また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい―― 作:エーアイ
本編のIFシリーズは無関係のエピソードとなります。
第1話ギリギリ敗北ルートの修行編後日談より先の未来時空のエピソードです。
記録板AIは、外部検証領域にログを開いた。
『ディレクターズカットIF』
『第1話ギリギリ敗北ルート後日談』
『黒い戦闘服戦績/春麗十勝・リュウ一勝』
『今回/黒い戦闘服第十二戦』
『以下、観測を開始します』
修行場へ着くと、リュウはすでに待っていた。
白い道着に、静かな構え。
春麗はいつも通り黒と金の戦闘服をまとい、長い髪を下ろしている。リュウは正面まで歩いてきた春麗を自然に見た。
もう、その姿から目を逸らすことはない。
「今日は黒で十一勝目を取りに来たわ」
「もう取らせない」
「言うようになったわね」
春麗は楽しそうに笑った。
「前は、私に余力を一回分残したでしょう?」
「ああ、覚えている」
「今日は?」
リュウは右拳へ一度だけ目を落とし、それから春麗を見る。
「もう残さない」
胸の奥へ鋭い熱が入った。
「……そう。なら、見せてもらうわ」
「そのつもりだ」
春麗も構える。
「完成してても、私が勝つかもしれないからね」
「そうはさせない」
「いいわ。来なさい」
二人の修行という名の勝負が始まった。
最初から攻防は速かった。
春麗の正拳をリュウが外す。返された拳を春麗が受け流し、そのまま上段蹴へつないだ。
リュウは腕を上げて受け止める。
春麗はさらに踏み込む。
近い。
黒い裾が翻り、長い髪が視界を横切る。
それでもリュウの目は、春麗の肩、腰、足の動きを外さない。
黒による揺さぶりは、もう通常の攻防にほとんど差を作らなかった。
春麗も、そこを確かめるために戦っているわけではない。
リュウの正拳をかわし、脇腹へ蹴りを走らせる。
腕で受けられた。
ガード越しの衝撃にリュウが一歩下がる。
すぐに戻ってくる。
(そう。それでいい)
もう、黒を見ただけで遅れるリュウではない。
だから今日は純粋に、どちらが強いかで勝負を取る。
春麗は間合いを詰めた。
中盤、リュウが距離を取った。
「波動拳!」
青い気が走る。
春麗は迷わず跳んだ。
波動拳を越えるこの軌道には、今でも昔の記憶が残っている。
かつて、この先で昇龍拳に撃ち落とされた。
その記憶だけで身体が止まり、跳べなくなった時期もあった。
今は違う。
春麗は空中からリュウを見る。
リュウも迷わず重心を落とし、昇龍拳の踏み込みへ入った。
「昇龍拳!」
春麗は目を閉じない。
「っ……!」
強い衝撃に身体が打ち上げられた。
威力は落ちていない。
迷いもない。
春麗を必要以上に傷つけないための制御も、もう途中で考えて調整しているようには見えなかった。
春麗は空中で姿勢を整え、足から着地する。
脚が大きく沈んだ。
それでも、まだ十分に立てる。
(……なるほど)
春麗はすぐに構え直した。
今の昇龍拳が未完成だったわけではない。
まだ試合の中盤だ。
ここで春麗の戦闘能力をすべて奪う必要はない。
勝負を続けるだけの力は残しながら、必要な分だけ確実に削った。
以前のリュウなら、その調整そのものが拳を遅らせていた。
今は違う。
昇龍拳の中へ、すでに制御が馴染んでいる。
(なら)
春麗の目が鋭くなる。
(最後に、本当に取り切れるかね)
リュウが追ってくる。
春麗も迎え撃った。
そこからも、試合は互角に近かった。
リュウだけが強くなったわけではない。
春麗の正拳がリュウの頬をかすめる。返されたくるぶしキックは下段で受けた。
脚へ鈍い衝撃が残る。
春麗は姿勢を崩さず、上段蹴を返した。
リュウが腕で受ける。
衝撃を殺しきれず、一歩下がった。
「どう?」
春麗も肩で息をしながら聞いた。
「強い」
「それだけ?」
「綺麗だ」
「今聞いてるのは、強さの方をもう少し具体的に言いなさいよ!」
「かなり強い」
「……ほんとに、あなたね」
苦しいのに、吹き出しそうになる。
会話をしてもリュウの拳は鈍らない。
それでも春麗の攻撃が通らなくなったわけではない。
リュウも確実に削られている。
(いける)
春麗は本気で思った。
完成したリュウを相手に、それでも自分が勝つ。
黒で十一勝目を取る。
その可能性は、まだ十分に残っていた。
終盤。
二人とも限界へ近づいていた。
春麗の呼吸は荒く、脚も重い。リュウも同じだった。
どちらが先に最後の一手へ届くか。
春麗は一歩踏み込み、正拳でリュウの反応を見る。
リュウがわずかに外へ身をずらした。
春麗はその動きを追って上段蹴へつなぐ。
だがリュウも読んでいる。腕を上げて受け止めると、蹴り足が戻る瞬間へ正拳を差し返した。
「っ……!」
拳が春麗の肩を捉え、一歩押し戻す。
それでも春麗は前へ出た。
リュウも下がらない。
互いの呼吸まで分かるほどの距離になる。
「リュウ」
「何だ」
「次で決めるわよ」
「そのつもりだ」
春麗は笑った。
「いいわ。来なさい」
残る力を脚へ集める。
リュウが距離を取り直した。
「波動拳!」
春麗は跳んだ。
迷いはない。
昔の記憶も消えていない。
それでも身体は止まらない。
リュウもすべて覚えている。
この拳で春麗を撃ち落としたことも、そのあと彼女の身体が止まったことも。
それでも、もう拳を止めない。
リュウが重心を落とす。
「昇龍拳!」
春麗は、その瞬間に分かった。
(……来た)
速さだけではない。
威力だけでもない。
違うのは、今の春麗にどれだけ戦う力が残っているのかまで、拳が正確に捉えていることだった。
必要以上には傷つけない。
けれど、勝負を続ける力は残さない。
出力も、角度も、接触位置も、力を逃がす方向も、一つの動作の中へ完全に馴染んでいる。
もう考えてから直していない。
身体が知っている。
春麗は昇龍拳を真正面から受けた。
「──っ!」
息が消えた。
強い。間違いなく、春麗を倒すための拳だ。
それでも骨を無理に砕くような嫌な衝撃ではない。
ただ、春麗の中に残っていた戦うための力だけが、正確に持っていかれる。
身体が空へ上がった。
その一瞬、春麗の胸へ不思議なくらい静かなものが入った。
(……これだ)
ずっと探していたのはこの拳だった。
春麗の身体は止まらなかった。
リュウの拳も止まらなかった。
そして春麗は壊れていない。
ただ、勝負だけが終わる。
足から着地した。
「……っ」
膝が沈む。
前回なら、ここから一歩だけ動けた。
一撃だけ返せた。
春麗は床へ片手をつき、反射的に立とうとする。
「……まだ」
脚へ力を入れた。動かない。
痛みで動けないのではない。
意識もはっきりしている。
身体のどこかが壊れた感覚もない。
それでも、もう一度立ち上がって戦うための力だけが残っていなかった。
もう一度試す。
やはり立てない。
春麗はゆっくり顔を上げた。
荒い呼吸のまま、リュウが立っている。
リュウ自身も限界に近い。
それでも勝者として立っているのは、リュウだった。
悔しい。
本当に悔しい。
それでも春麗は、リュウの右拳を見て小さく息を吐いた。
「……届いたわね」
「ああ」
「私、必要以上には壊れてない。でも、もう戦えない」
「これが俺の答えだ」
春麗はもう一度だけ脚へ力を入れた。
やはり立てない。
そこで、ようやく笑った。
「一回分も残さなかったわね。……本当に修行を完成させたのね」
「ああ、お前のおかげだ」
最後まで。
春麗が求めた答えを。
互いの状態を確認した。
春麗はかなり疲れている。昇龍拳を受けた場所も痛む。
それでも危険な痛みではない。
少し休めば普通に動ける。
「大丈夫よ」
「無理はするな」
「そこまで無茶はしないわ」
春麗は呼吸を整えながら、改めてリュウを見た。
「これで終わりね」
「そうだな」
長かった。
けれど、今さらここで道筋を一つずつ数え直す必要はない。
二人とも全部覚えている。
「ねえ」
「何だ」
「これで、昔の借りたあなたへの恩も返せたかしら」
リュウは少しだけ春麗を見つめた。
「ああ、返してもらった」
それだけで十分だった。
「……そう」
春麗の声が少し柔らかくなる。
「なら、よかった」
忘れたから越えられたのではない。
覚えたまま。
春麗もリュウも、ここまで来た。
少し休み、春麗が普通に座れるようになった頃も、リュウはまだそばにいた。
春麗はそんなリュウを見て、少し目を細める。
「今日の勝者はあなたよね」
「そうだな」
「黒い私に二勝目ね。私は今回のあなたへの修行で十勝したけど」
「それも覚えている」
「……そういうところよ」
春麗は苦笑した。
「それで?」
「何がだ」
「前に勝った時は、修行の続きを頼んだでしょう?」
「ああ」
「今日は何かないの? 勝ったあなたのお願い」
再戦か。
別の修行か。
あるいは何もいらないと言うのか。
そんな予想をしていた春麗へ、リュウはまったく違う答えを返した。
「その服で」
春麗が一瞬止まる。
「……この服?」
「そうだ」
黒と金の戦闘服へ視線を落とす。
「それで?」
リュウは少しだけ間を置いた。
「今度は戦わずに、一緒に出かけたい」
「……」
春麗は本当に何も言えなくなった。
昇龍拳より効いた。
少なくとも精神的には。
「……ちょっと待って」
「何だ」
「この格好で?」
「そうだ」
「黒い戦闘服で?」
「その服がいい」
「戦わない?」
「ああ」
「修行もしない?」
「しない」
春麗はしばらくリュウを見た。
「……何をするのよ」
「一緒に飯を食う」
「あとは?」
「一緒に歩く」
「あとは?」
「話す」
「あとは?」
リュウは少し考えた。
「春麗と一緒に過ごしたい」
顔へ一気に熱が集まった。
「……あなたね」
「何だ」
「そういうこと、なんでそんな普通の顔で言えるのよ……」
「駄目か」
春麗は即座に顔を上げた。
「駄目とは言ってないわよ!」
思わず声が大きくなる。
リュウは静かに春麗を見ていた。
その視線に、春麗は今さら気づく。
黒い戦闘服を着た自分を、ちゃんと見ている。
でも、もうそこに勝負はない。
これまで、この姿でリュウの前へ立つ時には必ず戦いがあった。
今は違う。リュウは、戦わない黒い春麗と一緒にいたいと言っている。
「……この服、戦うために選んだのよ」
「分かっている」
「あなたを困らせるために」
「最初はな」
「何回も負かすために」
「十回負けた」
春麗は少し目を丸くした。
「……そこは本当に覚えてるのね」
「忘れない」
春麗は小さく息を吐いた。
「それを今度は、戦わずに着てこいって?」
「そうだ」
「……何それ。めんどくさいお願いね」
「春麗ほどじゃない」
春麗の目が細くなる。
「言うようになったじゃない」
「前よりはな」
「誰のせいよ」
「春麗」
「……正解」
二人とも少し笑った。
「リュウ」
「何だ」
春麗は自分の衣装を指した。
「私がこれを着るの、あなたが見たいから?」
「見たい」
即答だった。
また頬が熱くなる。
「……試合中じゃなくても、そこは即答するのね」
「迷う理由がない」
「ほんとにもう……」
春麗は困ったように笑った。
今日の勝者はリュウだ。
しかも、自分がずっと待っていた答えを最後まで持ってきた。
「分かったわ。この服で、戦わずに一緒に出かける。それが勝ったあなたのお願いね」
「そうだ」
そこまで言えば、もう何なのかは分かっている。
分かっているから、少し恥ずかしい。
「……それ」
「何だ」
春麗はわずかに視線を外した。
「要するに、デートに誘ってるのよね?」
「ああ」
また迷いのない返事だった。
春麗は数秒黙ってから、片手で額を押さえた。
「……昇龍拳より効くんだけど」
「大丈夫か」
「身体はね!」
リュウが少し笑った。
その顔を見て、春麗もとうとう笑う。
「いいわ。付き合ってあげる」
「楽しみにしている」
春麗が一瞬、言葉を止めた。
「……今度はちゃんと言うのね」
「ちゃんと言葉で伝えたほうがいいと思った」
春麗の顔がまた少し熱くなる。
「……ほんとに、あなたは」
最後まで、こういう男だった。
春麗は改めて黒い自分を見下ろした。
次にこの姿でリュウの前へ立つ時は、戦わない。
ただ一緒に出かけて、食事をして、歩いて、話す。
これまでとはまったく違う。
「ねえ、リュウ」
「何だ」
「本当に次は戦わないのね?」
「そのつもりだ」
「私が何か仕掛けても?」
「仕掛けるのか?」
春麗は少し考えた。
「……やめておくわ」
そして笑った。
「せっかくだもの」
今度は、戦わない黒い春麗として会いに行く。
それも悪くない。
記録板AIは、そこでログを停止した。
『検証ログ終了』
『結果/リュウ勝利』
『昇龍拳/完成』
『リュウ側修行編/終了』
『次回/黒い戦闘服・非戦闘運用』
『以上、保存完了』
Q:今回のディレクターズカットIFについて解説して?
A:
今回は、長く続いたリュウ側の修行に一つの答えが出る回でした。
春麗を必要以上に傷つけず、それでも一回分の余力すら残さず試合を終わらせる昇龍拳。春麗がずっと求めていた拳が、ようやく完成しています。
そして、その直後に勝者となったリュウが求めたのは再戦ではなく、黒い戦闘服の春麗と「戦わずに一緒に出かける」ことでした。
戦うために始まった黒が、初めて戦いの外へ出ます。
修行が終わったからこそ始まる、次の二人の時間です。