ベオウルフが本当にエルトシャンと旧知の仲だったと判明したのは、シルヴィアの刃傷事件のさなかだった。
その日は、エルトシャンがアグスティ城に会談へ来ていた。
広めの談話室を話し合いの場として利用された。そこに集うのは、シグルド、キュアン、ラケシス。そして、その関係者たちだ。
エリンもラケシスの命により呼ばれた。そして、何故かベオウルフも当然のようにそこに座していた。彼を招いたのは、ラケシスであった。
相変わらずの太々しい笑みで、彼はエリンに話しかけてきた。
――ようやく自由の身だな、嬢ちゃん。
馴れ馴れしい態度に苛立ちつつ、エリンは彼を無視した。ラケシスの願いとはいえ、こんな男と同じ空間に居たくない。
――ベオウルフ、駄目よ。エリンを揶揄ったりしたら。
ラケシスが嗜める。しかし、ベオウルフは肩をすくめながら、どこ吹く風といった調子で再びエリンに目を向ける。
――少しは懲りたからと思ったんだが、やっぱりまだまだお子様だな。このちびっ子は。
そう言って、ベオウルフはエリンの頭を乱暴な仕草で撫で回したのだ。完全なる子供扱い。エリンは背中に回した手を拳にして耐えた。
ベオウルフが調子に乗ってるのも、今のうちにだけだ。その思いだけで、この屈辱をエリンは耐え忍んだ。
期待していたのだ。ベオウルフの嘘が暴かれることを。
ノディオン王の友人だと嘯くベオウルフ。それがついにエルトシャンとの対面により白日とされるはずである。
――あの傭兵は、ラケシス姫へ言いよるために嘘を言っているのでは無いか?
軍内で流布されている噂だ。エルトシャンを良く知る人物達――シグルドやキュアン、そして三つ子騎士……その誰もがベオウルフの存在を知らなかったのが噂の発症である。
エリンは、この噂が事実であろうと願っていた。
ラケシスは誑かされているだけだ。
ベオウルフの嘘が暴かれれば、きっとラケシスも目を覚ますであろう……そんな望みもあった。
だが、エリンの希望はあっさりと裏切られた。
――久しいな、ベオウルフ。
目を細めて手を差し出すエルトシャン。その手を、にやりと笑ったベオウルフが力強く握り返す。
――無事で何よりだ、エルトシャン。
王族に対する無遠慮な物言いを、エルトシャンはまるで気にしていない。むしろ旧友を労わるような口ぶりで、ベオウルフの帰還を歓迎していた。
二人が交わす近況の報告。その言葉の端々に、親しみと信頼が滲んでいる。
もはや疑いようはなかった。ベオウルフは、何一つ嘘をついていなかったのだ。
――悪いが、俺やイーヴたちの代わりにラケシスを頼む。お前になら任せられる。
エルトシャンの言葉に、エリンは息を呑む。
これまでラケシスの護衛は、三つ子騎士のイーヴたちが担っていた。しかし、彼らが忠義を尽くすのは、あくまで主君たるエルトシャンである。
三つ子たちと顔を合わせる機会はすでに失われていたが、唯一イーヴだけは、エルトシャンの護衛としてアグスティ城を訪れていた。
だが、この場に彼の姿がないのは、エルトシャンの配慮によるものだろう。
イーヴの妻は、ラケシスに長年仕える侍女である。かつて、幼きエリンの叙任式で日傘の使用を提案したのは、まだ年若かった彼女だった。
八年の歳月は、小心だった彼女を一人前の侍女へと育て上げ、今ではラケシスの筆頭侍女として深く信頼されている。
イーヴとその妻との間には、すでに子も生まれていた。長子は「トリスタン」と名付けられた男児だ。幼いながらに、父親に似て聡明そうな顔立ちをしている。
イーヴは息子を大層可愛がっていた。エリンが義父の随行としてノディオンに訪れたとき、その子煩悩ぶりを大いに語られた。主にエヴァの口から。
今、彼は妻子の元にいる。わずかな時間でも、家族との団欒を楽しめ――エルトシャンはそう言って送り出したのだ。
イーヴは会談の場から退室する際、ベオウルフにズシリと重みのある布袋を手渡していた。すぐさま中を確かめるベオウルフの様子を、エリンは横目に見つめる。布袋の中には、大量の金貨が詰まっていた。
エルトシャンが静かに言う。
――妹を任せるにあたっての報酬だ。受け取ってくれ。
――ああ、確かに頂戴した。
ベオウルフは目視だけで金額を確認すると、布袋を懐へとしまい込んだ。
彼はすでにシグルドに高額で雇われているのに――そのうえで、さらに金を取るのか。
エリンは嫌悪を抱いてしまう。
けれど実際には、シグルドの雇用金は軍への参加に対するものであり、エルトシャンのそれはあくまでラケシスの個人的な護衛に関する報酬である。
普段のエリンなら、そのくらいの違いはすぐに理解できる。けれどベオウルフが絡むと、どうしても冷静でいられなかった。
エリンは酷い屈辱を味わっていた。ラケシスの守り役を、ベオウルフに奪われたのだ。
グランベルによるアグスティ占拠の影響で、エルトシャンはノディオンの兵を自由に動かすことができなくなっていた。たとえそれが「妹の護衛」という名目であっても、兵をひとりでもシグルドのもとへ送れば、シャガールからの不信はさらに深まる。
すでに王の信頼を損ねている彼にとって、それは命取りになりかねない。
だからこそ、エルトシャンはベオウルフを選んだのだ。
傭兵である彼には、国のしがらみがない。すでにシグルドの軍に加わっており、戦場での実績もある。そして――何より、彼はエルトシャンの友である。
エルトシャンにとって、ラケシスを託すに足る最も適任の男――それが、他ならぬベオウルフだった。
それを誰よりも喜んだのは、ラケシスである。あれほどまでに「兄以上の男はいない」と公言して憚らなかったあのラケシスが、である。
――お兄様のような方でないと、誰の妻にはなりません。
かつてそう言ってエリオットの求婚を跳ね除けたラケシスは、いまや、兄とは似ても似つかないベオウルフを讃える言葉を惜しまない。
潤んだ瞳は星々のように煌めき、白磁の頬も薔薇色に染まっていた。両手を祈るように胸元で組み、熱心に語る彼女の姿に、エリンはどうしようもない不快感を覚えた。
――兄上、ベオウルフは何でも出来てしまうのよ。
――おいおい。それは流石に買い被りすぎだぜ、姫さん。
――もう! 何度も言ってるでしょう。私のことはラケシスと呼んでくださいって。
――困った姫さんだ。なぁ、エルトシャン! お前からも何か言ってやってくれ。少しはお転婆を控えるようにとな。
――それは無理だな。ラケシスの好奇心旺盛さは俺よりも強いからな。
――兄上ったら!
三人が和やかに談笑する様子に、同席していたシグルドは目を丸くしていた。
――ベオウルフが、これほどまでにエルトシャンと打ち解けていたなんて知らなかったな。
――おい、大将。まさか、俺のことをホラ吹きだと思っていたのか?
――ははは。エルトシャンは、積極的に自分のことを語らないからな。悪いが、私も少し疑っていた。
キュアンも声を立てて笑う。その隣に座る彼の妻エスリンも、にこやかに微笑んでいた。彼女の腕の中では、幼いアルテナ王女は母の指を握ってあやされていた。可愛らしい独り言が時々漏れている。
レンスター夫妻の傍には、フィンが控えていた。彼は常時と変わらず生真面目な表情を保っている。フィンの存在が、エリンの居心地の悪さを増幅させていた。
開拓村救援の際に、気まずい空気で別れて以来二人の関係はギクシャクしたものとなっていた。
すれ違いに顔を合わせても、フィンは俯いてエリンを避けるように足早で去る。
素っ気なくされるのが悲しくて、エリンも彼を避けてしまう。フィンの姿を遠目に見掛ければ、回り道してでも彼と顔を合わせないように努めた。
会話どころか、挨拶をすることも無い。元々、二人は立場的に親しくする必要は無い。
仲良くなる前に戻っただけだ。――そう、思える性格なら、エリンはまだ気楽であっただろうに。
部屋へ戻るたびに、フィンから借りた手巾を眺めてしまう。必ず返す約束したが、果たせないまま月日が経ってしまった。それが辛く、悲しくて……エリンはますますフィンを避けてしまう。
フィンの内心はどうなのか――彼は議会室でエリンを見て、すぐに視線を逸らした。以降は、無表情でキュアンの背後に控えている。
この場で苛立っているのは、エリンだけだろう。ラケシスとベオウルフの親しげな会話が耳へ入るたびに胸が痛む。
妹と友の仲睦まじさを暖かく見守るエルトシャンにも、エリンは歯痒さを覚えた。
穏やかに過ごすシグルドやキュアンにすら、怒りを抱く。彼らには何の罪もないのに……。
自分を見てくれないフィンを前にして、泣きそうなほどに息が苦しくなる。
早く解散してくれないか、そんな不穏なことを願ってしまう。
エリンの願いが通じてしまったのか、シルヴィアの騒動が伝達されたのはその直後だった。
即座に会談は中断され、シグルドは後処理のために退室した。キュアンも娘がぐずり出したため、エスリンと共に自室へ戻っていく。フィンもそれに従った。
エリンがそっと視線を送っても、フィンは気づかない素ぶりを取る。最後まで、彼女を見ようとはしなかった。
残ったラケシスとベオウルフ、そしてエリンが、帰国するエルトシャンとイーヴを見送った。
イーヴの妻子も別れの場にやって来ていた。幼い息子トリスタンを抱き、妻に愛を告げるイーヴ。その光景に微笑ましさを抱くと同時に、エリンは密かに羨ましさも感じた。
アグスティの城門の前で、エルトシャンはまたベオウルフに言ったのだ。
――ラケシスのことを頼む。
結局、エルトシャンはエリンに見向きもしなかった。その無関心が、何よりも冷たくエリンの胸に沁みた。
分かっているのだ。ベオウルフとエリンの実力の差も、エルトシャンとの付き合いの深さも――比べるまでもなかった。ならば、どちらに大切な妹を託すべきか……言うまでも無い。
それでも、エリンには堪えた。自分が役立たずだと言外で断定されたようなものだ。
握る拳が震えたのは怒りからか、それとも恥辱によるものか。しかし、そんな八つ当たりめいた感情を抱くこと自体がエリンが未熟である証拠だ。これを頭では冷静に理解しているからこそ彼女は苛む。
見送り後、ベオウルフに話しかけるラケシスの顔は、華やかな笑顔を浮かべている。ああ、それを向ける相手はエリンであるはずなのに。
やりきれない悔しさのせいでエリンはその日、眠れなかった。錯乱したというシルヴィアを心配する気持ちがさらにエリンの睡眠を妨げる。
結局、日が昇っても楔が打ち込まれたように、エリンの気持ちは浮き上がれなかった。
エルトシャンの来訪以来、堂々とラケシスの隣に立つベオウルフが憎らしかった。