一羽の白い羽を見つめる人。
まだ鳴らぬ蹄音。
それでも街は、もう走り始めていた。
通りの向こうから、乾いた蹄の音が近づいてきた。
石畳を打つ音は、いつも街で耳にする荷運びのチョコボよりも軽い。けれど、速い。一定の間隔を刻みながら、風を連れてくるようにまっすぐこちらへ向かってくる。
「お、なんだ?」
プリッシュが足を止めた。
人の流れが道の両脇へ分かれていく。ほどなくして現れたのは、数羽のチョコボと、その手綱を引く男たちだった。
どの鳥も鞍をつけていない。荷も背負っていない。代わりに脚には布が巻かれ、羽根は丁寧に整えられている。首を高く上げ、周囲のざわめきにも目を散らさず歩く姿は、普段見かけるチョコボたちとはどこか違っていた。
一羽が、短く喉を鳴らした。
それに答えるように、見物人の中から小さな歓声が上がる。
「ずいぶん人気者みたいですね」
ウルミアが言うと、近くにいた店先の男が笑った。
「そりゃあ、もうすぐ大きなレースがありますからね。あれも出走鳥か、少なくとも関係者の鳥でしょう」
「レース?」
プリッシュが振り向く。
「チョコボレースですよ。ジュノグランプリをご存じない?」
「知らねぇ」
あまりにきっぱりした返事に、男は一度まばたきをした。それから、これは説明のしがいがあるとでも思ったのか、声を少し弾ませた。
「各地から腕自慢ならぬ脚自慢が集まるんです。今年は特にすごい顔ぶれになるって噂ですよ。街の連中は、その話でもちきりです」
「へえ。ただ走るだけだろ?」
「ただ走るだけ、ねえ」
男は何か言いたそうに口を開いたが、通りの先で客に呼ばれた。肩をすくめ、店へ戻りながら手だけを振る。
「まあ、宿の人にでも聞いてみるといい。誰かしら、嫌というほど語ってくれますよ」
その言葉を追いかけるように、再び蹄の音が響いた。
「お?あの赤い奴でかいな、こいつは強そうだ!」
大柄なチョコボが、静かに、しかし、強烈な存在感を示していた。
「プリッシュ、あちらに白いチョコボもいますよ。くりっとした目つきがかわいいですね」
ウルミアの視線の先には、白いチョコボが人懐っこく周囲を見回していた。
黄色い声が上がっている。どうやら女性に人気のチョコボのようだ。
しばらく眺めていると、先ほどの男が店先からこちらへ向き直り声をかけてきた。
「あの二羽も出走するらしいぞ、応援にいってみたらどうだい?俺としてもファンが増えるのは大歓迎だ」
そう言って、笑みを浮かべながら男はまた仕事にもどっていった。
競走鳥らしい一団は、すでに通りの向こうへ遠ざかっている。あとには、石畳の上を転がるざわめきと、わずかに舞い上がった砂だけが残っていた。
「そんなに面白いもんなのかね」
プリッシュは首を傾げた。
ウルミアは、遠ざかっていく羽根の揺れを見送った。
「きっと、楽しみにしている方がたくさんいらっしゃるのでしょうね」
「ふーん」
興味があるのかないのか分からない返事をして、プリッシュはまた歩き出した。
けれど、その足は先ほどより少しだけ速かった。
―――
宿へ戻った二人を迎えたのは、いつもの静けさではなかった。
「だから、最後に前へ出るのはマヤだと言っている!」
「何度言わせる。あの走りならブランだ!」
扉を開けるより先に、太い声が二つ、廊下の奥からぶつかってきた。
続いて、机を軽く叩く音。
「マヤはどこからでも動けるんだぞ。前へ行ってもいい、控えてもいい。流れを見て、ここだというところで一気に来る!」
「それで届かなかったら終わりだろうが。ブランは違う。あいつは並ばれてからが強い。横に相手がいればいるほど、脚を止めない!」
「止めないんじゃない。止め方を知らないだけだ」
「それを強いと言うんだ!」
ウルミアは扉の前で足を止めた。
プリッシュは、すでに笑いをこらえている。
「プッ…なぁ。これ、止めたほうがいいのか?」
「どうでしょう……」
答える間にも、廊下の奥から椅子が鳴った。
「そもそも、あのとき先に仕掛けたのはマヤだ!」
「先に動かされた、の間違いだ!」
「なんだと!」
「やるか!」
「そこまでです」
ウルミアが声をかけると、奥の部屋がしんと静まった。
少し遅れて、椅子が床をこする。
顔を出した護衛二人は、並んで直立していた。一人は咳払いをし、もう一人は机の上に広げられていた紙を、さりげなく背中へ隠す。
「お帰りなさいませ」
「お帰りなさいませ、ウルミア様。プリッシュ様」
「おう。ただいま」
プリッシュは二人の間から部屋をのぞき込んだ。
「で、やるのか?」
「何をでしょう」
「今、やるかって言ってただろ」
「気のせいです」
「二人そろってか?」
護衛たちは黙った。
机の上では、隠しきれなかった紙の端が揺れている。そこには丸や線、それから鳥の名前らしい文字がいくつも書き込まれていた。
ウルミアは小さく息をついた。
「先ほど、街でチョコボレースのお話を聞きました。お二人も、そのお話をしていたのですか?」
「ええ、まあ」
「少々、意見の相違がありまして」
「少々?」
プリッシュが机を見た。
片方の護衛が紙を押さえる。その下から、別の紙が滑り落ちた。拾い上げたプリッシュが、首をひねる。
「なんだこれ。線がいっぱい引いてあるぞ」
「過去の走りを整理したものです」
「こっちは?」
「区間ごとの位置取りを」
「こっちの丸は?」
「マヤが動いた地点です」
「こっちの黒いやつは?」
「ブランです」
「……お前ら、ずいぶん暇なんだな」
「「違います!」」
二人の声が、ぴたりと重なった。
ウルミアは目を丸くし、それから口元を押さえた。
「違うんです、プリッシュ様。チョコボレースというものは、ただ速ければ勝てるものではありません」
マヤを推す護衛が、一歩前へ出る。
「出だしの速さ、道中の位置、他の鳥との間合い。先頭に立つのか、後ろで脚をためるのか。どこで動くか、その一度の判断で、最後の景色がすべて変わるんです」
「へえ」
「それに、鳥ごとに走り方が違います。前へ出ると落ち着く鳥もいれば、誰かを追うことで力を出す鳥もいる。砂を嫌がる鳥も、歓声で気持ちが乗る鳥もいる」
今度はブランを推す護衛が、反対側から身を乗り出した。
「同じ距離を走っているように見えても、同じ走りは一つもありません。最初から最後まで先頭を譲らない走りもあれば、ずっと後ろにいた一羽が、最後の最後に全てを抜き去ることもある」
「最後まで見なければ、分からないのですね」
ウルミアの言葉に、二人は強くうなずいた。
「そうです!」
「そこがいいんです!」
声がまた重なった。
先ほどまで睨み合っていたはずなのに、今度は互いの言葉を補うように話し始める。
「先頭の鳥だけ見ていればいいわけじゃない」
「後ろで動かずにいる鳥にも、理由がある」
「横に並んだときに、どちらが引くか」
「最後の直線で、まだ脚が残っているか」
「騎手との呼吸もある」
「育てた者たちの積み重ねもある」
言葉の間に、机を指で叩く音が混ざる。
とん、とん、とん。
まるで、見えないチョコボがその場を駆けているようだった。
「で、そのマヤとブランってのが強いのか?」
プリッシュが尋ねると、二人は同時に口を開いた。
「それは聞くまでもありませんな」
「答えは決まっています」
そして、互いを見る。
「お前は少し黙っていろ」
「それはこちらの台詞だ」
「どっちだよ」
プリッシュが笑った。
「二羽とも強いのですか?」
ウルミアがそう言うと、二人はわずかに言葉を詰まらせた。
否定はしなかった。
代わりに、マヤを推す護衛が腕を組む。
「……以前、二羽が同じレースを走ったことがあるんです」
「ああ、とんでもないレースだった」
ブランを推す護衛の声が、先ほどまでより低くなる。
部屋の空気が、ほんの少し変わった。
窓の外では、夕方の街を行き交う足音が続いている。食器の触れ合う音。遠くから聞こえる呼び声。その一つ一つが、二人の言葉の向こうへ退いていく。
目をつむった護衛の一人が語りだす。
「最後の曲がり角を出たとき、マヤはまだ前の鳥たちの後ろにいた」
「ブランは、そのさらに外だ」
「道は開いていなかった。だが、マヤは待っていた」
「一歩だけだ。ほんの一歩、前の鳥が外へ膨らんだ」
護衛の指が、机の上を滑る。
紙の線をなぞり、狭い隙間を抜けた。
「その僅かな隙を突いて一気に加速したんだ」
「ブランも負けてないさ、あいつは外から来た」
「マヤが一羽、また一羽とかわしていく」
「全部まとめて呑み込むようにブランも駆け上がってきた」
蹄の音は、どこにもない。
それでもウルミアには、聞こえるような気がした。
地を打つ音が重なり、観客の声が大きな波になる。砂が舞い、伸ばされた首が並ぶ。栗色の羽根と黒い羽根が、互いの横顔を視界の端に捉える。
「残りは、ほんのわずかだった」
「マヤが前に出る」
「ブランが並ぶ」
「またマヤが出る」
「ブランは離れない」
机を叩く指が速くなる。
とん、とん、とん、とん。
別の指が、そのすぐ隣を追いかける。
「どっちだ?」
プリッシュが身を乗り出した。
護衛たちは答えない。
指先だけが、机の端まで駆け抜ける。
最後に、二つの音が同時に止まった。
「――並んだまま、ゴールした」
しばらく、誰も口を開かなかった。
窓の外で、鐘が一つ鳴った。
「それで、どっちが勝ったんだ?」
「マヤです」「ブランです」
「おい!」
「判定ではマヤが先だ!」
「くちばしの先ほどの差だろうが! ほとんど同着だ!」
「勝ちは勝ちだ!」
「なら今年こそブランが返す!」
静まりかけた部屋が、たちまち元に戻った。
プリッシュは腹を抱えて笑い、ウルミアは困ったように微笑んだ。
「今年も、その二羽が走るのですか?」
「もちろんです」
「ですが、今年は二羽だけを見ていればいい、というわけでもなさそうです」
護衛の一人が声を落とす。
「各地から、かなりの鳥が集まるらしい」
「まだ正式な話は出そろっていませんが、妙な噂ばかり聞こえてきます」
「どんな噂だ?」
「最初から最後まで、影も踏ませず逃げる鳥がいるとか」
「音も立てずに走る鳥を見た者がいるとか」
「一度動けば、前にいる鳥を全部押し流すように上がってくるとか」
「どこからでも勝てる鳥が、他にもいるとか」
「なんだそりゃ」
プリッシュは笑ったが、先ほどまでより目が輝いていた。
「尾ひれのついた話でしょう」
「レース前の噂なんて、だいたいそんなものです」
二人はそう言いながらも、どこか楽しそうだった。
「けど、火のないところに煙は立ちません」
「今年は、いつもと違う。そういう空気だけはあります」
窓の外から、またチョコボの鳴き声が聞こえた。
昼に見た一団とは別の鳥だろう。それでも、その声に部屋の全員が一瞬だけ耳を向ける。
「そういや、戻る途中にチョコボをみたぞ。赤くてでっかいチョコボだった」
「あいつのほうが強いんじゃねぇ?」
そう、プリッシュがおどけて挑発する。
「「は?」」
二人の威圧感が一気に膨らんだ。
「マヤのほうが速いが?」「ブランのほうが強いに決まってんだろ?」
「うおっ!?近いぞ、おまえら!」
プリッシュがあわてて二人を振り払う。
「やれやれ。そこまで言うなら、ちょっと見に行ってもいいかもな」
プリッシュが言った。
二人の護衛は顔を見合わせる。
「ですが、プリッシュ様には退屈かもしれません」
「は?」
「殴り合いなら分かりやすいのですが、レースは駆け引きも多いですから」
「何が言いてぇ」
「いえ。どの鳥が何を狙っているのか、初めてでは分からないかもしれないと」
「分かるわ!」
「途中で眠くなられる可能性も」
「ならねぇよ!」
プリッシュの声が、宿中に響いた。
廊下の向こうで、誰かが驚いて盆を鳴らす。
「いいか。そこまで言うなら見に行ってやる。マヤだかブランだか知らねぇが、どいつが強いか、このオレが見届けてやる、あの赤いのは絶対強いぜ!」
「おお、それは心強い」
「きっとお楽しみいただけます」
護衛たちは、先ほどまでの口論が嘘のようにそろって頭を下げた。
プリッシュは胸を張ったまま、満足そうにうなずく。
ウルミアだけが、二人の口元に浮かんだ笑みを見ていた。
「プリッシュ」
「なんだ?」
「どうやら、うまく誘われてしまったようですよ」
「……あ?」
振り返ったときには、護衛たちはすでに机の紙を片づけ始めていた。
「お前ら!」
再び声が上がる。
今度は、先ほどより明るい笑い声が続いた。
ウルミアは窓辺へ歩き、少しだけ開いていた窓を押し広げた。
夕方の風が、熱のこもった部屋を通り抜けていく。通りからは、明日の準備をする人々の声が聞こえた。木槌の音。荷車の軋み。遠くで誰かが、競走鳥の噂をまた別の誰かへ話している。
まだ始まってもいないレースの音が、街のあちこちで鳴っていた。
あの、あどけない春風のような白いチョコボも速いのだろうか。
どんな走りをするのか、少しだけ興味をもった。
「それでは、私たちも見に行ってみましょうか」
ウルミアが振り返る。
プリッシュは護衛たちを指さしたまま、勢いよく答えた。
「おう! 行くぞ。絶対だ!」
その声に、窓の外からチョコボの鳴き声が重なった。
まるで返事をしたように、短く、高く。