新たな形を宿す人。
変わりゆく世界を、指先に伝う静かな雫
そんな、遠い森の忘れ形見。
聖堂の朝は、静かだった。
高い窓から差し込む光が、白い石床の上へ細長く落ちている。
ウルミアは祭壇の前で手を組み、目を閉じていた。
遠くで鐘の音がする。
それは祈りを急かすでもなく、引き留めるでもなく、広い堂内をゆっくりと渡っていった。
短い祈りを終え、ウルミアは目を開く。
女神像へ一礼して振り返ると、近くで書物を閉じていた神父が穏やかに会釈した。
「もう港へ向かわれるのですか?」
「はい。午後の船に乗る予定です」
「どうか、よい旅を」
「ありがとうございます」
もう一度頭を下げ、ウルミアは聖堂をあとにした。
外へ出ると、朝の風が頬を撫でた。
聖堂の静けさとは違う音が、石造りの街を満たしている。
鎧を鳴らして歩く騎士。
開店の支度をする商人。
石畳を叩く荷車の車輪。
城へ続く道の向こうでは、王都を見守るように旗が揺れていた。
ウルミアは城の前を通り、北サンドリアを北西へ歩いていく。
港までは、もう遠くない。
その途中だった。
――コン。
乾いた音がした。
続けて、少し低い音。
――トン、トン。
何かを削る音。
木を叩く音。
刃が木肌を薄くさらう音。
ウルミアは足を止めた。
港へ続く道の傍らに、木工ギルドがある。
入口からは削り屑の匂いと、乾いた木の香りが流れてきていた。
中を覗くと、一人の職人が作業台へ向かっている。
手元にあるのは、緩やかに弧を描く木枠だった。
刃を滑らせるたび、薄い木屑がくるりと丸まり、足元へ落ちていく。
ウルミアは、その形に見覚えがあった。
「楽器を作っていらっしゃるのですか?」
声をかけると、職人は手を止めた。
「ん?」
顔を上げ、ウルミアの姿を上から下まで眺める。
「嬢ちゃん、楽師か」
「歌を少し」
「少し、ねぇ」
職人は何かを見透かしたように笑い、再び手元へ視線を落とした。
「ハープだよ。まだ骨組みだけだがな」
木枠を軽く指で叩く。
小さな音が返った。
まだ弦も張られていない。
けれど、その曲線には、すでに楽器になる形が宿っていた。
その時。
外から、荷車の軋む音が近づいてきた。
――ゴト、ゴト
重い車輪が石畳を進み、ギルドの前で止まる。
荷台には、切り揃えられた木材が何本も積まれていた。
荷車を引いていたのは、年老いたエルヴァーンだった。
普段からそうなのか、背は少し曲がっている。
けれど荷台の横には、老人の背丈ほどもある大きな斧が立てかけられていた。
職人は木材を一目見ると、口元を緩めた。
「おぅ、今日もいい木だな」
老人は荷を縛っていた縄を解きながら、少しも誇る様子なく答えた。
「なに、いつもどおりだ」
それだけだった。
職人は一本を手に取り、静かに木肌を撫でる。
老人はもう次の縄へ手を伸ばしている。
確かめる必要などないようだった。
何度も繰り返してきたやり取りなのだろう。
「これは……ローズウッドですか?」
ウルミアが尋ねると、老人が初めてこちらを見た。
「ああ。森の奥で育った木じゃ」
「この木も、楽器になるのでしょうか」
老人は職人を見る。
職人は木材を軽く叩き、その音を聞いた。
「ああ、こいつならいい音になる」
短い返事だった。
「ちょうど出来上がったものがある。見るか?」
職人は作業台の奥へ向かい、布に包まれた楽器を持ってきた。
布が外される。
現れたのは、深みのある赤褐色のハープだった。
磨かれた木肌は光を柔らかく映し、張られた弦は細い銀糸のように並んでいる。
ウルミアは、思わず息を止めた。
「綺麗……」
職人の顔に、隠しきれない笑みが浮かぶ。
「見た目だけじゃ困る」
そう言いながらも、声は嬉しそうだった。
「嬢ちゃん。ちょいと弾いてみてくれねぇか」
「私が、ですか?」
「ああ。自分の作った楽器で演奏してもらえるなんざ、そうあることじゃねぇ」
ウルミアはためらいながらも、差し出されたハープを受け取った。
木の温度が、腕へ伝わる。
新品の楽器は少し硬い。
けれど、冷たくはなかった。
椅子へ腰掛け、ゆっくりと指を弦へ添える。
一度、静かに息を吸った。
そして。
最初の一音を鳴らした。
澄んだ音が、木工ギルドの中へ落ちた。
水面へ小さな雫を落としたように、丸く広がっていく。
木を削る手が止まる。
金槌の音も止まる。
入口の傍では、木こりの老人が荷台へ手を置いたまま耳を傾けていた。
ウルミアは、もう一度弦を弾く。
今度は一音ではなく、短い旋律。
聖堂で聞いた鐘の余韻。
城前を吹き抜けた風。
石畳を転がる荷車の音。
その日の朝に拾ったものが、指先から静かに零れていく。
曲が終わっても、しばらく誰も口を開かなかった。
最後の一音だけが、木の香りの中に残っている。
「……悪くねぇ」
職人が、ようやく言った。
楽器ではなく、自分の仕事を褒めているような顔だった。
老人も小さく頷く。
「いい音じゃった」
「ありがとうございます」
ウルミアはハープを職人へ返そうとした。
しかし、職人は受け取らなかった。
「持っていきな」
「え?」
「木も楽器も、そこまで褒めてもらった礼だ」
「ですが、こんな立派なものを……」
ウルミアが困っていると、老人が低く笑った。
「そうじゃな。わしも聞かせてもらったからのう」
荷台に積まれた原木の一本へ手を置く。
「では、この一本をこいつに譲ろう」
職人は老人と、その原木を交互に見た。
やがて、鼻を鳴らすように笑う。
「お前の切ってきた木なら、文句はねぇ」
二人の間では、それで話が済んだらしい。
ウルミアだけが、ハープを抱えたまま目を瞬かせていた。
「それでも……」
なおも遠慮するウルミアへ、老人は言った。
「なら、また会った時に、そのハープで一曲聞かせてくれ」
「また、お会いできるでしょうか」
「森で木を切っとれば、どこかで会うこともあるじゃろう」
老人は斧を荷車へ載せ直した。
少し曲がっていた背が、斧へ手をかけた瞬間だけ、すっと伸びたように見えた。
「今日はいい日じゃった」
荷車を引き始める。
「木を売って金も入った。おまけに演奏まで聞けたからのう」
車輪の音が、ゆっくり遠ざかっていく。
ウルミアは新しいハープを抱えたまま、その背中が見えなくなるまで見送った。
宿へ戻ると、プリッシュが真っ先にハープへ気づいた。
「なんだそれ。買ったのか?」
「いいえ。いただいたのです」
「それを? タダで?」
ウルミアは小さく笑い、木工ギルドで起きたことを話した。
楽器を作っていた職人。
木を運んできた老人。
短い演奏。
そして、いつかもう一曲聞かせるという約束。
プリッシュは腕を組みながら聞いていたが、話が終わるとハープを指差した。
「じゃあ、オレにも聞かせろよ」
「約束したのは、あのおじいさまとです」
「一曲減るわけじゃねぇだろ?」
もっともらしい顔で言うプリッシュに、ウルミアは笑った。
窓の外では、夜の風が吹き始めている。
ウルミアはローズハープを構えた。
指先が弦へ触れる。
静かな一音が、部屋の中へ零れた。
それはまだ、生まれたばかりの音だった。
けれど、その奥には。
遠い森で風に揺れていた頃の、緑の匂いが残っているような気がした。
(=゚ω゚) 宿でウルミアが奏でた曲は、私の中ではロンフォールの曲でした。
森を渡る風や木々の葉擦れ、ロンフォールの穏やかな空気。
そんな景色をハープの音色に重ねています。
もちろん、読んでくださった皆さんの中に流れた旋律があれば、それもまた、物語の音なのだと思います。