To heart 30年後〜屋根裏物語〜 作:Joseph Lee
――――朝。
チャイムの音が鳴った。
あかりが玄関の扉を開けると、鞄を肩に掛けたみさきが、にこやかに立っていた。
「おはようございます、朝ごはんを食べに来ました!」
「いらっしゃい、みさきちゃん」
玄関の外から、志保がひらひらと手を振った。
あかりは一瞬だけためらい、それから静かに口を開く。
「志保……今日は夕方、みさきちゃんのこと、見てあげられないと思う」
志保は目を丸くした。
誰よりも気を配るあかりが、そんなことを言うのは珍しかった。
だが、すぐにその顔を見つめ、ふっと息をついた。
眠れていない目。
こわばった口元。
無理に作った笑顔。
「……わかったわ」
それ以上は訊かなかった。
ただ、みさきの背中を軽く押す。
「ほら、先に手洗ってきなさい」
食卓は、いつもより静かだった。
玉子焼きは少し焦げ、味噌汁はわずかに塩辛い。
あかりはそれにも気づかないまま、ぼんやりとご飯をよそっている。
浩之は新聞も開かず、水を口にするだけだった。
みさきは何度か口を開きかけては、やめた。
忍は母の顔をちらりと見て、箸を置く。
「みさき」
「うん?」
「今日は学校が終わったら、まっすぐおまえんちに帰ってくれ」
「え?」
「……一人でやらなきゃならないことがあるんだ」
みさきは反射的に言い返しかけた。
しかし、食卓の空気を見て、そのまま口を閉ざした。
「……わかった」
――――放課後。
藤田家は静まり返っていた。
浩之はまだ仕事から戻っていない。
あかりは買い物に出ると言っていた。
忍は一人、屋根裏部屋へと上がっていく。
みさきのいない屋根裏は、思っていたより広く、思っていたより静かだった。
マルチは布の上に横たわったまま、目を閉じている。
胸の奥から、かすかな駆動音だけが規則正しく響いていた。
忍はノートパソコンを開き、手首のポートへケーブルを接続した。
モニターに文字が表示される。
BOOT MODE : GUEST
VOICE MODULE : ONLINE
CORE PERSONA : LOCKED
しばらくして、マルチのまぶたがわずかに震えた。
「おはようございます」
はっきりとしているのに、平坦な声だった。
忍は息を呑む。
「マルチ……?」
「家庭用メイドロボット、HMX-12型、マルチです。セーフティモードにて起動中です」
その顔はマルチなのに、マルチではなかった。
「2011年3月11日の記録を見せてくれ」
「該当日のログを検索します。しばらくお待ちください」
短い沈黙。
「検索完了。映像を出力します」
ノートパソコンの画面が切り替わる。
藤田家の居間。
マルチの視界記録だった。
――――2011年3月11日 15時46分。
家全体が持ち上がり、そして沈み込むように揺れた。
食器棚が開き、皿が雪崩れ落ちる。
窓ガラスが割れそうなほど震えていた。
あかりが壁に手をつき、よろめいた。
腹部を抱える両手。
青ざめた顔。
「浩之ちゃん……!!」
震える悲鳴。
吊り戸棚が斜めに傾き、そのまま落下する。
警告音が鳴り響いた。
『予測衝突対象:藤田あかり』
次の瞬間、画面が激しく前方へ跳ねた。
マルチは、あかりと棚の間へ、自らの身体をねじ込んだ。
――ドンッ!
背中に、凄まじい衝撃が落ちる。
後部荷重急上昇。
左肩集中圧力感知。
外装パーツ破損。
フレーム露出。
視界が大きく揺れた。
左端で青い火花が散る。
倒れるわけにはいかなかった。
前方視界の中に、あかりがいた。
倒れ込んだまま、マルチを見上げている。
「マルチちゃん……!」
マルチは過負荷の中でも、
できる限り、いつものように微笑んだ。
「大丈夫ですよ」
余震が再び家を揺らした。
棚が背中へとのしかかる。
マルチは両足をさらに深く踏みしめた。
右腕を差し伸べる。
「あかりさん。食卓の下へ行きましょう」
「う……動けない……」
「大丈夫ですよ」
マルチはさらに身を低くした。
「私と一緒に行きましょう」
しばらくして。
食卓の下の空間。
マルチは膝をついたまま、入口側に身を置いていた。
あかりは奥で大きくなったお腹を抱え、荒い息を繰り返している。
停電。
家の中が闇に沈んだ。
損傷した左肩から散る青い火花だけが、ときおり周囲を照らした。
あかりは震える手で携帯電話を握りしめた。
つながらなかった。
呼び出し音だけが長く続き、やがて途切れる。
あかりは力なく笑った。
「警察も……消防署も……忙しいよね、きっと……」
マルチは小さくうなずいた。
しばらくして。
あかりがかすかな声で尋ねた。
「浩之ちゃん……いつ来るかな……」
マルチは一瞬だけ沈黙した。
「わかりません」
短い静寂。
そして、続ける。
「浩之さんなら、なんとしてもこちらへ向かっているはずです」
あかりは弱々しく笑った。
「……そうだね」
目元に涙が浮かぶ。
「でも、マルチちゃんがいてくれて……安心できるよ」
マルチはしばらく返答しなかった。
そして静かに言った。
「ありがとうございます」
映像は夜明けまで続いていた。
余震はその後も何度か繰り返された。
あかりは疲れ果て、食卓の脚と棚の残骸にもたれながら、うとうとと目を閉じては開けていた。
マルチは膝をついた姿勢のまま、動かなかった。
明け方。
玄関の向こうから、切迫した足音が響いてくる。
ドアノブが乱暴に揺さぶられた。
ガチャガチャ。
開かない。
その直後、――ドンッ!
扉全体が大きく揺れた。
一度。
二度。
三度目の蹴りで、歪んだ扉がこじ開けられる。
「あかり!!」
浩之が喉を裂かんばかりに叫びながら飛び込んできた。
崩れた居間を踏み越え、食卓へ駆け付けてくる。
そして、その下にいる二人を見た瞬間、彼はその場で立ち尽くした。
あかりは泣きながら手を伸ばしていた。
マルチは最後まで、守る姿勢のままだった。
忍は無言のまま、次の記録を開いた。
――――2011年5月23日 15時30分。
来栖川総合病院の病室。
あかりはソファに腰掛け、生まれたばかりの赤ん坊を抱き、疲れた顔のまま、それでも明るく微笑んでいた。浩之はその傍らに座り、妻と息子を交互に見つめている。
マルチは扉のそばで、遠慮がちにその光景を見守っていた。
「入って、マルチちゃん」
あかりが微笑んだ。
マルチはゆっくりと歩み寄る。
小さな顔。
きゅっと握られた手。
かすかな寝息。
浩之が赤ん坊を見下ろしながら言った。
「名前は決めた」
あかりが疲れた目で笑う。
「どんな名前?」
浩之はしばらく赤ん坊を見つめ、それから口を開いた。
「忍」
「しのぶ?」
「この災害の中でも耐えて、ちゃんと生まれてきてくれたからな」
あかりの目元が潤んだ。
マルチは赤ん坊を見つめ、やがてごく静かに言った。
「忍さん、ですか……とても素敵な名前ですね」
――――2011年12月28日 11時25分。
赤ん坊の泣き声。
マルチは哺乳瓶の温度を確かめると、あかりへ手渡した。
「こういうことは、私にお任せください」
あかりは疲れた顔のまま、微笑んだ。
「ありがとう、マルチちゃん」
忍は、いつしか日時表示ではなく、映像の内容だけを見つめるようになっていた。
次の記録。
マルチが洗濯物を畳んでいた。
次の記録。
マルチが掃除機をかけていた。
次の記録。
忍はあかりの腕の中では泣いていたが、マルチに抱かれると、胸部の冷却ファンが立てる低い振動音の中で、やがて静かに眠りについた。
遠くで、浩之の笑い声が聞こえる。
「忍に、お姉ちゃんが一人できたみたいだな」
映像の切れ際。
あかりの表情が強ばった。
次の記録。
あかりが言った。
「これは私がやるよ」
次の記録。
「忍ちゃんは私が寝かせるから、マルチちゃんは休んでいて」
次の記録。
マルチは離乳食の器を手にしたまま、一瞬だけ動きを止めた。
だが、すぐに微笑む。
「はい。お願いします」
次の記録。
あかりが一人で子供を抱き、泣いていた。
マルチは扉の外にしばらく立ち尽くし、やがて静かに、タオルだけを入口に置いて下がった。
忍は唇を噛みしめた。
ノートパソコンの画面の中の母は、疲れ果てていた。
崩れそうになりながら、必死に踏みとどまっていた。
そして、何かを奪われることを恐れていた。
――――2012年5月1日 23時26分。
ゴールデンウィークだった。
ある者は旅先に着いて写真を撮り、
ある者は酒杯を満たし、
ある者は遊びに出かける支度をしている時間だった。
藤田家では、家族の一人を直すため、最後の可能性にすがっていた。
卓上には、分解された部品と工具が雑然と並べられている。
マルチは、ソファにきちんと座っていた。
左肩の仮設外装は微妙に色が合っておらず、関節の隙間には修理の痕が残っている。
ときおり、体内から微かな駆動音が不安定に震えていた。
浩之は床に座り込んでいた。
ネクタイは緩み、シャツの袖はまくり上げられている。
目の下には、何日も積み重なった疲労が濃く落ちていた。
あかりは食卓の椅子に腰掛け、腕の中に忍を抱いていた。
子供をあやす指先にさえ、力がなかった。
テレビは音を消したまま点いていた。
画面下の字幕だけが、休みなく流れていく。
メイドロボットによるホームスクーリング児童、発達障害問題が深刻化
引きこもり、メイドロボットと心中事例発生
家族共同体崩壊の原因はメイドロボットか
あかりの手がぴくりと震えた。
知らず、忍をさらに強く抱き寄せる。
「もう一度、倉庫も漁ってみた」
浩之が低く言った。
「旧型生産ラインの在庫も確認した。廃棄予定の分まで見た」
返事はなかった。
「長瀬チーフにも頼んだし……先輩のところにも連絡した」
彼は苦く笑う。
「綾香まで付き合ってくれて、全国の修理店の在庫を最初から洗い直したけど」
しばし沈黙。
「……なかった」
テレビ画面が切り替わる。
黒煙を上げる住宅街。
担架が運び出される映像。
字幕が再び流れた。
メイドロボット 火災原因の可能性指摘
画面の片隅では、産業用メイドロボットたちが消防隊の指示に従い、炎の中へ入っていく。
マルチはその様子を静かに見つめていた。
火を出したのもロボットだと言われ、火を消すのもまたロボットだった。
浩之が歯を食いしばる。
「会社も大騒ぎだ」
吐き捨てるように言った。
「家庭用ラインナップ中止って話まで出てる」
彼はテレビを睨みつけた。
「事故が起こる度に、みんな最初から要らなかった物みたいに言いやがる」
テレビの中、パネル席の僧侶がうなずきながら何かを語る。
字幕が映し出された。
『傀儡に魂を入れてはならぬ』
あかりは唇を噛んだ。
世間はメイドロボットを恐れていた。
そして……自分もまた、恐れていた。
ついさっきも、マルチはカップを持ったとき手首が震えた。
哺乳瓶を運ぶ際も、一拍遅れて反応した。
マルチが忍のそばにいるたび、あかりは理由のわからない恐怖に息が詰まった。
だが、同時にわかってもいた。
2011年3月11日。
崩れ落ちる棚を、その身で受け止めたのもマルチだった。
停電の闇の中、食卓の下で自分と腹の子を守ってくれたのもマルチだった。
自分は、その恩人を恐れている。
その事実こそが、何より耐え難いことだった。
「浩之さん」
「まだ終わったわけじゃない」
「浩之さん」
今度はマルチが、少しだけ優しく呼んだ。
浩之は口をつぐむ。
マルチはゆっくりと左手を見下ろした。
指先が微かに震えている。
次の瞬間、関節部から短い火花が散った。
あかりがびくりと身をすくめる。
マルチは何事もなかったように、両手を膝の上へ揃えた。
「最近、誤作動の頻度が増えています」
浩之の顎が強張る。
マルチは淡々と続けた。
「次は物ではなく……人を傷つける可能性があります」
「やめろ」
浩之の声が裂けた。
「そんなこと、言うな」
マルチは小さく微笑んだ。
「皆さんの安全のために、眠ります」
あかりの肩が震えた。
「マルチちゃん……」
浩之は勢いよく立ち上がったが、結局一歩も踏み出せなかった。
握りしめたドライバーだけが、折れそうなほど軋んでいる。
「嫌だ」
彼は荒く息を吐いた。
「今さら……お前を諦められるかよ」
語尾が崩れ落ちた。
マルチはしばらく彼を見つめていた。
そして、ゆっくりと頭を下げる。
「今まで、本当に幸せでした」
あかりはついに泣き崩れた。
腕の中の忍を強く抱きしめたまま、声を殺して嗚咽する。
浩之は長い間、動けなかった。
「……待ってろよ。俺達、絶対おまえを直して、もう一度起こしてやるからな」
マルチは瞬きもせず、彼を見つめていた。
初めて凍結を告げられた日にも、同じ声で、同じ約束を聞いていた。
そして今回も、あのときと同じ微笑みを浮かべた。
「はい」
短い返事。
そして、少しして。
「待っています」
浩之は目を閉じ、電源を落とした。
ウィィン――
胸の奥の駆動音が、ゆっくりと低くなっていく。
視界輝度低下。
あかりの腕に抱かれていた忍が、不意に顔をしかめた。
そして、やがて。
「わあああん――!」
あかりは自分も涙を流しながら、わけもわからず泣く子供をあやした。
浩之はマルチの前に膝をついたまま、最後まで振り返ることができなかった。
瞳の光が一度だけ揺れる。
映像信号が激しく乱れた。
そして、静かに途絶えた。
ノートパソコンの画面の前。
忍はしばらく動けなかった。
息の仕方さえ忘れたように、
ただ、黒く冷えた画面だけを見つめていた。
屋根裏部屋は静まり返っている。
忍はゆっくりと顔を上げ、目を閉じたまま横たわるマルチを見た。
唇が震える。
「……勝手に、一人で決めやがって」
短い沈黙。
「嘘つき」
返事はない。
忍は歯を食いしばった。
「馬鹿野郎」
ノートパソコンの画面には、フォルダ名が表示されていた。
REMEMBER_MY_MEMORIES
――――商店街。
あかりはスーパーの袋を提げて帰りながら、
ふと、高校三年の頃を思い出していた。
それは、ある週末の早朝。
住宅街の路地。
一台の車が、ゆっくりと遠ざかっていく。
来栖川工業大学で一晩中、
HMX-11型「フィール」にまつわる騒動へ巻き込まれ、帰ってきた日のことだった。
浩之が疲れた顔で言った。
「さてと、帰ってひと眠りするとすっか。じゃな」
浩之が背を向けた、その瞬間だった。
あかりの声が弾けた。
「どうして……どうして……どうして、いつもマルチちゃんなの!?」
浩之が足を止める。
あかりは目に涙をため、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「マルチちゃんがいれば……私のことは、どうでもいいの!?」
あかりはそのまま背を向け、家の中へ駆け込んでしまった。
「あかり……あかり!!」
あのときと同じ不安が、
形だけを変えて、再び戻ってきていた。
十二年前、封じ込めたはずのそれを、
息子が屋根裏部屋で、もう一度こじ開けていた。
――――その日の夕方。
藤田家には珍しく、沈黙に支配された夕食の時間だった。
長いあいだ何も言わなかったあかりが、やがて口を開く。
「忍ちゃん」
忍は母の顔を見上げた。
「明日からは……屋根裏へ上がらないで」
静寂が、重く降りた。