ただ少しだけ休んでいった、名もなき出会いの記憶。
潮風は、いつも少しだけ冷たい。
海から吹き込む風は塩の匂いを含み、崩れかけた石壁の隙間を抜けながら、静かな音を立てていた。
タブナジア。
閉ざされた港。
忘れられた土地。
けれどウルミアにとっては、ここは帰る場所だった。
薄暗い回廊を抜け、小さな広場へ出る。
空は曇っていた。けれど、雲の切れ間から差し込む光が、海面を銀色に揺らしている。
プリッシュはまだ戻らない。
待つことには慣れていた。
ウルミアは古びた石段へ腰を下ろし、小さく息を吐く。
それから静かに、歌い始めた。
誰かに聴かせるためではない。
ただ、自分の心が静かでいられるように。
歌は風へ溶け、崩れた街並みを抜け、遠い海へ流れていく。
タブナジアでは、音は不思議と遠くまで届く気がした。
まるで、失われたものたちが、どこかでまだ耳を澄ませているかのように。
――石の記憶。
幼い頃から歌い続けてきた歌。
失われたもの。
忘れられた願い。
それでも誰かの中へ残っていく想い。
そんなものを抱きしめるような歌だった。
歌っている途中だった。
不意に。
背後で、小さく石を踏む音がした。
ウルミアが振り返る。
そこには、大きなガルカが立っていた。
旅装は擦り切れ、肩には長旅の埃が積もっている。
腰には刀。
けれど、その姿には奇妙な威圧感がなかった。
どちらかといえば。
長い旅路の果てで、少しだけ休む場所を探しているような。
そんな空気を纏っていた。
ガルカは少しだけ気まずそうに視線を逸らし、それから低い声で言った。
「……久しぶりに、人の声を聞いたのでな。よかったら、もう少し聞かせてくれないか」
ウルミアは目を瞬かせる。
不思議な言葉だった。
歌を褒めるでもなく。名を尋ねるでもなく。
ただ、人の声を聴いた、と。
それだけを言った。
けれど、その言葉は妙に心へ残った。
「……ええ。こんな歌でよければ」
ウルミアが微笑む。
ガルカは少し離れた石壁へ背を預け、静かに座った。
近づきすぎない。
けれど、離れすぎてもいない。
そんな距離だった。
ウルミアは再び歌い始める。
歌声は潮風へ溶けていく。
ガルカは黙って聴いていた。
目を閉じるわけでもなく。 感想を言うわけでもなく。
ただ静かに。
まるで、一音も逃したくないかのように。
その横顔を見て、ウルミアは少しだけ不思議に思う。
旅人は沢山見てきた。
傭兵。 冒険者。 巡礼者。
けれど、このガルカはどこか違っていた。
疲れている。
それは分かった。
だが身体よりも、もっと別の何かに疲れているように見えた。
歌が終わる。
しばし、静寂。
波の音だけが、遠くから聞こえていた。
「……いい歌だ」
ガルカがぽつりと言う。
「ありがとうございます」
「忘れてはいけないものを、思い出せそうな歌だ」
その言葉に、ウルミアは小さく首を傾げた。
忘れてはいけないもの。
その響きには、妙な重さがあった。
まるで。
本当に何かを失いかけている人のような。
「旅のお方なのですか?」
「……そんなところだ」
「どちらへ?」
ガルカは少しだけ黙る。
それから、困ったように笑った。
「さてな。歩いているうちに、ここへ来ていた」
ウルミアも少しだけ笑う。
曖昧な答えだった。
けれど嘘ではないのだろう。
そう思えた。
「タブナジアは、静かな場所です」
「ああ」
「少し寂しい場所でもありますけれど」
その言葉へ、ガルカはゆっくり海を見る。
「……寂しい場所だから、優しい声がよく響くのかもしれんな」
ウルミアは思わず目を見開いた。
それは、歌を歌う者として、とても嬉しい言葉だった。
けれどガルカ本人は、自分が何を言ったのか分かっていないように、少しだけ居心地悪そうに鼻を掻いていた。
なんだか可笑しくなって、ウルミアは小さく笑う。
ガルカはその笑い声を聞いて、少しだけ安心したように肩の力を抜いた。
その時だった。
「おーい、ウルミアー!」
遠くから元気な声が響く。
プリッシュだった。
ウルミアが顔を上げる。
するとガルカも立ち上がった。
まるで、最初から長居するつもりなどなかったように。
「待ち人が来たようだな」
「ええ」
「歌、感謝する」
ガルカは軽く手を上げる。
名前は名乗らなかった。
ウルミアも聞かなかった。
けれど、それでよかった気がした。
旅人とは、きっとそういうものなのだろう。
風のように現れて。 風のように去っていく。
ガルカはゆっくり背を向け、タブナジアの石畳を歩いていく。
その後ろ姿は、不思議と静かだった。
「なんだ?知り合いか?」
駆け寄ってきたプリッシュが首を傾げる。
ウルミアは、去っていく背中を見ながら小さく微笑んだ。
「ええ、久しぶりに出会った名もなき向かい風……いえ、音の木陰で、少し休んでいった旅人かしら」
「えぇ?なんだよそれー、本当に知り合いなのか?」
ウルミアは答えず、小さく笑った。
もうガルカの姿は、崩れた石壁の向こうへ消えている。
けれど、不思議と。
あの旅人はきっと、もう少しだけ歩いていけるのだろうと思った。
歌を聴き終えたあと、ほんの少しだけ表情が柔らかくなっていたから。
潮風が吹く。
歌の余韻が、静かな空へ溶けていった。
そしてウルミアは、もう一度だけ。
名も知らぬ旅人が座っていた場所へ視線を向けた。
そこにはもう誰もいない。
ただ。
風だけが、優しく通り過ぎていた。
―― 終 ――
(=゚ω゚) ウルミアうまく書けてるかなぁ、読者のイメージを損なってないことを祈る!