To heart 30年後〜屋根裏物語〜   作:Joseph Lee

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第9話~テセウスの船~

――――あれから一週間後。

 

屋根裏部屋のハシゴを降ろさなくなったあの日から、一週間が過ぎた。

藤田家は、何事もなかったかのように動いていた。

 

あかりはいつも通り完璧に家事をこなした。

浩之はいつも通り働いた。

忍はいつも通り学校に行った。

 

みさきは以前と同じように、自分の家のように上がり込んできた。

食卓では天気の話をした。

 

学校給食の話、スーパーの特売の話、テレビ番組の話。

誰も屋根裏の話はしなかった。

 

誰もマルチという名を口にしなかった。

味噌汁は毎日よく似た味だった。

そして、誰もその味を覚えていなかった。

 

忍は少しずつ、我慢の限界に近づいていた。

 

――――昼休み。

 

教室の中は、給食の匂いと騒がしい声で満ちていた。

子供たちは給食を食べ終えていたが、忍はお箸にも手をつけず、ノートに同じ文字ばかり書き続けていた。

 

CORE PERSONA : LOCKED

REMEMBER_MY_MEMORIES

 

書いて、線で消し、また書いた。

 

 

 

みさきが隣の席で牛乳パックをすすりながら、箸の先で忍の腕をつついた。

 

「最近あんた、なんか怖い」

 

「何が」

 

「目が」

 

「うるさい」

 

「ろくにご飯も食べないし、授業中ぼーっとしてるし、変な暗号みたいなの書いてるし」

 

みさきはノートをひょいと奪い取った。

 

「コア……なに? リメンバー……なにこれ」

 

「返せこら」

 

忍はすぐに取り返した。

 

「ほんとに怖いんだから」

 

みさきはしばらく、忍の顔を覗き込んだ。

 

「あんたん家、なんかあったでしょ」

 

忍は答えなかった。

短い沈黙が流れる。

 

みさきはトレーを脇へ押しやり、ため息をついた。

 

「ちょっと屋上行こ?」

 

「やだ」

 

「口答えする力はあるんだ。いいからついてきて」

 

屋上の扉が閉まる音がした。

風が吹いた。

 

みさきは、フェンスにもたれたまま俯く忍を横目で見た。

 

「さ、白状しなさい。なんでそんなしけた顔してんのよ」

 

忍はしばらく黙っていた。

やがて、ポケットから携帯電話を取り出す。

 

「……これ、見ろよ」

 

再生ボタンが押された。

みさきは最初、何気のない顔で画面を見下ろしていた。

 

「なに。メイドロボの記録映像?」

 

だが、数秒後には表情が固まった。

 

視線が忙しく揺れる。

いつも軽口ばかり叩く唇が閉ざされた。

 

忍は何も言わず、最後まで映像を流した。

風の音だけが、屋上を吹き抜けていく。

 

映像が終わり、画面が暗くなる。

 

みさきはしばらく、何も言えなかった。

そして、突然叫んだ。

 

「ちょっと!」

 

忍がビクッとした。

 

「これ、おばさん知らないままってことでしょ!?」

 

忍は低く答えた。

 

「……どうかな」

 

「は?」

 

「見せてないし、聞いてもいないから」

 

「なんで見せないの!」

 

みさきは苛立ったように頭を掻いた。

 

「いや、これ見なきゃだめでしょ! 絶対見なきゃだめなやつでしょ!」

 

 

 

忍はフェンスの下だけを見つめていた。

 

「映像の中の母さんが……マルチを見る目、あれが嫌だった」

 

みさきは何か言いかけて、口ごもった。

そして、さっきより少し低い声で言った。

 

「……おばさんが、全部間違ってるとも言えない」

 

 忍が鋭く振り向く。

 

「なんだよ、それ」

 

「でも」

 

みさきは携帯電話を指さした。

 

「これは知ってもらわなきゃだめでしょ」

 

忍は黙ったままだった。

みさきはため息をつき、彼の肩を軽く叩く。

 

「しけた顔しないで、そろそろ終わらせたら」

 

「何を」

 

「家族喧嘩」

 

少しして、みさきが付け加えた。

 

「あと給食残すんじゃないよ。牛乳も」

 

忍はあの日初めて、ほんの少しだけ笑った。

 

――――土曜日の遅い朝。

 

忍が玄関でスニーカーの紐を結んでいると、浩之が言った。

 

「支度しろ」

 

「なんの支度?」

 

「出かけるぞ」

 

「どこにだよ」

 

「行けばわかる」

 

短いひと言だった。

 

忍は父親としばらく睨み合った末、やがて小さくうなずいた。

流し台の前で洗い物をしていたあかりの手が止まる。

 

二人がどこへ行くのか、訊かなくてもおおよその察しはついた。

だが、この一週間、忍はちゃんと学校へ通い、文句ひとつ言わず食事をし、言われた通り、屋根裏にも上がらなかった。

どこへ行くのかも聞かず、二人を引き止める理由は、見つからなかった。

 

あかりは背を向けたまま言った。

 

「お昼は……?」

 

「外で食ってくる」

 

浩之が答えた。

忍が扉を開ける直前、あかりが低く言った。

 

「……あんまり遅くならないでね」

 

忍は何も答えず、そのまま扉を閉めた。

あかりは、玄関の扉が閉まる音を、最後まで聞いていた。

 

――――車の中

 

週末の道路は混んでいた。

家族連れの車たちの間に挟まれながら、藤田家のファミリーバンはゆっくりと進んでいく。

 

ラジオからは交通情報が流れていた。

 

『小牧方面、渋滞が続いています』

 

 

 

浩之が小さく舌打ちする。

 

「サービスエリアで昼飯食ってくか」

 

助手席の忍は窓の外を見たまま口を開いた。

 

「母さんのため?」

 

浩之は視線を前から外さずに答えた。

 

「……半分はな」

 

「じゃあ、残り半分は」

 

「お前だ」

 

忍が眉をひそめる。

 

「俺?」

 

「お前が、知っちまったからだ」

 

「何を」

 

浩之はしばらく黙っていた。

やがて、低く言う。

 

「俺達大人が、ずっと蓋してきた問題を、だ」

 

忍はそれ以上、何も言わなかった。

 

 

 

 

車が停まったのは、市の外れにある小さな建物だった。

看板には、こう書かれていた。

 

『姫百合電脳研究所』

 

インターホンを押すと、奥から足音が近づいてくる。

ガチャッ、

やがて、扉が開いた。

 

三角巾姿の女性が、顔を出した。

 

「……いらっしゃいませ」

 

忍が瞬きをする。

 

「え、前にビデオ通話してた人……あれ? なんか雰囲気違う」

 

「姫百合瑠璃です。さんちゃんの双子の妹や」

 

奥から別の足音が響いた。

 

 

 

「る~~!!」

 

現れたもう一人の女性が、両手を高く上げて笑った。

 

「久しぶりやねぇ、藤田先輩! 忍くんもよう来たなぁ!」

 

浩之が額を押さえる。

 

「……まだそれやってんのか」

 

「一生やるに決まってますやん~!」

 

忍は扉を閉じたいと思った。

 

 

研究所の中は、なんとも形容しがたい有様だった。

研究所という名が霞むほど、数台のコンピュータと観測機器らしきものを除けば、空間のほとんどがクマのぬいぐるみで埋め尽くされている。

 

ビデオ通話のときにも見た光景だった。

クマ好きの母が見たら、その場で喜んで倒れそうな光景であると、忍は思った。

 

そのとき、机の上のクマのぬいぐるみの一体が、すっと姿勢を正した。

 

「初めまして」

 

忍が固まる。

 

「HMX-17a型、イルファと申します。よろしくお願いいたします」

 

「……は?」

 

珊瑚が微笑んで付け加えた。

 

「こないだの通話にもおった、イッちゃんや」

 

忍は浩之を振り返った。

 

「なんで誰も説明してくれないんだよ」

 

「説明したら、もっとおかしいだろ」

 

そのとき、再び扉が開いた。

一人の男が、両腕にクマのぬいぐるみを二体抱えて入ってくる。

 

「珊瑚ちゃん、ごめん。ちょっと遅れた」

 

「貴明~、る~~!!」

 

珊瑚が両手を高く上げ、さっきと同じ挨拶をした。

男の左肩に乗っていたクマが、ぱたぱたと腕を振る。

 

「もう、ダーリン。遅刻だよぉ~~!」

 

 右肩のクマは、男の首の後ろへ隠れた。

 

「……ご主人様。知らない人がたくさんいるのれす」

 

「大丈夫だよ、シルファちゃん」

 

男は喋るクマ二体をなだめると、浩之の前で頭を下げた。

 

「お久しぶりです、先輩」

 

「おう」

 

軽く握手を交わしたあと、貴明は忍の前で腰を折った。

 

「忍くんだよね? 珊瑚ちゃんから話は聞いてるよ。よく来てくれた」

 

左肩のクマが手を振った。

 

「河野ミルファで〜〜〜す!!」

 

右肩のクマは、顔だけをそっと覗かせる。

 

「……シルファれす」

 

忍はぼそりと呟いた。

 

「……ここは、別の世界だ」

 

 

 

全員がテーブルに着くと、瑠璃が静かにお茶を運んできた。

湯呑みを一つずつ置いていた彼女の手が、ふと止まる。

クマ三姉妹を見つめながら、小さく口を開いた。

 

「……あの頃は、怖くてこの子らとお出かけできまへんでしたわ」

 

珊瑚が笑みを消した。

 

「もともと、この子らも人の姿やったで」

 

忍が顔を上げる。

 

「え?」

 

「この前、話したやろ」

 

珊瑚は指を折りながら数え始めた。

 

「メイドロボットが子供を駄目にする。

 家庭を壊す。

 バケモンが憑いとる。

 人まで食らう、てな」

 

研究所の空気が冷えた。

 

「道端で石投げられた子もおったし、壊されて廃棄になった子もぎょうさんおった」

 

「量産型が街から消えてからは、どこで聞きつけたんか、プロトタイプまで見分けられるようになってもうて」

 

珊瑚はクマの三姉妹を見つめた。

 

「せやから、隠したんや。世間が少しでも怖がらへん姿の中にな」

 

イルファが静かに頭を下げた。

 

「当時、人型ボディーでの外出は、破損危険率が高い状況でした」

 

ミルファが貴明の腕にしがみつく。

 

「クマさんの身体に戻るの、最初は嫌だったけど、ダーリンがいつも抱っこしてくれるからもう平気~!」

 

シルファは小さく呟いた。

 

「……お外は、嫌なのれす」

 

忍は、何も言えなかった。

 

 

貴明が頭をかいた。

 

「忍くん。俺も、マルチさんのことは珊瑚ちゃんから聞いたよ」

 

忍が顔を上げる。

貴明はミルファを見下ろした。

 

「ミルファちゃんは……一度、俺のことを完全に忘れてしまったことがあるんだ」

 

研究所の中が静まり返った。

 

「メモリーの損傷で、俺に関する感情も、記憶も全部失ってしまってね」

 

ミルファがぴっと手を挙げる。

 

「あのときのダーリンって、あたしにめっちゃ嫌われたんだ~!」

 

「ミルファちゃん」

 

「事実だもん!」

 

貴明は苦笑した。

 

「初対面の人みたいに俺を避けて、近づくと怒ってたよ」

 

忍は息を呑む。

 

「……じゃあ、今は?」

 

ミルファが胸を張った。

 

「また好きになったよ~!」

 

「記憶そのものは、結局戻らなかったけどね」

 

貴明が言った。

 

「それでも……もう一度、始めたんだよ。必死に」

 

ミルファが勢いよく腕を振り上げる。

 

「たとえ記憶がなくなっても、あたしは絶対またダーリンを好きになるからねー!」

 

貴明が顔を覆った。

 

「……お前、しばらく俺のこと虫みたいな目で見てたくせに」

 

「でも今はダーリンだもーん!」

 

 

珊瑚が湯呑みを置いた。

 

「さて、次は忍くんの番や」

 

それまで黙って聞いていた浩之が、鞄の中から記憶媒体と出力した資料を取り出した。

珊瑚がイルファを見やる。

 

「イッちゃん、ちょっと見たって」

 

「はい。確認いたします」

 

イルファのクマの胴体のどこかから、するりとケーブルが伸びた。

忍は、もう驚かないことにした。

 

しばらくして。

 

イルファが落ち着いた声で告げる。

 

「やはり、ハードウェアの状態は良好です」

 

「原因は、この前も言うたやろ」

 

珊瑚が続けた。

 

「マルチお姉様は、自らロック状態に入っておられます」

 

静寂が落ちた。

珊瑚が指を二本立てる。

 

「ロックの外し方がわからん限り、現実的な選択肢は二つや」

 

「ひとつ。記憶データだけを受け継ぐ、新しい人格として始める」

 

「ふたつ。人格も記憶も初期化して、身体だけ生かしたまま、一からやり直す」

 

忍の顔が強張った。

 

「……それ、マルチじゃないじゃん」

 

珊瑚は即座にうなずいた。

 

「せやで」

 

そして、身を乗り出す。

 

「ほな、忍くんが探しとるんは何なん?」

 

忍は答えられなかった。

珊瑚はそのまま言葉を継ぐ。

 

「家電みたいに使うだけやったら、どっちも悪い選択やない。せやけど、ほななんで“マルチ”やなあかんのか、っちゅう話や」

 

貴明が苦笑した。

 

「できることなら……どっちも失いたくないよね。俺の場合は、その……不可抗力だったから」

 

ミルファが勢いよく手を挙げた。

 

「そうだよぉ~!それくらい欲張ってもいいんだよー!」

 

 

 

――――夕暮れ頃。

 

藤田家の玄関先に、あかりが立っていた。

エプロンも着けず、ただ、扉の前に。

 

忍と目が合う。

先に口を開いたのは、あかりだった。

 

「お父さんと、どこ行ってたの」

 

忍が答える。

 

「俺達が、マルチともう一度会う方法を探しに行ってた」

 

浩之が目を閉じた。

あかりの表情が強張る。

 

「……もうやめなさいって、言ったよね」

 

忍は一歩、前へ出た。

 

「……母さん。母さんには、見なきゃいけないものがある」

 

風が、路地を吹き抜けた。

 

 

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