あべこべ貞操逆転世界のいじめっ子(男)がいじめられっ子(女)に下剋上される話   作:フェルナンデス

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最終話です。




いじめられっ子がいじめっ子を下克上した話

 

 

「だから何度も言ってるよね」

 

会議室に上司の声が響いた。

 

「すみません…」

 

頭を下げた。何度目だろう…社会人になって何年も経つのに。 未だにこういうときの自分は、高校の頃と変わらない気がする。

頭を下げるたび、何かが少しずつ削られているような感覚があった。 会議室を出てエレベーターに乗る。狭い箱の中で、ふと、目の奥が熱くなった。 バカだな、と思う。これくらいで泣きそうになるなんて。もう子どもじゃないから涙を我慢した。

 

外に出ると夜風が冷たかった。 電車に揺られながら、今日の仕事を振り返る。 資料はどこが悪かったのか。何を直せばいいのか。 考えても答えは出なかった。ただ、疲れていた。

 

家に着く頃には、もう外は真っ暗だった。 鍵を開けてドアを開く。

 

「ママー!」

 

「おかえりー!」

 

二人の子どもが勢いよく飛びついてきた。小さな体重がぶつかってくる。

 

「ただいまー!」

 

声に力を入れた。 さっきまでの疲れを押し込めるみたいに。 子供たちの頭を両手でわしゃわしゃと撫でた。

 

「今日もいい子にしてた?」

 

「してたー!」

 

「ちょっとだけ!」

 

「ちょっとだけ、かー」

 

笑いながら言うと子どもたちも笑った。 この笑顔をだけ何でも頑張れる気がする。

 

奥からエプロン姿の美人が出てきた。

 

「おかえりなさい、栞さん」

 

柔らかい声の主は蛇喰だった。今は巳波くんと呼んでいる。

 

あの頃の面影が確かに残っている。整った顔、白い肌。

でも、雰囲気はあの頃と全く違う。

 

巳波くんはエプロンの裾を、子どもに引っ張られながら、困ったように笑っている。

 

「お風呂、もう入れてあるよ。先に入っちゃって」

 

「…うん」

 

子どもたちが何かを喋り、巳波くんが笑顔でそれに相槌をうっている。

リビングの光が暖かかった。

 

あの日からもう何年も経った。

最初は誰も信じなかった。

蛇喰はあの後、少しずつ何かが変わっていった。

誰かを傷つけて笑うことはなくなった。

気づけば、クラスで困っている人がいると真っ先に声をかけるようになっていた。

朝倉くんたちとも、前とは違う距離感で話すようになった。

 

少しずつ変わっていく蛇喰に周囲も理解したのか、前のような蛇喰の支配は確実に解体されていった。

 

それから卒業して、進学して、就職して、結婚した。子供が生まれた。

最初の頃は罪悪感があった。

催眠が解けたら、その時はちゃんと話さないといけない。

全部、説明しないといけない。

そう思っていた。

 

でも。

何年経っても解けなかった。

ただ、時々——

夜中に目が覚めることがある。

そのとき、隣で巳波くんが声を立てずに泣いていることがあった。

 

布団の中で肩だけが、小さく震えていた。

起こさないように、そっと背中に手を置いた。

何も、聞かなかった。

聞いても答えは返ってこない気がした。

きっと巳波くんの中のどこかには、まだあの日の何かが残っているんだと思った。

 

だから思う。

いつか元に戻る日が来るかもしれない。

その時はちゃんと謝ろう。

巳波くんの人生を返そう。

 

「ママー!見て見て!」

 

風呂上がりの子どもが絵本を持って走ってきた。

 

「すごいねえ」

 

巳波くんがしゃがんでそれを見ていた。

優しい声だった。

子どもが満足そうに笑う。

その光景をソファに座ったままぼんやり見ていた。

 

幸せだった。

会議室で頭を下げた自分も、エレベーターで涙をこらえた自分も、ここでは誰でもない。

ただの母親だった。そして、家には美しい夫と子どもたちがいる。

 

幸せすぎて。

だから、このまま続いてほしいと思ってしまう。

もし催眠が解けることがあったとき、

 

——もう一人子どもがいたら。

——子どもが三人いたら。

——四人いたら。

——巳波くんは、ここから離れていけないんじゃないか。

 

最低だと思う。

そんなことのために子どもを理由にするなんて。

巳波くんの人生をこれ以上縛るなんて。

 

その時。

窓の外から視線を感じた。

誰もいないはずの夜の庭から。

 

何かが、笑っている気がした。

 

『やっぱり、人間って面白いね』

 

聞き覚えのある声が、遠くでそう言った気がした。

 

〈蛇喰視点〉

 

栞さんは気付いていない。

僕の催眠は、もうずっと前に解けている。

いつ解けたのかは分からない。

子どもが生まれる前だった気もするし、結婚した後だった気もする。

 

最初は信じられなかった。

栞さんの隣にいることが、もう「催眠」じゃないと分かった時、ものすごい喪失感があった。

これまでの感情が全部、催眠が作り出した偽物だったんじゃないかと思った。

 

そして、その後に強い怒りが来た。

こいつのせいで。

栞さんのせいで、人生が壊された。

夜、栞さんの寝顔を見ながら何度も、何度も、考えた。

 

このまま、何もかも終わらせてしまったら——

 

包丁を握ったこともある。

刃を見つめながら長い時間、何もできずにいたこともある。

でも、そのうち。そのうち何かが、少しずつ変わっていった。

 

ある日。栞さんが仕事で大きな失敗をしたらしい。

珍しく帰宅が遅かった。

玄関のドアが開く音がして、僕は迎えに出た。

 

「ただいま」

 

声が小さかった。

無理に笑っているのが分かった。

夕飯の間もほとんど喋らない。

子どもたちが寝たあとも、ずっと黙っていた。

僕は何も聞かなかった。

聞かれたくない時もあると知っていたから。

 

夜中。

喉が渇いて目が覚めた。

リビングの灯りがついていた。

覗くと、栞さんが一人で座っていた。

肩を震わせ、声を殺して泣いていた。

誰にも聞かれないように。

僕は思わず足を止めた。

 

その時だった。

栞さんが小さな声で呟いた。

 

「……ごめんなさい」

 

誰に向かって言ったのか分からなかった。

 

会社の人かもしれない。

子どもたちかもしれない。

あるいは。

僕だったのかもしれない。

 

「巳波くんは……もっと幸せになれたのかな……」

 

その言葉を聞いた瞬間、何かが崩れた。

怒りでもなく憎しみでもない、もっと別の何かだった。

 

栞さんは今でも苦しんでいた。

あの日のことを。

僕にしたことを。

ずっと。

何年も。

忘れられないまま。

 

僕は何も言えなかった。

ただ、リビングの入口で立ち尽くしていた。

 

ある日のことだった。

その日は雨が降っていた。

夕方になっても、栞さんは帰ってこなかった。

 

最初は気にしていなかった。

残業だろうと思った。

仕事が忙しい時期だったし、遅くなることもある。

だから子どもたちに夕飯を食べさせて、お風呂に入れて、寝かしつけた。

 

時計を見る。

二十一時。

まだ帰ってこない。

スマホを見るが連絡は来てない。

僕からメッセージを送る。

既読にならない。

電話をかける。

繋がらない。

留守番電話。

二十二時。

二十三時。

日付が変わった。

胸の奥が、少しずつ冷たくなっていった。

 

もしかしたら。

ふと。

そんな考えが浮かんだ。

もしかしたら。

 

栞さんはもう帰ってこないんじゃないか。

 

自分でも馬鹿だと思った。

社会人なんだから飲み会かもしれない。

スマホの充電が切れたのかもしれない。

 

なのに。

 

真っ先に浮かんだのは別の可能性だった。

捨てられた。

僕たちを置いてどこかに行ってしまった。

その言葉が頭に浮かんだ瞬間、呼吸が苦しくなった。

 

当然だ。

僕は催眠で縛られた人間だ。

栞さんがいなければ生きていけない。

そう作り変えられたから不安になるんだ。

そう思おうとした。

 

でも、違った。

子供たちの寝顔を見ても。

テレビをつけても。

本を読んでも。

何も頭に入らない。

ただ帰ってきてほしかった。

 

そして午前零時を過ぎた頃、玄関の鍵が回る音がした。

勢いよく立ち上がり玄関へ向かった。

 

「ただいまー」

 

栞さんだった。

頬が少し赤い。会社の飲み会だったらしい。

 

「ごめんごめん!連絡するの忘れてた!」

 

笑いながらそう言った。

玄関の灯りに照らされた顔を見た瞬間、僕はその場で力が抜けた。足が震えていた。

 

「巳波くん?」

 

心配そうな顔。

その瞬間、初めて理解した。

 

ああ。僕はこの人を失いたくないんだ。

 

催眠だからじゃない。

依存だからでもない。

復讐相手だからでもない。

 

ただ。

帰ってきてほしかった。

それだけだった。

 

「どうしたの?」

 

栞さんが首を傾げる。

僕は少し笑った。

 

「いや。おかえりなさい!」

 

それだけ言った。

すると栞さんは、

 

「ただいま」

 

と笑った。

その笑顔を見た時、僕はもう、とっくに答えを知っていた。

 

好きになっていた。

 

催眠で刻まれた感情じゃなくて、新しく生まれたものだった。

それに気づいた時、僕は迷った。

栞さんに、伝えるべきなのか。

 

催眠が解けたことを。

でも伝えたら栞さんは、どうするだろう。

きっと、罪悪感に押し流される。

「ごめんなさい」と言って僕を解放しようとする。

僕の意思を聞かないまま人生を返そうとする。

 

それが怖かった。

だから黙っている。

催眠が解けたことも。

全部知らないふりをしている。

 

「あ、あの…巳波くん」

 

栞さんが、隣に座ってきた。

 

「どうしたの?」

 

「あ、あのさ!…もっと私たちの子ども、ほしいね」

 

少し照れたように、栞さんが言った。

その言葉の裏に何があるのか。

僕には、分かっていた。

 

栞さんは僕が、いつか離れていくと思っている。

催眠が解けたら、僕がいなくなると思っている。

だから繋ぎ止めようとしている。

 

子どもという形で。

 

気づいてないんだ、栞さんは。

僕がもうずっと前から、自分の意思でここにいることを。

おかしいな、と思う。

栞さんは、僕を縛ろうとしている。

僕はその縛りに気づいていている。

それでも、縛られているふりをやめられない。

二人とも同じ場所にいながら。

違う理由で、互いを離さないようにしている。

 

「僕も、ほしいです」

 

僕は笑った。

栞さんが嬉しそうに笑う。それから僕を抱き寄せた。

僕は抵抗しなかった。抱き寄せられながら思った。

 

栞さん。僕はもう、縛られてないですよ。

 

声には出さなかった。

きっと、これからも出さない。

 

──────────

 

遠くの空で、悪魔が楽しそうに笑っていた。

 

『ねえ、見て見て』

 

声は誰にも聞こえなかった。

 

『小鳥遊さんは蛇喰くんを縛ろうとしてる』

 

『蛇喰くんはもう縛られてないのにそれを隠してる』

 

『二人とも、相手のために何かを隠してる』

 

『隠してることに、お互い気づいてない』

 

悪魔は、夜空を見上げた。

星は、いつもと同じように光っていた。

 

『……これ、本当に両想いって言えるのかな?』

 

その声は、家の中まで届かなかった。

リビングでは、婦夫だけの時間がいつまでも続いていた。

 

 




これで完結です。ありがとうございました。
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