部室へ戻る。
ガラッ。
影「ただいまー。」
返事はない。
妙に静かだった。
そして影生は気づく。
燈の前の机に、一冊の学習帳が広げられていることに。
開かれたページには、大きく書かれた文字。
『春日影』
CRYCHICの曲だった。
あの頃の思い出が詰まった曲。
「あ、影生くん……おかえり。」
影「ああ。」
何事もないように飲み物を机へ置く。
影「ほら。燈にオレンジジュース。愛音ちゃんにはカフェオレ。」
千「ありがとー!あと、愛音でいいよー?」
(流石に会って初日で呼び捨ては早くね?)
そう思いながら、影生は机の上のノートを見る。
影「随分懐かしいな。春日影。」
千「あ!もしかして影生くんもバンドやってたの?」
影「裏方だけどな。」
影生はコーヒーを開ける。
影「スタジオの予約とか、機材運びとか、他のバンドとの連絡とか。演奏はしてない。」
CRYCHICにおける影生の役割は、サポートだった。
メンバーの負担を減らし、他バンドとの繋がりを作る。
その関係で、様々なバンドとも交流を持っていた。
千「へぇー!」
燈「……影生くん…楽器全般弾ける。」
千「えっ!?」
影「広く浅くだよ。」
幼少期から様々な体験をしている影生。しかしながら才能が皆無故極めることが出来ず結果的に器用貧乏、それが群青影生だった。
しばらく話した後。
愛音が勢いよく立ち上がる。
千「燈ちゃん!カラオケ行こ!」
燈「え……。」
突然の誘い。
戸惑う燈。
だが。
千「行こ行こ!」
燈「……う、うん。」
押し切られる形で了承する。
千「やったー!」
そして影生を見る。
千「影生くんも!」
影「あー、悪いけど今日はバイト。」
千「えー。」
影「代わりと言っちゃなんだが、一人派遣しよう!」
その時。
部室の隅で寝ていた黒猫が、顔を上げる。
赤い瞳。
ノアだった。
千「猫!?」
影「ああ。うちの妹のノア。」
燈「……ノア。」
ノアは当然のように、燈の足元へ移動する。
「にゃ。」(ついていけば良いの?)
影「正解、頼むぞノア。」
千「おお〜、以心伝心だ。」
影「昔からだからな。」
そう言いながら、影生は時計を見る。
影「じゃ、俺は先に行く。」
燈はノアを抱えて、不安そうに言う。
燈「……いってらっしゃい。」
放課後のRiNG。
客はまだ少ない。
影生はドリンクの準備をしていた。
そこへ、影生の教育係である山吹沙綾がやってくる。
沙綾「影生くん、機材運び手伝って!」
影「了解です。」
厨房へ声を飛ばす。
影「立希!お湯沸いたらコーヒー落としといて!」
立希「はぁ、分かった。」
ぶっきらぼうな返事。
元CRYCHICのドラマー、椎名立希。
影生は沙綾と共に機材を抱え、スタジオへ向かう。
アンプ。
シールド。
エフェクターケース。
慣れた手つきで運び込んでいく。
機材を運びスタジオへ向かうと、見知った顔があった。
「あ、影生じゃん。」
「およ? 影生くんじゃ〜ん。」
影「美竹先輩、青葉先輩。お久しぶりですね。」
美竹蘭と青葉モカ。
Afterglowのメンバーだった。
同じ羽丘ということもあり、以前から交流がある。
蘭はアンプの前でギターを調整しながら、少し笑う。
蘭「バイト中だからって、そんな他人行儀な呼び方しなくていいって。」
モカもけらけら笑いながら頷く。
モカ「そーそー。“蘭ちゃん先輩”でもいいよ〜?」
蘭「なんでモカが許可だしてんの?」
影「それは流石に怒られそうなので。」
そう笑いながら返しつつも、影生の手は止まらない。
配線確認。
マイク位置調整。
譜面台を端へ寄せる。
手慣れた手つきで、迅速にセッティングを終わらせていく。
蘭「相変わらず無駄に仕事できるよね……。」
影「褒め言葉として受け取っときます。」
機材の最終確認を終えた影生は、立ち上がった。
影「他のメンバーの方はまだですか?」
蘭「ん、もう少ししたら来ると思う。」
影「なら時間に余裕あったら、カフェテリア来てください。」
モカが「お?」と眉を上げる。
影「コーヒーぐらいなら、サービスしますので。」
蘭「え、いいの?」
影「バレなければ。」
モカが吹き出す。
モカ「わ〜、店員の発言じゃない〜。」
影生は軽く肩を竦めるだけだった。
そしてそのまま、スタジオを後にする。
もちろん、このサービスは影生の独断である。
店長にバレれば怒られるのは、言うまでもなかった。
蘭とモカを連れて、カフェテリアへ戻る。
夕方が近づき始めた店内には、チラホラと客が増えていた。
モカ「お〜、なんかいい匂いする。」
蘭「お腹減ってきた……。」
影「おすすめはチーズケーキです。うちの店の卸しなんで。」
蘭「あ、影生ん家のやつなんだ。」
そんな会話をしながら席へ案内しようとした、その時だった。
ぐいっ。
突然、立希に腕を掴まれる。
影「うおっ。」
そのまま立希が強引に、影生をバックヤードへ引きずり込んだ。
バタン!
扉が閉まる。
そして。
ドン!!
壁に手が叩きつけられる。
目の前には、妙に圧のある顔。
立希「お前!!」
影「近い近い。」
立希「Afterglowのあの二人と、どういう関係なの!?」
妙にご立腹だった。
しかもガチトーン。
影生は一瞬ぽかんとした後、呆れたようにため息を吐く。
影「何にキレてるのか知らんけど、あの二人はお得意さんだよ。」
立希「……は?」
影「よく店来てくれてるし。」
影生の実家である洋菓子店、
Pâtisserie Étoile(パティスリー・エトワール)
個人経営ながら、それなりに評判がいい。
店売りだけでなく、他店舗への卸しも行っていた。
影「あとキーボードの羽沢さんに至っては、取引先の娘さん。」
立希「取引先……?」
影「羽沢珈琲店。知ってるだろ?」
その一言で、立希が少し黙る。
影生の店では、羽沢珈琲店を始め、いくつかの喫茶店やカフェへケーキや焼き菓子を卸している。
当然、娘である羽沢つぐみとも顔見知りになる。
影「だから、普通に交流あるだけ。」
立希「……ッチ。」
立希はまだ、少し納得していない顔をしていた。
影生はそんな立希を見ながら、首を傾げる。
影「ていうか何で、そんなキレてんの?」
立希「別にキレてない!」
影「いや、キレてるだろ。」
立希「……っ。」
立希は露骨に目を逸らす。
その反応で、影生は何となく察した。
影「あー。」
立希「何その“あー”って!」
影「いや、別に。ただファンは大変だなぁーって。」
立希「腹立つ……。」
立希は頭を抱えるように、しゃがみ込む。
影生は少し笑いながら、冷蔵庫から紙パックの牛乳を取り出した。
影「飲む?」
立希「いらない。」
影「カルシウム不足で、イライラしてるかと思った。」
立希「殴るぞ。」
影「怖。」
その後は、平和な時間。
そう思っていた。
だが夕方。
店前の掃除に行っていた立希が、険しい顔で戻ってきた。
立希「おまえ、知ってたのか。」
影「何が?」
立希「燈が、クラスメイトと遊びに行ったこと。」
そこから話を聞く。
燈が泣きそうな顔で走っていたこと。
バンドに誘われたこと。
影生は静かに答えた。
影「多分、燈が『一生バンドしてくれる?』とか聞いたんだろ。」
立希は固まる。
そして、激昂した。
立希「そこまで分かってて、止めなかったの!?」
胸ぐらを掴まれる。
しかし、影生は冷静だった。
影「立希。」
その声には、怒気が混じる。
影「お前、どの立場で言ってる?」
静かな反論。
そして。
影「本当に燈を想うなら行動しろ。見守るだけじゃぁ何も変わらないぞ。」
そう告げる。
やがて立希は、黙り込む。
影生は最後に言った。
影「まずはそよか睦に、連絡でもしてみろよ。」
立希「なんで祥子の名前が出てこないの?」
影「逆に聞くが返事が返ってくると思うか?あんな別れ方しておいて連絡が取れるならCRYCHICが解散することもなかったんじゃないのか?」
止まっていた時間を動かすために影は動き始める。全ては魅入られてしまった自身の心のために。