かぐや、誕生日おめでとう!
最終話がギリギリ間に合いました!
スランプを理由にVRChatに逃げていました。申し訳ない……。
目を覚ますと、隣にかぐやがいた。
私の布団を半分以上占領して、枕を抱き締め、私の腹の上に片足を乗せている。
寝相、悪。
あと、重い。
月人の身体が何でできているのかは知らないが、少なくとも羽毛ではないことは確からしい。
私はかぐやの足を持ち上げ、そっと布団の上へ戻した。
「んー……彩葉ぁ……」
寝言が漏れる。
かぐやの手が何かを探るように宙を彷徨う。
「ちゃんといるから」
反射的に答え、かぐやの手を握ってから、自分が何をしているんだと少し恥ずかしくなった。
そうだ、ちゃんといる。
私も、かぐやも。
昨日と同じように、私の布団を占領している。
昨日と同じように、無防備な顔で眠っている。
昨日までとは違って、もう満月を恐れる必要はない。
月人は去った。
かぐやを連れずに。
その事実に、胸の奥が再び熱くなる。
何度確かめても、現実だ。
かぐやは、ここにいる。
「……よかった」
小さく声に出した、その時だった。
「彩葉ぁ……?」
「……起きてたの?」
かぐやは目を閉じたまま、にへらと笑った。
「今起きたー」
「じゃあ、離れてくんない?寝苦しいんですけど」
「えー、起きたばっかのかぐやに冷たくないー?」
「こちとら腹に足乗せられてたのよ。重かった」
「それは、彩葉への愛の重さだからー……」
「物理的に重いのはお断り」
かぐやは不満そうに唸った。
それから布団の中でもぞもぞと方向転換し、私のすぐ隣へ顔を並べる。
近い。
「彩葉」
「なに?」
「かぐや、いるよ」
「知ってるけど」
「昨日も今日も、明日も」
「……うん」
「ずーっと一緒にいる」
「……」
重い。
でも、嫌な重さではなかった。
かぐやの言葉を嚙みしめる。
胸の奥へじわりと染み込んでいく。
私の中で張り詰め続けていたものがようやく、完全に解けた気がした。
「……お腹すいたね」
「はいはい。何食べたい?」
「んー、オムライスとか?」
「だから、あんたは朝から色々と重いってば」
「なんでー!?感動的なハッピーエンドの翌朝だよ!?思い出の料理食べて幸せを噛みしめようよー!」
「疲れてるから。食パン焼くので精一杯です」
「かぐやも手伝うからー!おーねーがーいー!」
「ああ、もう、縋りつくな!」
◇◇◇◇◇◇◇◇
結局、朝食はトーストと目玉焼きになった。
ちょうどケチャップを切らしていたため、オムライスは諦めてもらったのだ。
かぐやは不満そうにしていたが、食卓に着く頃にはすっかりケロリとしていた。
かぐやは黄身を箸で潰しながら、鼻歌を歌っている。
先ほどまで、私が朝食を作りながら音楽プレーヤーで流していたヤチヨの『Remember』だ。
「ご機嫌ね」
「そりゃそうでしょー。月に帰らなくてよくなったし、彩葉とずっと一緒にいられるし、ご飯もおいしいってもんよ!オムライスじゃないのは残念だけど」
「あんたの頭はオムライスに支配されてんの?」
「オムライス、配信、歌、そして、彩葉に支配されてるー」
「……よくもまあ、そんな恥ずかしい台詞を朝から」
私は、じとりとかぐやを睨みつけながら、赤くなった頬を誤魔化すようにマグカップを口へ運んだ。
安いインスタントコーヒー。
いつもと同じ味。
ああ、日常のありがたみってこういうことなんだな。
かぐやが目玉焼きを食べ終え、皿に残った黄身を指で拭って口へ運ぶ。
食べ方。
注意しようとして、やめた。
今日くらいはいいか。
いや、昨日もそう思った気がする。
このままでは毎日が「今日くらいは」になって、かぐやの生活態度が永遠に改善されない可能性がある。
明日から。
明日からは厳しくしよう。
「ねえ、彩葉」
「なに?」
「気になることがあるんだけどさー」
かぐやは残った食パンを口へ放り込んだ。
「月人たち、なんでかぐやを置いて帰ったんだろう?」
私は、マグカップを口元で止めた。
「……どういう意味?」
「だって、かぐやを迎えに来たんだよー?」
「うん」
「でも、かぐやはまだここにいる」
かぐやは両手を広げ、自分の存在を主張した。
それは見ればわかる。
「月人ってさ。諦めて帰るとか、そういう思考する存在じゃないんだよね。あ、かぐやは例外だけど」
その言葉で、昨日の光景が蘇る。
ヤチヨが、かぐやと月人の間へ割って入った瞬間。
月人は攻撃の手を止めた。
ヤチヨへ首を垂れた。
そして、そんな月人へヤチヨはこう告げた。
――ヤッチョからの贈り物は気に入ってくれたかな〜?
あの時の私は、かぐやを失わずに済んだという事実だけで頭がいっぱいだった。
月人が去った。
かぐやが帰らなかった。
それだけがすべてで、何も考えられなくなっていた。
だから、あの時は欠片ほども抱かなかった疑問が、今になって次々と浮かんでくる。
「手ぶらじゃない」
「ほえ?」
「月人は、手ぶらで帰ったんじゃない」
かぐやがマグカップを持ち上げたまま首を傾げた。
「ヤチヨは月人に言ってた。贈り物は気に入ったか、って」
「んー?言ってたような、言ってなかったような……」
「あんたが一番近くで聞いてたはずでしょうが」
「ヴェー、よく覚えてんねー」
「推しの言葉だから。あの時のヤチヨ、超カッコ良かったし」
「ちょっとだけ、わかるようになってきたのが悔しいー」
かぐやもあの瞬間のヤチヨの凛々しい立ち姿を思い出しているのか、少しだけ顔が赤い。
そういえばあの時、かぐやはヤチヨの背中にかばわれていた。
物語のヒロインばりの惚け顔をしていた気がする。
羨ましい。
私も守られたい。
いかんいかん。
今は、そういう話じゃない。
「月人の目的は、かぐやを月へ連れ帰ることだった」
「うん」
「あいつらにとって、かぐやを連れ帰ることはいわば役割……プログラムみたいなもの、なんだと思う」
「うん、そうだよ。月人はプログラムみたいなもの。というか、よくわかったね。かぐや詳しいことは何も教えてないのに……」
「うん。ゲームのNPCみたいな動きだったから、そんな感じだと思ってた。で、そんな月人たちが、ヤチヨから何かを受け取った途端に素直に撤退した」
頭の中で、順番に並べる。
事実と推測を混ぜないように。
一つずつ。
「つまり、月人は目的を果たしたってこと」
「……えーと。でも、かぐやはここにいるよ?」
「だから」
口に出した瞬間、背筋が少し寒くなった。
「ヤチヨが、かぐやの代わりになる何かを月人へ渡した……んだと思う」
かぐやが目を丸くする。
「かぐやの、代わりー……?」
「少なくとも月人が、かぐやを連れ帰ったと認識できる何か」
「偽物ってことー?」
「……詳しくはわからないけど」
「ヴェー、それって、ヤチヨが作ったってこと?」
「状況からして、おそらく……」
情報が足りない。
ヤチヨは。
なぜ、どうやって、何を。
わからない。
けれど、現状で唯一、綺麗に辻褄が合う推測だ。
月人は、かぐやを連れ帰った。
だから、もう地球へ迎えには来ない。
それは、本物のかぐやではなく。
ヤチヨが用意した、月人たちがかぐやだと認識できる何かを。
「でもさー」
かぐやはパンの最後の一欠片を口へ放り込んだ。
「なんでヤチヨが、かぐやの代わりなんて作れんのー?」
「……そこなのよね」
月人を騙せるほど、かぐやと同じ何か。
外見だけ似せれば済むとは思えない。
姿形を似せただけの人形を渡して、はいそうですかと帰るような相手ではないだろう。
もっと根本的な部分。
かぐやを、かぐやたらしめている何か。
かぐやの役割を遂行できる何かまで、再現する必要がある。
ヤチヨは、どうやってそれを?
かぐやが食器を台所へ運びながら、再び『Remember』を口ずさみ始めた。
しかも、かなりアレンジが入っている。
決して悪くはないが、これだとほとんど。
あれ。
「……ねえ、かぐや」
「んー?」
「ちょっと『Reply』、歌ってみて」
「え?いいけど」
かぐやはなぜかポーズを決めた。
「朝からフルライブバージョンでお届けしまーす!」
「鼻歌でいい」
「えー」
不満げに頬を膨らませながら、かぐやは歌い始めた。
かぐやを地球へ繋ぎ止めた歌。
私が父と作り、かぐやのために手直しした曲。
サビへ入る。
聞き慣れた旋律。
『Remember』。
ヤチヨのデビュー曲と、同じメロディー。
私が無意識に寄せた?
違う、時系列が合わない。
少なくとも『Reply』の原型を父と作ったのはヤチヨに出会う前だ。
ヤチヨがデビューする遥か前。
「ストップ」
「まだ一番も終わってないよ?」
「十分」
「採点は?」
「百点」
「ひゃふー!」
テンション高く食器を洗い始めたかぐやを横目に、スマートフォンを操作する。
『Remember』を再生した。
部屋に、ヤチヨの歌声が流れる。
同じだ。
何度聞いても同じ。
コードも、アレンジも、歌詞も違う。
でも、曲の根にある旋律は、間違いなく同じものだった。
「このメロディーは、お父さんと私が作ったの」
「うん」
「ヤチヨがデビューするよりも前の話」
「うんうん」
「ネットにも公開してない。完成もしてなかった。知ってるのは、お父さんと私だけ」
「じゃあ、ヤチヨはどうやって知ったの?」
「わからない」
わからない。
でも、知らなかったはずがない。
偶然、同じ旋律が生まれた。
その可能性はある。
音階の組み合わせは有限だ。
似た曲なんて世の中にはいくらでも溢れている。
けれど、私は『Remember』に救われた。
その旋律を子守唄にして、赤ん坊のかぐやを寝かしつけた。
その旋律に導かれるように、かぐやへ『Reply』を贈った。
あまりにも出来すぎてはいないか。
それだけではない。
「チヤさんのことも」
「チヤー?」
「思い返すと、おかしいことが多すぎる」
かぐやを拾った直後。
チヤさんは、すぐに物資を送ってきた。
赤ん坊を拾ったと相談したのだから、普通なら、ベビーベッド、粉ミルク、オムツ、ベビーフードを送るところだ。
けれど届いたのは、普通の布団と、レトルト食品と、すぐに成長した後でも使える物ばかり。
まるで、かぐやが数日で大きくなることを見越していたように。
かぐやがヤチヨを見て、ツクヨミへ行きたいと言い出した直後には、スマコンが届いた。
何もかものタイミングがよすぎる。
「チヤさん、かぐやのこと驚かなかった」
「あー、確かに。いい人だよねー!かぐや、チヤのこと彩葉の次に好きー!」
「普通は信じないから」
「彩葉は信じたじゃん」
「私の場合、あんたと直接関わったから信じざるを得なかっただけ」
それでも、かなり時間はかかった。
今でも、現実逃避したくなることはある。
それに。
「チヤさんは、かぐやの名前を知ってた。私、今思い返してみても、チヤさんに話した覚えがない」
初めて、かぐや用のスマコンが届いた時。
チヤさんは、当然のように「かぐやちゃん」と呼んだ。
私は伝えたのだろうか。
あの時は混乱していた。
もしかしたら、本当に私が話して、忘れているだけかもしれない。
でも、あの一瞬の沈黙。
誤魔化すような笑い方。
ずっと、引っ掛かっていた。
「ヤチヨは、お父さんと私しか知らないはずのメロディーを知ってた」
指を一本立てる。
「チヤさんは、まるで私とかぐやにこれから起きることを知ってるように動いてた」
もう一本。
「ヤチヨとチヤさんの関係」
「プロデューサーでしょ?かぐやと彩葉みたいなもんでしょー?」
「初期の配信で、ヤチヨはセルフプロデュースだって言ってた」
「セルフ……?」
「自分で自分をプロデュースしてるってこと」
「じゃあ、チヤいらないじゃん」
「言い方」
でも、その通りだった。
途中からプロデューサーを雇った。
何らおかしくはない。
会社との窓口が必要になった。
活動規模が大きくなった。
理由はいくらでも考えられる。
でも。
コラボライブ前。
私は初めて、演者としてヤチヨとまともに話した。
最初は、当然緊張した。
推しが目の前にいる。
呼吸の仕方がわからなくなった。
目が合っただけで死ぬかと思った。
実際、ちょっと死んだ。
けれど、話しているうちに、不思議なくらい肩の力が抜けていった。
言葉の選び方。
間の取り方。
こちらが言葉に詰まる直前に、逃げ道を作る軽い冗談。
チヤさんと話しているようだった。
「いやいや、流石に考えすぎ……だよね」
「彩葉ー?」
「あー、情報が足りないッ。思い出せ、もっと決定的な、何かが……」
自分に言い聞かせるように答えた。
推測と事実を混ぜるな。
確実なのは。
ヤチヨが、かぐやの代わりを月人へ差し出した。
ヤチヨは、私しか知らないはずの旋律を知っていた。
チヤさんは、かぐやの未来を知っていたように動いていた。
二人は、深く繋がっている。
それだけだ。
そして、最大の疑問。
「なんで……?」
「なにがー?」
「なんで、ヤチヨがそこまでするの?」
私とかぐやを助けるために。
月人さえ騙せる何かを作って。
何のために。
「うーん」
かぐやは腕を組み、唸った。
五秒。
十秒。
「わかんない!」
「早い」
「だって、わかんないもん!」
かぐやはテーブルを叩き、立ち上がった。
「わかんないから、本人に聞こうよ!」
「本人って」
「ヤチヨ!」
「簡単に会える相手じゃないから」
「会ったじゃん。昨日」
「昨日はライブだったから」
「連絡先交換したじゃん」
「無理、こっちから推しに連絡なんて」
前回のはノーカン!ノーカンだから!
緊急事態で仕方がなかっただけだから!
「うわ、めんどくさ。なら、チヤに連絡すればいいじゃーん!」
私は口を閉じた。
そうだ。
チヤさん。
ヤチヨのプロデューサー。
彼女を通して、話を聞くことができればあるいは。
「……聞いてみよう」
「突撃、真相インタビュー!」
「配信はしないからね」
「かぐやのこと何だと思ってんの?」
私はスマートフォンを手に取った。
メッセージアプリから、チヤさんのアカウントを開く。
通話ボタンの上で、指が止まる。
何を聞くべきか?
チヤさんとヤチヨは何を知っていたんですか。
月人に何を渡したんですか。
どうして、私たちを助けてくれたんですか。
思考がまとまらないまま、通話ボタンを押した。
一秒。
二秒。
いつもなら、一秒も待たずに繋がる。
三秒。
四秒。
『……はいはーい』
繋がった。
画面に映ったチヤさんは、いつもと同じ姿だった。
銀色がかった髪。
ピンクのメッシュ。
ダボっとしたパーカ。
ただ、どこか動きが鈍い。
映像が一瞬だけ乱れた。
『どうしたの、彩葉ちゃん』
「チヤさん。今、大丈夫ですか?」
『うん。まあ……ちょっとだけなら』
声にも、普段にはない疲れが混じっている。
聞きづらい。
でも、今聞かなければ、また飲み込んでしまう気がした。
「聞きたいことがあります」
『うん』
「ヤチヨは、月人に何を渡したんですか?」
画面の向こうで、チヤさんが止まった。
通信が固まったのかと思った。
けれど、背景では髪の先が揺れている。
チヤさん本人だけが、動きを止めていた。
『……ごめん、何の話かな~?』
「昨日、ヤチヨは月人に言いました。贈り物は気に入ったか、って」
『ああ……。あれ聞かれてんだぁ……。恥ずっ……』
「月人たちは、かぐやを置いて帰った。目的を果たさずに帰るとは思えないんです」
チヤさんは何も言わない。
「ヤチヨは、かぐやの代わりになる何かを渡したんですよね」
『彩葉ちゃん』
「もう一つあります」
止められる前に続けた。
「『Remember』は、どういう経緯で生まれた曲なんですか?」
チヤさんの目が、わずかに見開かれた。
当たりだ。
少なくとも、私が見当違いな質問をしていないことは確信した。
「チヤさんは、知ってるんですよね」
『……』
「ヤチヨが何者なのか」
長い沈黙。
チヤさんは、困ったように笑った。
ひどく寂しそうな笑顔だった。
『あー、まずい。時間が……。ごめんね、彩葉ちゃん』
「何がですか」
『今、ちょっと手が離せなくて~』
また映像が乱れた。
『また後でかけ直すね~!』
「待ってください!」
『後で、ちゃんと――』
通信が切れた。
画面には、通話終了の文字。
私はしばらく、スマートフォンを握ったまま動けなかった。
「切られた?」
かぐやが画面を覗き込む。
「切られた」
「怪しーい」
「うん」
少なくとも、何も知らない人の反応ではなかった。
でも。
あの最後の顔。
逃げたというより、本当に何かが起きているようにも見えた。
繋がるかは望み薄だが、再び通話をかけようとした、その時だった。
視界の端に、見覚えのあるウミウシが現れた。
いつの間にかスマコンのARモードが起動していた。
『まったく、嫌な役回りだな』
「FUSHI?」
「あー、FUSHIだー!」
『ついてこい』
FUSHIが身を翻した。
同時に、スマコンの視界へ矢印が表示される。
現実の道路へ重なる、青白いナビゲーション。
「どこに?」
『ヤチヨのところだ』
胸が跳ねた。
「……会えるの?」
『着いてくればわかる』
FUSHIは、そこで一度言葉を切った。
『ただし、相応の覚悟はしておけ』
◇◇◇◇◇◇◇◇
案内されたのは、古びたアパートだった。
外壁には細い亀裂。
錆びた階段。
郵便受けのいくつかには、ガムテープが貼られている。
「……え?ここにヤチヨが?」
「意外と庶民派ー」
「庶民派というか……」
人が住んでいる気配がない。
「誰もいないぞ。建物丸々買い上げているからな」
FUSHIの指示に従い、二階の一番奥まで進む。
ドアの前で、スマコンに認証画面が浮かんだ。
私もかぐやも、何も入力していない。
勝手に鍵が開いた。
『入れ』
ドアを開けた。
冷たい風が吹きつけてきた。
室内は暗い。
無数のランプだけが、赤や青に点滅している。
壁一面を埋める機械。
床を這う太いケーブル。
ファンの回転音。
冷却装置の低い唸り。
生活するための部屋ではなかった。
ベッドがない。
テーブルもない。
冷蔵庫も、食器も、衣服もない。
誰かが眠る場所も。
誰かとご飯を食べる場所も。
この部屋には、誰かが生きるための物が、一つもなかった。
「サーバールーム……?」
部屋の奥へ進む。
機械の列の向こう。
半透明のカプセルがあった。
淡く発光する液体。
その中に、小さな竹のような物が沈んでいる。
「これ……」
かぐやが近づく。
「もと光る竹」
『ああ』
「ねぇ。なんで、ヤチヨがこれ持ってんのー?」
FUSHIは答えない。
「ヤチヨも月人ってことー?」
『お前たちの目で確かめろ』
「……確かめろって、どうやって」
空中へ、細い光の線が走った。
何本もの線が絡み合い、やがて一つの扉を形作る。
『ヤチヨは今、活動限界によるスリープ状態に入っている』
「スリープ?」
『八時間、ヤチヨは眠りから目覚めない』
「……なら、チヤさんは?」
『それも』
「自分の目で確かめろって?」
『……』
「これ、何?」
私は光の扉を見上げた。
『記憶ログへの入口だ』
「勝手に見ていいものなの?」
『これは、ヤチヨが誰にも見せるつもりのなかったものだ』
「じゃあ、どうして」
『お前たちには、知る権利がある』
FUSHIはこちらを見た。
『だが、知ってしまえば後戻りはできない』
FUSHIの声が、鋭くなる。
『覚悟がなければ、今すぐ回れ右だ』
『何も知らなかったことにして、今まで通りの日常へ戻るといい』
『月人は去った。かぐやは地球に残った』
『お前たちは、もうハッピーエンドを手に入れている』
その通りだ。
かぐやはここにいる。
私たちは、望んだ未来を手に入れた。
ここで引き返しても、何も知らなくても、きっと幸せに生きていける。
でも。
「見る」
かぐやが即答した。
「難しいことは全然わかんないけど」
かぐやが私の手を握った。
「ヤチヨのこと、知りたい」
私は、その手を握り返す。
怖くないわけではない。
むしろ、怖い。
この扉の向こうには、今の幸福を壊すものがあるかもしれない。
それでも。
「見せて」
FUSHIは何も言わなかった。
止めもしなかった。
ただ、私たちが自分の意思で扉へ触れるまで、黙って見守っていた。
二人で、扉を開いた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
そこにあったのは、かぐやが月へ帰った未来。
私たちの奮闘むなしく、月に帰ったかぐや。
月での業務に勤しむかぐや。
そこへ、歌が届く。
『Reply』。
私の歌。
かぐやは、月を飛び出した。
私に再び会うために。
そして、八千年前の地球へ落ちた。
身体がない。
声がない。
世界に触れられない。
あるのは、小さなウミウシの身体を得た犬DOGEと、壊れたもと光る竹。
朝が来る。
夜が来る。
人が生まれる。
人が死ぬ。
何千回も。
何万回も。
そのたびに、かぐやは私を思い出した。
一緒に、ハッピーエンドまで行くために。
そして、夜が積み重なるたびに、約束の形が少しずつ変わっていった。
「一緒に、ハッピーエンドまで行く」
そこから最初に失われたのは、「一緒に」だった。
かぐやの中に最後に残ったものは。
彩葉を、ハッピーエンドまで連れていく。
硬くて、痛くて、折れない決意。
かぐやを生かすための、呪いじみた何か。
「ぁ……」
声が漏れた。
でも、ログは止まらない。
父がいなくなる未来があった。
幼い私が泣く未来があった。
私が音楽を手放す未来があった。
八千の夜を越えて。
ヤチヨを名乗るようになったかぐやが、私の運命に干渉する。
父が生き残る未来ができた。
私が笑う未来ができた。
私が音楽を続ける未来ができた。
その笑顔を見たヤチヨが、満足そうに笑った。
輪廻は変えられるのだと。
心底満足そうに。
それから。
私が育っていく。
ヤチヨは、ずっと私を見守っていた。
学校へ行く私。
母に叱られ、部屋で泣く私。
父と音楽を作る私。
チヤを名乗り、私に近づき。
ヤチヨの歌と出会わせる。
上京する道を作る。
仕事を用意する。
部屋を用意する。
「は?」
チヤさんが、ヤチヨだった……?
衝撃から立ち直る暇もなく、ログは進む。
ヤチヨはかぐやを拾った私を、ノートPCのカメラ越しに見ている。
赤ん坊を抱いて途方に暮れる私を見て、おろおろしている。
私がチヤへ助けを求めた時。
画面の向こうで平静を装いながら、安堵のため息を吐いている。
「……うわっ」
隣では、先ほどまですすり泣いていたかぐやが思わずといった声を上げる。
うん。色々と救われていることは確かだが。
正直、私もドン引きだ。
私の人生の大筋はヤチヨの手の上にあった。
ヤチヨはすべてを見守っていた。
泣いたところも。
眠ったところも。
食事も。
会話も。
誰にも見られたくなかったところまで。
見守っていたというか、これ。
私の推しが、私のストーカーだった。
喜べばいいのか、引けばいいのか。
たぶん両方だった。
方法は最悪だが、私は、確かにヤチヨに愛されていた。
場面は、月人たちとの決戦へと移る。
月見ヤチヨ《かぐや型》。
ヤチヨ自身の複製体。
かぐやという月の姫の代替品。
ヤチヨ自身もかぐやだからこそ取れた手段。
ヤチヨは、それを月人へと差し出した。
本物のかぐやを、私の隣へ残すために。
月人が撤退する。
かぐやが泣く。
私が、かぐやを抱き締める。
その姿を、ヤチヨは少し離れた場所から見ていた。
憑き物が落ちたような、すっきりした顔で。
でも、どこか寂し気な笑みで。
ヤチヨの感情が、私の中へ流れ込んでくる。
彩葉が笑っている。
かぐやが隣にいる。
最高のハッピーエンドだ。
これ以上、何を望むことがあるだろう。
ヤチヨは、そう確信していた。
ログが終わる。
私は床に膝をついていた。
涙で視界が滲んでいる。
息がうまく吸えない。
父が生きていること。
私が東京へ来られたこと。
かぐやと出会ったこと。
音楽を続けられたこと。
全部。
全部、ヤチヨが。
「……」
声にならなかった。
隣ではかぐやが静かに泣いていた。
私の胸にあったのは、悲しみだけではなかった。
腹の底が、煮えたぎっている。
「ふざけんな……」
拳を床へ叩きつけた。
「ヤチヨがかぐやなら、ヤチヨもハッピーエンドにならなきゃ意味ないでしょうが!」
自分を勘定に入れていないヤチヨに怒りがわく。
勝手に全部背負って。
勝手に役目を終えたつもりになって。
私たちが笑っていれば、それでいい?
「私のハッピーエンドを、勝手に決めつけるな!」
「そうだよ」
かぐやも立ち上がった。
「『一緒に』って、言った」
涙を腕で乱暴に拭う。
現実でどれほど時間が経ったのか、もうわからなかった。
FUSHIが静かに告げる。
『ヤチヨのスリープ終了まで、あと五分だ。どうする?』
私は立ち上がった。
かぐやも立ち上がる。
「「ヤチヨはどこ?」」
◇◇◇◇◇◇◇◇
ツクヨミ。
ヤチヨのマイルーム。
私たちは、部屋の中央で並んで待った。
あと十秒。
九。
八。
七。
かぐやが指を鳴らしている。
六。
五。
四。
私は両手を握り締めた。
三。
二。
一。
部屋の中央へ、光が集まる。
銀青色の髪。
海洋生物を思わせる衣装。
月見ヤチヨが、何も知らない顔で現れた。
「いやー、よく寝た~☆」
大きく伸びをする。
「今日も元気にツクヨミを管理しつつ、彩葉を見守って――」
ヤチヨがこちらを見て、固まった。
「ヤチヨ、おはー!」
「よく眠れた、ヤチヨ?それとも"かぐや"って呼んだ方がいい?」
「………………ぅぇ?なんで?」
視線が、私とかぐやと、その後ろにいるFUSHIを順番に巡った。
「FUSHI?」
『観念することだな。これまでのツケを払う時だ』
ヤチヨの視線が私に戻る。
「ひぅっ……!?」
ヤチヨの顔が引きつった。
ようやく状況を吞み込めたらしい。
「あ、あはは~☆」
ヤチヨは笑った。
いつもの、軽い笑い方。
でも、声が震えている。
「そっかぁ……」
視線を逸らす。
「全部バレちゃったかぁ~……」
「ヤチヨ」
「ごめんね~、彩葉。気持ち悪いよね~」
笑ったまま、ヤチヨが言う。
ヤチヨの顔は酷く青ざめている。
「自分の人生が全部、誰かの手の上にあったなんてさ~」
正直に言えば、少し思った。
思わない方が不思議だ。
でも。
「あ、謝ってどうこうなることじゃないけど。本当にごめんね!で、でも安心して!」
「待って」
「こうしてバレちゃったからには、もう二度と、彩葉の前には現れないし」
「ヤチヨ」
「彩葉が望むなら、わたしはこの世界から消えたって構わn――」
最後まで言わせる気はなかった。
身体が先に動いていた。
「うえっ!?」
勢いのまま、私はヤチヨを床へ押し倒す。
ヤチヨの銀青色の髪が、扇のように広がる。
ヤチヨは目を丸くして、私を見上げていた。
「勝手なこと言わないで」
声が震えた。
怒りで。
悲しみで。
「ぁっ……ごめん」
ヤチヨの顔が歪む。
「怒るよね。監視とか、誘導とか、ご家族のこととか散々、好き勝手に干渉しt――」
「そこじゃない!」
ヤチヨが口を閉じた。
「気持ち悪いかどうかは、私が決める!」
「……彩葉」
「許すかどうかも!これからも会うかどうかも!だから、勝手に消えようとしないで!」
涙が落ちた。
ヤチヨの頬へ。
「全部、私が決める!」
ヤチヨの目が揺れる。
「私の人生を勝手に動かして、私の気持ちまで勝手に決めるな!」
「でも」
「でも、じゃない!」
ヤチヨは、どこまでも弱弱しい声で言った。
「彩葉は優しいから、そう言うよね」
「違う。優しくなんかない」
「これ以上、私が彩葉に関わるのは――」
私はヤチヨの胸倉を掴み。
唇が触れそうな距離にまで顔を近づけた。
「それ以上、喋ると口塞ぐわよ」
「なにで⁉」
私はヤチヨから手を離して、立ち上がる。
「謝らなくていい。これまでの人生がヤチヨの敷いたレールだったっていうんなら、ここから先は、私が私の人生を歩けばいいだけ」
「……ありがとう、ヤチヨ。私を守ってくれて。そして、今度は私の番」
「ぇ?彩葉……?」
私はツクヨミからログアウトする。
視界がアパートの一室に戻る。
そこには、同じくログアウトして、こちらを心配そうに見ているかぐやと。
スマコンのAR表示に、遅れてヤチヨの姿が浮かび上がった。
普段着のような緩い格好で、髪をおろしている。
推しの部屋着姿が最高で。
違う、冷静になれ酒寄彩葉。
ヤチヨの瞳は不安に揺れていた。
私はスマートフォンを取り出した。
「そこで見てて」
「え?」
連絡先を開く。
何年経っても、通話ボタンに触れるだけで緊張する相手。
発信。
すぐに繋がった。
『どないしたん、急に』
「お母さん」
一度、息を吸った。
手が震えている。
怖い。
それでも、ヤチヨから目を逸らさなかった。
「私、音楽の道には進まへん」
『……は?』
「他にやりたいことができた」
『は?』
「ヤチヨの身体を作る」
『……は?』
三回目。
予想通りすぎて、少しだけ笑いそうになった。
『ちょっと待ち。何の話や?』
「私の人生の話」
目の前で、ヤチヨが息を呑んだ。
「今は詳しく説明できへん」
『……』
「でも、もう決めたことやから」
『決めたって、あんた。進路の話やろ?音楽やる言うて東京まで――』
「別に音楽はやめへんよ。音楽よりもやりたいことができただけ」
言葉を被せた。
母の話を遮った。
今までの私なら、絶対にできなかった。
「今日は説得のために電話したんやない」
母が黙った。
「反対されても、私の意志は変わらへん」
言った。
ついに、言った。
「これは相談やなくて、宣言」
『……』
「詳しいことは、年末に帰省した時に話す。お父さんにも」
『……年末まで待て言うんか?』
「うん」
『うん、やない。ちょっと待ち――』
「用事はそれだけやから」
『彩———』
通話を切った。
そのままスマホの電源を落とした。
静寂。
心臓の音だけが、うるさい。
スマートフォンを握る手が、震えている。
怖かった。
今すぐ掛け直して謝りたい。
母の機嫌を損ねたかもしれない。
怒らせたかもしれない。
次に何を言われるかもわからない。
それでも。
不思議なくらい、息がしやすかった。
「聞いたでしょ」
ヤチヨを見る。
ヤチヨは、床へ座り込んだまま、呆然としていた。
「ここから先の私の人生は」
一歩、近づく。
「もうヤチヨの手の上じゃない」
もう一歩。
ヤチヨの前に立つ。
「私が私の意志で決めて、進む」
「彩葉……」
手を差し出す。
「ヤチヨの身体を作る」
ヤチヨは、手を取らない。
「ヤチヨが『一緒に』を忘れても関係ない」
「今度は私が、ヤチヨをハッピーエンドまで連れていく」
「でも、ヤッチョなんかのために、彩葉の人生を――」
「私の人生をどう使うかは、私が決める」
ヤチヨの言葉を叩き落とした。
私は。
何がしたい?
音楽を続けたい。
かぐやと一緒にいたい。
そして。
「ヤチヨと生きる人生を、私は選ぶ」
「ヤチヨとしても、チヤさんとしても、私のそばにいてほしい」
画面越しではなく。
同じ部屋で。
同じテーブルを囲んで。
同じ物を食べて。
触れて。
抱き締めて。
「私が、そうしたいと思ったから」
ヤチヨの瞳から、涙が零れた。
「これがたぶん、私が本当の意味で初めて自分で決める、私のやりたいこと」
私は手を伸ばしたまま、待った。
「だからもう、私の人生を理由にして逃げないで」
「そうだそうだー!」
かぐやが割って入ってくる。
「ハッピーエンドには、三人で行かなきゃー!」
ヤチヨへ、もう一度手を差し出す。
今度はかぐやもヤチヨへと手を伸ばした。
「今度は私たちが、ヤチヨをハッピーエンドまで連れていく」
ヤチヨは泣きじゃくっていた。
まるで子供みたいに。
声を殺すこともできずに、泣いていた。
「わたしも……」
手が伸ばされる。
迷いながら。
恐る恐る。
私の手へ重なる。
「……一緒に。行っていい、のかな……?」
「当然」
「あったり前じゃん!」
かぐやが、その上から手を重ねた。
三人分。
「絶対に、置いていかないから」
ヤチヨの手は、仮想の身体なのに、温かい気がした。
私の人生は。
母に認められるためにあるのではない。
父の夢を継ぐためだけにあるのでもない。
ヤチヨに、チヤさんに用意された道を歩くためにあるのでもない。
かぐやに引っ張られるだけでもない。
私が欲しい未来を。
私が選んで。
私の手で作る。
私たちのハッピーエンドを。
そして、ハッピーエンドのその先を。
たぶん。
私の人生は、この瞬間にようやく始まったのだ。
一旦、本編はここまで。
お付き合いいただきありがとうございました。
とはいえ、"イチャイチャ"とか"ハッピーエンドを強制接種させられるヤチヨ"とか全然書けてないし、色々と回収できてない要素もあるので、後日談を書いていく予定です。投稿がいつになるかはわかりませんが、気ままに書いていきます。
タイトルのインパクトが弱くて伸びにくい、序盤の一話一話の文章量で多くの脱落者を出す、何故か前話が最新話に上書きされること複数回、と様々失敗をやらかした作品でしたが、ひとまずの完結を迎えさせていただきます。
あらためまして、ここまでお付き合いいただきありがとうございました!