誰かの勝利を願う人。
違う名前を呼びながら、
同じ瞬間に心を重ねた人たち。
そんな、祭りのあとの小さな記憶。
ジュノの街が、静かになっていた。
ほんの少し前まで聞こえていた子供たちの声も、今は数え切れない観客たちの声へ溶け込んでいる。それでもウルミアには、しばらくの間、あの子たちがどちらへ走っていったのか分かるような気がした。
「……あいつら元気だなぁ」
プリッシュが呆れ半分に呟いた。
「プリッシュ様も、レース中は大差なかったと思いますが」
「オレはあんなに騒いでねぇ!」
「『来たぁ!』と叫びながら拳を振り上げていた方が何か言っていますね」
「お前だってマヤに向かって立ち上がってただろ!」
「それとこれとは別です」
「何が別なんだよ」
もう一人の護衛まで口を挟む。
「まあ、これで分かったでしょう。チョコボレースというものは、見ればそれなりに面白いのです」
「それなり?」
プリッシュが眉を上げた。
「……まあ、結構面白かったな」
その一言を待っていたらしい。
「そうだろう!」
「そうだろう、そうだろう!」
二人の護衛が揃って得意げな顔をする。
「だから最初から言ったではありませんか。展開が分かるようになると、さらに面白いのですよ」
「次はもう少し買い方を考えた方がいいな。単羽だけでなく――」
「調子に乗るな、貴様ら」
低い声が飛んできた。
三人が振り返る。
少し離れたところで腕を組んでいた護衛のまとめ役が、冷ややかな目でこちらを見ていた。
「護衛任務中だということを忘れてはいまいな」
「……忘れてはいません」
「本当か?」
「もちろんです」
「では、その握りしめている外れ券は何だ」
護衛の一人が、そっと投票券を背中へ隠した。
プリッシュが吹き出す。
「お前ら、怒られてやんの!」
「プリッシュ様も同罪です」
「オレは護衛じゃねぇもん」
「威張るところではありません」
ウルミアは笑いながら、そのやり取りを聞いていた。
いつもの声だった。
プリッシュがけらけらと笑う。
怒る声。言い返す声。笑う声。
ほんの少し前まで競争場全体を揺らしていた、あの巨大な歓声とはまるで違う。
けれど、その違いを思ったとき。
ウルミアの意識は自然と、レースが始まる前のことへ戻っていった。
白い法衣。
指揮者が上げた両腕。
そして、ジュノの空へ昇っていった、タブナジア聖歌隊の歌声。
ウルミアも小さく笑いながら、ふと後ろを振り返った。
そこにはもう、あの子供たちはいなかった。
--子供たちの楽しそうな声が再び浮かんでくる
「やったぁぁぁぁ!」
「メテオだ! メテオが勝った!」
「ほらな! もう一回飛んだだろ!」
写真判定の結果が告げられてからしばらくの間、スターオニオンズ団はまともに会話ができる状態ではなかった。
抱き合って飛び跳ね、星形の紙飾りをばらまき、紫色の布を振り回す。
声はとうに枯れている。それでも叫ぶことだけはやめなかった。
そんな子供たちがようやく少しだけ落ち着いたのは、競争場の係員たちが観客の誘導を始めた頃だった。
「お姉ちゃん!」
ひときわ声の大きな少年が、ウルミアの前へやってきた。
「はい?」
「一緒に応援してくれて、ありがとな!」
「ありがとー!」
「お姉ちゃんが応援したからメテオ勝ったのかもしれないよ!」
「それは違うだろ。メテオが強かったから勝ったんだ!」
「でも応援も大事だよ!」
また言い争いが始まりそうになって、ウルミアは笑った。
「こちらこそ、ありがとうございました」
「え?」
「私一人でしたら、きっとあんなに大きな声で応援することはなかったと思います。とても楽しかったです」
子供たちは顔を見合わせた。
やがて、一人が得意そうに胸を張った。
「だろ?」
「だからなんでお前がいばるんだよ!」
そのとき、通路の向こうから声がした。
「あれぇ? スターオニオンズ団じゃない!」
「ユジュジュだ!」
「なんでジュノにいるの!?」
「取材よ、取材! ジュノグランプリなんて大ネタ、週刊魔法パラダイスが見逃すわけないでしょ~?」
ユジュジュはそう言って、子供たちの手にある紫の布と星形の飾りを見た。
「それにしても……あんたたちも、スターオーを応援してたのね?」
「メテオが勝ったんだぞ!」
「見てた見てた。これから一番星くんのところへ晴れ姿を観に行くんだけど――来る?」
「行く!」
「メテオに会えるの!?」
「早く行こう!」
もう気持ちは完全にそちらへ向いている。
それでも数歩走ったところで、一人の少女が足を止めた。
「あっ」
振り返る。
「お姉ちゃんはどうする?」
ウルミアは一瞬だけ迷って、それから護衛たちを見た。
彼らもこちらを見ている。
今日だけでも、ずいぶん寄り道をした。
「ごめんなさい。私たちは、そろそろ戻らないといけないの」
「そっかぁ……」
少女は少し残念そうな顔をした。
けれど、それもほんの一瞬だった。
「それじゃあさ!」
少年が言った。
「ウィンダスに来ることがあったら、いろいろ案内してやるよ!」
「一緒にメテオを応援した仲間だからなっ!」
「あたしたち、港にいるから!」
少女が両手を大きく振った。
「ウィンダスに来たら遊びにきてね! ぜったいだよ!」
「はい」
ウルミアも手を振った。
「そのときは、よろしくお願いしますね」
「任せろ!」
「じゃあな、お姉ちゃん!」
「またねー!」
記者に続いて、小さな背中が走っていく。
星形の飾りが揺れた。
紫の布が翻った。
何度かこちらを振り返りながら、それでも足は止めない。
メテオのところへ。
自分たちが声を枯らして応援した、一番星のところへ。
やがて人混みの向こうへ、子供たちの姿は見えなくなった。
――私を呼ぶ声で意識がそちらに向いた
「――おい、ウルミア?」
「え?」
プリッシュの声で、ウルミアは足を止めた。
「どうした?」
「いいえ」
もう一度、後ろを見る。
当然、子供たちの姿はない。
「少し、あの子たちを思い出していただけです」
「ふーん」
プリッシュはそれ以上聞かなかった。
代わりに護衛の一人が、まだ納得していない顔で言う。
「しかし、マヤも惜しかった」
「まだ言ってんのかよ」
「貴様こそグラスの話を何回した」
「三回くらい?」
「七回だ」
「数えてたのかよ」
ウルミアはまた笑った。
そのとき、道の反対側から沈んだ男の声が聞こえてきた。
「……やべぇ。かぁちゃんにどやされる」
「だから全部賭けるなって言っただろ」
「最後までマヤが先頭だったじゃねぇか……」
「お前ん家のかぁちゃんにそう説明してこい」
「それで許してくれると思うか?」
「思わん」
「だよなぁ……」
二人の男が肩を落として歩いていく。
その向こうでは、屋台の主人が最後の客を呼び止めていた。
「串焼きあと四本! もう安くするぞー!」
「二本で一本分なら買う!」
「そこまで安くするとは言ってねぇ!」
笑い声が上がる。
木箱を閉じる音がした。
旗を留めていた金具が外され、かしゃりと石畳へ落ちる。
箒が地面を擦る。
遠くでは、まだ誰かが今日のゴールについて言い争っていた。
大きな音が去ったあと。
それまで聞こえなかった、小さな音が戻ってきている。
タブナジアの静けさとは、どこか違った。
故郷では、波の音も、崩れた石壁を抜ける風も、遠くから聞こえる祈りも、最初からそこにある。
けれど今のジュノでは、ほんの少し前まで、何万もの声がすべてを覆っていた。
メテオ。
マヤ。
ブラン。
グラス。
サリア。
ビーナス。
ティル。
ラオー。
誰もが違う名を叫んでいた。
願っていた結果も違う。それなのに、八羽がゴールへ飛び込んだあの一瞬だけは、競争場そのものが一つの大きな生き物になったように感じられた。
ウルミアは、昼間に聞いた歌を思い出す。
タブナジア聖歌隊。
声を重ねるためには、互いの息を聞かなければならない。
隣の声を聞き、自分の声を合わせる。高い声が伸びれば低い声が支え、一人では作れない響きを、皆で一つずつ積み上げていく。
それは、ウルミアもよく知っていた。
けれど今日の競争場は違った。
誰も声を合わせようとはしていなかった。
むしろ皆、違う名を叫んでいた。
それでも。
あの瞬間には、確かに何かが重なっていた。
「……不思議ですね」
気づけば、ウルミアはそう口にしていた。
「何が?」
プリッシュが振り返る。
ウルミアはすぐには答えず、まだ熱の残る観客席を見渡した。
「聖歌隊では、皆でひとつの歌を作るために、互いの声を聞きます。息を合わせて、心を合わせて……そうしなければ、あの響きにはなりません」
「ああ」
プリッシュが頷く。
「でも今日の皆さんは、そんなことをしようとはしていませんでしたよね」
「そりゃそうだろ。応援してるやつ、みんな違ったし」
「ええ」
ウルミアは微笑んだ。
「それなのに、最後は皆さん、同じ場所を見ていました」
プリッシュが競争場を見回す。
まだ勝った鳥の話をしている者がいる。その隣では、自分の投票券を見て頭を抱えている者がいる。知らない者同士が、最後の一歩がどうだった、いや半歩違ったと身振りを交えて話している。
「……まあ、あんなゴール見せられりゃな」
「そういうものなのでしょうか」
「そういうもんだろ」
あまりにも簡単な答えに、ウルミアは少しだけ目を丸くした。
そして笑った。
「そうかもしれませんね」
歌うために、人は意識して心を合わせることがある。
けれど、心を合わせようとしなくても、同じものへ夢中になった結果、いつの間にか同じ瞬間を共有していた。
きっと、人の声が重なる形は一つではないのだろう。
ウルミアはもう一度、競争場を振り返った。
走路には八羽の足跡が残っている。遠くでは係員たちが柵を戻し始め、観客たちも少しずつ出口へ向かっていた。それでも、今日ここに生まれた熱だけは、まだしばらくこの場所へ残っているように感じられた。
「どうした?」
先を歩き始めたプリッシュが振り返る。
「いえ」
ウルミアも歩き出した。
「チョコボレースというのも、思っていたよりずっと面白いものですね」
「だろ?」
なぜかプリッシュが得意そうに胸を張る。
「お前、来る前は『ただ走るだけだろ』と言っていただろう」
「細けぇことはいいんだよ!」
護衛の指摘へプリッシュが言い返し、その後ろからまとめ役のため息が聞こえた。
競争場を離れるにつれて、幾万もの歓声は少しずつ遠ざかっていく。
やがて聞こえるのは、石畳を踏む自分たちの足音と、いつもの言い争いだけになった。
それでもウルミアの耳には、今日聞いた二つの響きが残っていた。
互いを意識し、ひとつになろうとして重なった歌声。
そして。
誰もひとつになろうとはしていなかったのに、同じ瞬間へ心を奪われ、気づけば重なっていた歓声。
その違いを、ウルミアはまだ上手く言葉にはできなかった。
けれど、それでいいような気がした。
旅を続けていれば、いつかまた、似たような響きに出会うことがあるかもしれない。
そのとき、自分は今日のことを思い出すのだろう。
ジュノの空へ昇った聖歌と、白砂を駆け抜けた八羽。
そして、名前も知らない大勢の人たちが、ほんの一瞬だけ同じ場所を見つめた日のことを。
少し先で、一羽のチョコボを連れた係員が道を横切った。
レースを走った八羽ではない。
荷物を運ぶ、ごく普通のチョコボだった。
その姿を見送りながら、ふと疑問が浮かんだ。
「そういえば……」
「ん?」
「今日走っていた競走鳥たちは、これからどうするのでしょう?」
「どうって?」
「ずっと、走り続けるのでしょうか」
「さあなぁ」
プリッシュもそこまでは知らないらしい。
「お嬢さん、競鳥は初めてかい?」
横から声がした。
見ると、少し日に焼けた中年の男が立っていた。首には今日の入場証をぶら下げ、片手にはすっかり丸められた出走表を持っている。
「はい。今日、初めて見ました」
「そりゃいい日に当たったな。あんなレース、そうそう見られんよ」
男は満足そうに笑った。
「競走鳥もいろいろさ。まだ走るやつもいれば、頃合いを見て競争場を離れるやつもいる。走らなくなったあと、穏やかに暮らす鳥もいるだろうな」
「そうなのですね」
「まあ、それとは別に――」
男は少しだけ声を落とした。
「競鳥好きの間には、昔から妙な話が残っててな」
「妙な話?」
「ああ。競走鳥はな、一生を走り終えるとBaになって、どこかで羽を休めるんだとさ」
ウルミアは瞬きをした。
「Ba……ですか?」
「バタリアなんかにいる、あのBaさ。あいつら、こっちから手を出さなきゃ大人しいだろ?」
「はい」
「競走鳥だった頃は、ずっと誰かと競って走ってる。だから全部走り終わったら、しばらく何とも競わず、のんびり羽を休めるんだってよ」
男は自分で話しながら、おかしそうに笑った。
「もちろん昔話だぞ。俺だってBaに『お前、昔は競走鳥だったのか』なんて聞いたことはない」
「聞いて答えたら大騒ぎだろ」
プリッシュが口を挟む。
「違いない」
男が笑った。
「でもな、話には続きがある。十分休んだBaは、いつかまた新しい競走鳥になって戻ってくるんだと」
「また……走るのですか?」
「そういう話さ。昔走ってた鳥と同じなのか、名前も姿も全部変わるのか、そこまでは誰も知らん。昔話なんてそんなもんだ」
男は丸めた出走表で、遠くに見える競争場を指した。
「だから、あそこを走ってる鳥を見て、『もしかしたら昔好きだったあいつが帰ってきたのかもな』なんて考える奴もいる。逆にバタリアでBaを見て、『こいつ、いつかとんでもなく速い競走鳥になるんじゃないか』ってな」
「素敵なお話ですね」
「だろ?」
男は嬉しそうだった。
「本当かどうかより、そう思って見る方が楽しいからな」
それだけ言うと、男は片手を上げて人波の中へ消えていった。
少しして。
「……オレ、前に邪魔だったBaを殴っちまったぞ……まずかったか?」
ふと、プリッシュがウルミアを見てから目をそらした。
「あぁ、あのときですか……」
「急いでたんだよ!」
護衛たちには気づかれていないようだ。
「……やっぱりBaは殴らない方がいいのか?」
プリッシュが真剣な顔で言った。
「なぜそこでそうなる」
護衛のまとめ役が呆れた声を出す。
「だって未来の名競走鳥かもしれねぇんだろ?」
「用もないのに殴るな」
「そういう話じゃねぇよ!」
また声が重なった。
ウルミアは笑いながら、歩き出す。
街では祭りの片付けが続いていた。
一本。
また一本。
通りを飾っていた旗が外されていく。
屋台の明かりも消え始めている。
けれど、人々の声までは消えない。
「来年も来ようぜ」
「今度は絶対当てる」
「それ去年も言ってただろ」
どこかで笑い声がした。
別の場所では、子供が今日見た競走鳥の走りを真似して駆けている。
その母親らしい女性が、危ないから走るなと追いかけていた。
大きな祭りの音は、もうない。
代わりに。
一つ一つの、小さな音がある。
ウルミアはゆっくり歩きながら、それらを聞いていた。
さっきまで、あれほど違う声だった。
違う名前を呼び。
違う勝利を願い。
違う場所から、同じ走路を見ていた。
それが一瞬だけ重なって。
そして今は、またそれぞれの声に戻っている。
聖歌とは違う。
けれど。
どこか似ているような気もした。
まだ、その違いを上手く言葉にはできない。
だから今は。ただ、覚えておこうと思った。
木箱を閉じる音。
旗を畳む音。
負けた投票券を握りしめて嘆く声。
今日の走りを何度も語り直す声。
来年の話をする声。
そして。
『メテオー!』
もうここにはいない、小さな応援団の声。
大きな音が去ったあとにも。
祭りの音は、まだジュノのあちこちに残っていた。
「ちょ、ちょっと待ちなさーい!」
メテオの姿を見つけたスターオニオンズ団は、ユジュジュを置き去りにして一斉に駆け出していってしまった。
「もう……取材するのはこっちなんだから……」
そう言いながら追いついたユジュジュは、子供たちに囲まれた一番星を見て、ふっと表情を緩めた。
走っていた場所も、声を上げていた場所も違う。
それでも、あの瞬間を一緒に駆け抜けたような顔で、子供たちはメテオを囲んでいる。
そしてメテオもまた、そんな子供たちの真ん中で、どこか嬉しそうに羽を揺らしていた。
――これは、撮っておかないとね。
次の瞬間には、ユジュジュはもうカメラを構えていた。
――パシャッ。
「タイトルは……綿毛と一番星……これに決まりッ!」