抜いた人のものだった。
「もしもし~?」
忍とみさきは同時に頭を下げた。
「こ、こんばんは!」
「メイドロボ直しとる坊っちゃんやんな?」
「え……はい。少しずつです」
彼女は忍の顔をじっと見つめ、尋ねた。
「名前、なんて言うん?」
「藤田忍です」
女の目が、ほんの一瞬だけ変わった。
「……藤田?」
彼女は画面越しに、屋根裏の床、工具、そして布の上に横たわるマルチへ視線を向ける。
しばらく見つめてから、また忍を見る。
「……お父さんの名前、何て言うん?」
「藤田浩之ですけど」
彼女は小さく笑った。
「やっぱりそうやわ。長瀬のおっちゃん、それ先に言うてやー」
軽くうなずく。
「うちは姫百合珊瑚いうねん。昔、来栖川中央研のほうで働いとったんよ。忍くんのお父さんとも少し一緒やった。藤田さん、高校の先輩やねん」
みさきがぼそっとつぶやく。
「名前からしてなんかありそう……」
その時、珊瑚が横をちらりと見た。
「イッちゃん、お茶お願い」
棚の上、青いリボンを巻いた茶色のテディベアが、短い腕をぴこっと動かし、茶托を机の上へ押し出した。
二人は固まった。
「……」
「……」
珊瑚は平然と湯のみを持つ。
「どないしたん?」
「い、今動きましたよね!?」
「イッちゃんは働き者やで」
くまは何事もなかったように座っていた。
みさきが忍の耳元でささやく。
「ここ、ちょっと怖い」
「俺も」
珊瑚は一口茶を飲み、マルチを見た。
「マルチは、先輩の結婚祝いで会社から送ったんよ。まだおったんやね」
忍は息をのむ。
「マルチを知ってるんですか?」
「そら知っとるわ」
珊瑚はやわらかく笑った。
「藤田先輩も、ほんま変わった人やったわ」
「父さんが?」
「学生の頃から、分解して締めて磨いて……ようあそこまで几帳面になれるもんや」
忍は妙な気分になった。
父が、自分よりずっと前からマルチと一緒にいた。
その事実が急に重く感じられた。
珊瑚は診断画面を見るなり言った。
「体はだいぶ直したな。小六やのに偉いわ」
忍が身を乗り出す。
「でも、なんで起きないんですか?」
珊瑚は画面を指先で軽く叩いた。
「起きへんのやない。出てこんのや」
「え?」
「たぶん記録データは残っとる。写真とかログとか生活記録とかな」
声を少し落とす。
「せやけど、感情と人格が入っとる核心層は……自分で鍵かけて閉じこもっとるんやわ。」
みさきが目を瞬かせた。
「自分で?」
「せや。人が部屋に鍵かけるんと同じやねん」
忍は理解できない顔をした。
「ロボットが、なんでそんなことするんですか」
珊瑚は少し黙った。
そして、ゆっくり言う。
「……人の真似を長いこと続けとると、傷つくことまで覚えてしまうんやわ。」
椅子を引いて座り直す。
「忍くんの世代は知らんやろけど、昔はメイドロボ、ぎょうさんおったんよ。」
「ほんとに?」
「家事して、介護して、身体の不自由な人の手伝いして。人の暮らし、だいぶ楽になったんや」
その目が少し遠くなる。
「特に2011年な」
忍とみさきは同時に姿勢を正した。
「東日本大震災の時、人が入れん場所にも入っていった」
「メイドロボが?」
「そうや」
珊瑚はうなずく。
「瓦礫どかして、危険物運んで、火の中にも入って、放射線高い所にも行った」
少し笑う。
「その時、ニュースで何て呼ばれたか知っとる?」
忍は首を振った。
「鋼鉄天使や」
屋根裏の空気が止まった気がした。
珊瑚は画面越しにマルチを見つめる。
「人の代わりに傷ついて、人の代わりに踏ん張って、人の代わりに壊れていった」
静かに続けた。
「でもな。世の中、思た通りにはいかんもんやわ」
「どういう意味ですか?」
「便利すぎると、人は寄りかかってまうねん」
少し黙る。
「地震のあと二、三年はもっと酷かったわ。人手も足らん、人の心も折れとった」
天井を見上げる。
「子どもを学校に行かせんと、家でメイドロボに任せきりにしとる家もあった」
「……」
「友達も恋人も捨てて、メイドロボだけ相手に生きとる人もおった」
みさきが顔をしかめる。
「なんか変……」
「まだ終わりちゃうで」
珊瑚の声は穏やかだった。
「止まったメイドロボの後を追った人もおった。神様みたいに祀る集まりまでできた」
忍は黙っていた。
「せやから、世間は怖がったんや。人を食う化けもんでも憑いとるんちゃうかって」
指を組み、その上に顎を乗せる。
「メーカーも引いたわ。家庭用は縮めて、危険作業用とか福祉用中心に切り替えていった」
「じゃあ……父さんは?」
珊瑚はくすっと笑った。
「忍くんのお父さん? 会社には残ったんよ。でも中心からは外されたわ」
「……」
「うちは外出て、一人でやっとった」
背後のイッちゃんが、こくりとうなずいた気がした。
忍はマルチを見る。
「じゃあ、マルチも……そういう理由で?」
珊瑚はゆっくり首を振った。
「あの子は、ちょっとちゃうねん」
「なんで?」
「家族の中で傷ついたんやわ」
短い沈黙。
「どういう意味ですか」
珊瑚は画面越しに忍を見つめた。
「それは……お父さんとお母さんから、直接聞いてみいや」
その夜。
通話が終わっても、忍はすぐには動けなかった。
マルチは相変わらず静かに横たわっている。
鋼鉄天使。
人の代わりに傷つき、人の代わりに踏ん張り、人の代わりに壊れていった存在。
そして、家族の中で傷ついた存在。
ーーーー
一階、夫婦の寝室。
神岸あかりは、電気を消した部屋で天井を見つめていた。
窓の外で風が小さく鳴っている。
目を閉じると、十二年前の揺れが戻ってきた。
ーーーー2011年3月11日、午後。
妊娠八か月の体で居間に立っていた彼女は、人生で初めて経験するような大きな揺れに、壁へ手をついた。
食器棚が揺れる。
皿が落ちる。
窓が割れそうに軋む。
「浩之ちゃん……!!」
震える声で名を呼んだ、その瞬間。
台所の吊り戸棚が丸ごと落ちてきた。
避けられない。
その時。
薄桃色のエプロンが視界を横切った。
マルチが飛び込んだ。
ドンッ――!
木と金属がぶつかる音。
続いて食器が雪崩のように落ち、家じゅうに割れる音が響く。
マルチは崩れた棚を両腕と肩で受け止めたまま、最後まであかりの前に立っていた。
腕関節は悲鳴のように軋み、裂けた左肩から金属フレームがのぞいている。
傷口から青いスパークが散った。
「あかりさん……大丈夫……です……か……?」
声が途切れながら続く。
あかりはその場に倒れ込み、涙声で名を呼び続けた。
「マルチちゃん……マルチちゃん……!」
余震が続く間も、マルチはあかりを食卓の下へ避難させ、守り続けた。
交通が麻痺した街を抜け、浩之が夜明け前に帰宅するまで。
ーーーー現在。
あかりは目を閉じたまま、布団を強く握りしめた。
唇が、小さく震えていた。