B小町のシングルがオリコンチャートを駆け上がり、星野アイの名前が街の至る所に溢れ始めた頃。世間が彼女の「嘘」に熱狂すればするほど、事務所内でのアイの行動は、ある一人の事務員に対してのみ、より露骨で、より執拗なものへと変貌していった。
「しーおりくん。見て見て、今月の雑誌の表紙、私だよ」
苺プロの昼休み。栞がデスクで手早く弁当を食べていると、アイが当然のように彼の膝の隙間に潜り込んできた。
彼女は自分の顔が大きく写ったファッション誌を広げ、栞の顔のすぐ近くまで突きつける。
「ああ、コンビニで見かけた。いい写真じゃないか」
「感想それだけ? もっとあるでしょ! この唇のツヤが最高にエロ可愛いとか、この目に見つめられたら心臓止まるとかさ!」
アイは栞の腕を自分の首に回させ、セルフバックハグのような体勢を強制的に作る。栞の箸が止まり、彼は困ったように視線を落とした。
「仕事中だ、アイ。みんな見てる」
「いいじゃん、休憩中なんだし。それに、栞くんの反応が一番元気出るんだもん。他のスタッフさんに褒められても、右から左へ受け流しちゃうけど、栞くんの言葉だけは、ここに……ぎゅって、溜まっていくんだよ」
アイは自分の胸元を指差し、甘えるように栞の胸板に背中を預けた。
彼女の放つ「構って欲しいオーラ」は、もはや事務所の風物詩となっていた。斉藤社長は「アイのモチベーション管理」として半ば諦めていたが、それは管理という言葉で片付けられるほど生易しいものではない。
アイにとって、栞はもはや「安心できるスタッフ」の枠を超えていた。
多忙を極めるスケジュールの中で、彼女は常に栞の所在を確認していた。現場に彼がいないと、彼女の瞳からはスッと星が消え、完璧な笑顔の裏に冷酷なまでの無関心が宿る。
そして彼が現場に現れた途端、アイはまるで充電されたかのように輝き出し、隙あらば彼に触れ、自分の存在を誇示するのだ。
(……ねぇ、栞くん。君、今、私のこと『可愛い』って思ったでしょ?)
アイは、栞の脈拍がわずかに早まったのを見逃さない。
彼女は知っている。自分が栞に、自分という「毒」を少しずつ、丁寧に注ぎ込んでいることを。
自分がいなければ、この静かな事務員の日常はもっと平穏だったはずだ。けれど、もう遅い。自分という太陽に近づきすぎた彼は、もう他の光では満足できない身体になっているはずだと、アイは確信したかった。
「……アイ、顔が近い」
「近くなきゃ、私の本気、伝わらないでしょ?」
アイは栞の耳元で囁く。
だが、その唇は微かに震えていた。
(……怖い。もっと、もっと私に溺れてよ。私を特別だって証明して。私、君がいないと、明日どうやって笑えばいいか分からなくなっちゃうんだから)
自分を自分たらしめているのは、ファンからの声援でも、煌びやかなステージでもない。
この地味な事務員が向ける、呆れたような、けれど温かい視線だけだ。
それに気づいているからこそ、アイの執着は「可愛げ」の仮面を被りながら、その裏側で鋭い牙を研いでいた。
その日の午後、事態は少しだけ動き出す。
栞が外回りの仕事で、数時間ほど事務所を空けることになったのだ。
「え、栞くん、どこ行くの?」
「資料の届け物と、スタジオの下見だ。夕方には戻る」
「……私も行く」
「君はこれからボイトレだろう。仕事をしなさい」
栞がカバンを手に取ると、アイの顔から表情が消えた。
彼女は無言で栞のジャケットの袖を掴み、指が白くなるほど強く握りしめる。
「アイ?」
「……すぐ、戻る?」
「ああ、約束する」
栞がアイの頭を軽く撫でると、彼女はようやく指の力を緩めた。
だが、彼が事務所のドアを閉めた瞬間、アイはレッスン室に向かうフリをして、その場にへたり込んだ。
(一時間。たった一時間なのに、心臓が痛い)
アイは自分の両腕を抱きしめる。
溺れさせているつもりで、溺れているのは自分。
彼のいない空気に耐えられないほど、星野アイという「偶像」は、一人の男に全てを委ね始めていた。
この依存が、いつか自分たちを壊すかもしれない。
そんな予感を抱きながらも、アイは次の瞬間には、栞に送るための「自撮り写真」を選び始めていた。
「『早く帰ってこないと、浮気しちゃうぞ!』……なんてね。嘘だよ。私、君以外、誰もいらないんだもん」
送信ボタンを押すアイの瞳には、愛ゆえの狂気と、孤独ゆえの執念が、かつてないほど濃く混ざり合っていた。