その日の昼過ぎ、執務室に来たのは赤城だった。
加賀ではなく赤城が一人で来た時点で、俺は何かを察するべきだったのかもしれない。普段、定時の報告は二人で来るか、加賀が一人で来る。赤城が単独でやってくるのは珍しい。
「提督」と赤城は書類を机に置きながら、言いにくそうに切り出した。
「加賀さんのことなのですが」
筆を止めて、顔を上げる。
「今朝の演習のあと、少し顔色が悪くて。私が見ても、明らかに熱があるようでした。本人は『業務に支障はありません』と言って聞かなかったのですが……明石さんに無理を言って診てもらったところ、しばらく休むようにと」
「あいつが、それで素直に休んだのか」
「いえ」と赤城は少し困ったように笑った。
「『午後の書類を片付けてから』と言って譲りませんでした。ですから、その書類は私が預かって──加賀さんには、半ば押し込めるようにして工廠の寝台へ。明石さんが見ていてくださっています」
なるほど、と思った。加賀らしい。熱があろうと、自分の領分の任務を中途半端に放り出すという発想が、彼女にはない。風邪の一つで業務を滞らせることを、本人が誰よりも許せないのだろう。だからこそ、こうして他人が無理やり寝台に押し込めるしかなかったわけだ。
机の上には、赤城が引き取ってきたという加賀の書類が積まれている。見れば、半分ほどはすでに加賀の字で処理が済んでいた。熱を出しながら、ここまでやってから運ばれたのか。
「……報告、ご苦労」
俺は筆を置いた。
「残りはこちらで見る。お前も、午後の業務に戻ってくれ」
赤城が一礼して出ていったあと、俺はしばらく、半分だけ片付いた書類の山を眺めていた。きれいに揃った加賀の筆跡が、途中の一枚で、ふつりと途切れている。そこから先は、白紙だった。
執務の手は、止まったままだった。窓の外はまだ明るい。それから夕刻の業務をひととおり片付けて、灯りを落とすころには、もう外は暗くなっていた。
俺が工廠へ足を向けたのは、その帰りだ。
工廠の灯りはまだ落ちていなかった。明石が夜遅くまで何かをいじっているのは知っている。扉の前で足を止めて、俺はノックの仕方を少し考えた。中で眠っているはずの相手を起こさない程度の、控えめな音。指の背で、二度。
返事はない。当然だ。そっと押し開けると、油と鉄と、その下にうっすらと消毒液の匂いが沈んでいる空気が流れ出てきた。明石のいる作業区画とは衝立で仕切られた、簡素な寝台がいくつか並ぶ一角。艦娘が体を休める場所だ。普段はほとんど使われない。今日に限って、その一つが埋まっていた。
加賀だった。
掛布が、呼吸のたびにゆっくりと上下している。横たわっていると、いつも執務室で背筋を伸ばして立っているときよりも、肩の線がずいぶん頼りなく見えた。顔がほんのりと火照って、額に薄く汗が滲んでいる。眉のあたりが時折わずかに動くのは、眠りが浅いのか、それとも夢の中でも何か気を張っているのか。眠っていてなお、どこか緊張を解ききれていない寝顔だった。彼女らしい、と思って、そう思った自分をすぐに少し恥じた。風邪をひいて寝ているところまで品定めするように見るな、と。
枕元に屈む。床に膝をつくと、加賀の呼吸の音が近くなった。熱のせいだろう、いつもより速い。
──無理をさせた。
その自覚は、ずっとあった。秘書艦の仕事を、俺は加賀に任せきりにしてきた。書類の整理から出撃の編成案、他の艦娘たちへの細かな目配り、俺が見落としたものを拾い上げる役回りまで、彼女は何も言わずに引き受けた。出撃にしてもそうだ。難しい海域に、加賀がいれば安心だからと、つい名前を呼んでしまう日が何度もあった。彼女は一度も嫌な顔をしなかった。しなかったからこそ、俺はその上に甘え続けたのだ。
ケッコンカッコカリの指輪を渡したとき、加賀は何も言わなかった。ただ深く頭を下げて、それから少しだけ、ほんの少しだけ目元を緩めた。あの表情を、俺は今でもはっきりと覚えている。あれ以来、彼女が俺に向ける言葉の数は変わらないままなのに、その一つ一つの重さだけが、確かに変わった。変わったのに、俺の側はろくに労ってもこなかった。
額に滲んだ汗を、指先でそっと拭う。眠っている彼女は、それにも気づかない。
「いつも、ありがとうな」
ひとりごとのような声になった。普段なら、口が裂けても言わない。面と向かって言えば、加賀はきっと「いえ、業務ですから」とだけ返して、それで会話は終わってしまう。眠っている相手にしか言えないというのは、夫として情けない話だが。
少し迷ってから、額に唇を落とした。熱が、唇に移ってくる。彼女の体の中で今も続いている戦いの温度を、そこからもらい受けたような気がした。
さて、執務に戻るか。あとはなにがあったかな、と考えながら腰を上げかけて──動けないことに気づいた。
俺の上着の裾を、加賀の手がしっかりと掴んでいた。
「……」
眠ったままだ。指の関節が白く浮くほど、強く。寝ているのに、どうしてこんなに正確に掴めるのか。
「ごめんな、加賀」
小声で詫びて、その手をほどきにかかる。一本ずつ、指を開かせていく。ところが、開かせた端から別の指が布を捉え直す。
「く、この……いや」
少し力を込めても、手首はびくともしない。掌から伝わってくる握力は、明らかに人のそれではなかった。そういえばこいつは正規空母だった、と今さらのように思い出す。
「……力強いな!?」
声を潜めたまま、間の抜けた感心が漏れた。しばらく無言の攻防が続いたが、勝てる気がまるでしない。下手に引けば布が裂けるか、最悪、加賀が起きる。それは──なぜか、避けたかった。
衝立の向こうから、足音が近づいてきた。赤城だった。夜食でも探しに来たのか、何かを抱えている。寝台の加賀と、その手に捕らえられたまま中腰で固まっている俺を、赤城は順に見た。何か言いかけて、口を開いて──結局、その口は柔らかな笑みのかたちになった。
「……赤城。すまないが、今日の残りの執務を頼んでいいか」
「はい」と、赤城は短く答えた。それから加賀のほうへ視線を戻して、声を少し落とす。「加賀さん、このところ根を詰めていましたから。……提督がそばにいてくだされば、きっと安心して休めます」
余計なことは何も言わなかった。けれど、その一言には、彼女がすべて察したうえで黙っていることが、はっきりと滲んでいた。一礼して衝立の向こうへ消えていく背中を見送りながら、俺は自分の耳のあたりが熱くなるのを感じた。風邪はうつっていないはずだが。
仕方なく、手近にあった椅子を片手で引き寄せた。掴まれていない側の手で苦労して位置を直し、加賀の眠る寝台の脇に据えて、腰を下ろす。これでようやく、姿勢が落ち着いた。掴まれた裾は、座ったことでむしろ自然なたるみになって、加賀の手も少しだけ楽になったように見えた。
改めて、彼女を見る。
髪が解かれていた。いつものサイドテール──きっちりと結い上げられた、あの隙のない髪型がない。流れた黒髪が枕の上に広がって、ただの長い直毛になっている。それだけのことなのに、見慣れたはずの顔の印象がまるで違った。執務室で図面を睨んでいるときの、近寄りがたいほど整った横顔と、今、目の前で頬を上気させて眠っている顔とが、同じ人物のものだとうまく結びつかない。俺は意味もなく視線を彷徨わせ、結局また彼女の寝顔に戻した。落ち着かないことこの上ない。妻の寝顔ひとつでこの様か、と内心で自分を笑う。
衝立の向こうの誰かに声をかけて、適当な本を何冊か持ってきてもらった。膝の上で開く。何の本かもろくに確かめずに頁をめくったが、文字はほとんど頭に入ってこなかった。視界の端で、掴まれた裾が加賀の呼吸に合わせてかすかに引かれるのが、ずっと気になっていた。吸って、止まって、吐いて。その一定の間隔が、彼女がちゃんと眠れている証のようで、それを確かめているうちに、こちらまで呼吸が遅くなっていく。
工廠の奥で、明石の道具の音が時折鳴る。遠い。それ以外は静かだった。窓のない区画だから、外がどうなっているのかも分からない。時間の感覚が、少しずつ曖昧になっていった。
どれくらい経っただろう。
掛布が動いた。加賀の睫毛が、細かく震える。ゆっくりと瞼が持ち上がって、焦点の合わない目が、しばらく天井のあたりをさまよった。それから、緩慢に、隣へ。俺を捉えた。
「提督……?」
寝起きの、芯の抜けた声だった。普段の、よく通る低い声とはまるで違う。
目が覚めたか。そう返そうとした。口を開きかけた。
その前に。
「……ていとく……」
まだ夢の続きにいるような、舌足らずの声で、加賀の手が伸びてきた。裾を掴んでいたのとは反対の手が、迷うそぶりもなく、まっすぐ俺のほうへ。回された腕が、ぐっと引き寄せる。
「──」
抗う間もなかった。本が膝から滑り落ちる音がした。抱き込まれていた。ぎゅう、と、それこそ正規空母の馬力で。けれど、力任せという感じではなかった。どこか、縋るような。確かめるような。頬を、俺の肩のあたりに、すりすりと擦り付けてくる。熱い。熱のせいなのか、それとも別の何かなのか、その熱の出どころは分からない。
俺は身動きが取れないまま、されるに任せていた。何か言うべきだとは思った。「加賀」と名前を呼ぶことすら、できなかった。腕の中で、彼女の呼吸が、俺のシャツ越しに伝わってくる。夢の中で、こいつは俺と何をしているんだろう。きっと、普段は決して見せない顔で、何か言っているのだろう。それを起きて確かめたいような、絶対に確かめてはいけないような、妙な心持ちだった。
ほんの数秒のことだ。
加賀の動きが、ふと止まった。
「……ん……?」
腕の中の感触を、確かめるように。それが夢の景色ではなく、空気でも、枕でもなく──確かな体温と、重さと、布の手触りを持っていることに。気づいた。
次の瞬間、跳ね起きた。寝台が軋むほどの勢いで。掛布が大きくはだけ、解かれた黒髪が遅れて舞った。
夢の中で、彼女は俺と会っていたのだろう。熱でぼんやりとした頭のまま、その続きのように腕を伸ばし、それが現実に届いてしまった。指輪を渡したあの日以来、加賀がどんな夢を見ているのか、俺は知らない。知らないが、たった今、その片鱗の、さらにそのまた端のほうを、見てしまった気がした。
俺は、こらえきれずに笑った。声を出さないようにしたつもりだったが、たぶん肩が揺れていた。
「くく。可愛いところも、あるじゃないか」
加賀の顔が、見る間に赤くなっていく。元から熱で上気していたところに、別の赤が重なって、もうどこからが熱でどこからがそうでないのか、本人にも分かっていないだろう。視線が定まらず、一度俺を見て、すぐに逸らして、また戻ってくる。それから、掛布の端を両手で引き上げ、口元から下をすっぽりと覆い隠した。布の縁から、目だけがこちらを睨んでいる。睨んでいるつもりなのだろうが、潤んでいて、ちっとも怖くない。
「……忘れてください」
布の向こうで、くぐもった声がそう言った。
俺は返事をしなかった。「忘れる」と約束する気も、「忘れない」とからかい続ける気も、どちらも、なかった。ただ椅子に座り直して、床に落ちた本を拾い、膝の上で開き直す。さっきと同じ頁だった。どうせ読んではいないのだから、どこでも同じだ。
加賀は布の中から出てこない。けれど、寝台の縁を掴んだ片方の手は、しばらくして、また俺の上着の裾のあたりへ、そろそろと戻ってきた。今度は掴まなかった。掴むには近すぎる距離で、ただ、布の端に指先を触れさせたまま、止まっている。
俺はそれに気づかないふりをして、頁をめくった。
「……提督」と、布の中の声が言った。さっきより、ずっと小さい。
「机の、左の決裁箱。三日分、溜まっています」
「知ってる」
「……私が、片付けます。少し、休んだら」
俺は本から目を上げた。掛布の縁から覗いている目が、こちらを見ていた。熱で潤んでいるくせに、その奥だけは、いつもの執務室の彼女の目だった。三日分の書類の在り処を、熱でうなされながらも忘れていない。
「あれは俺が溜めたんだ。俺が片付ける」と俺は言った。
「お前が今日やるべき任務は、ちゃんと寝て、熱を下げることだ。それ以外は許可しない」
布の縁が、わずかに動いた。何か言い返そうとして、言葉を選びかねている。やがて、布の奥から、ごく短い吐息が漏れた。抗議とも、諦めとも、あるいはそのどちらでもない何かとも取れる、曖昧な音だった。それきり、加賀は何も言わなかった。指先は、まだ俺の裾の端に触れたままだった。
工廠の奥で、明石の道具がひとつ、小さく鳴った。
俺は、めくった頁の同じ行を、もう一度、はじめから読んだ。