ウルミア編 ~音の木陰~   作:金髪ヒュムさん

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思いの強さで止まる人
誰かの背中を押してくれる人

競うのではなく共に歩むために重ねる歌声

広い世界で歌い並ぶ、記憶のお話



――歌う世界、夕映えの向こう――

 

賑やかな街の宴が終わって、一日が過ぎた。

 

昨日まで街を埋めていた旗は、まだところどころに残っている。

けれど、道を行き交う人々の足取りはもういつものジュノへ戻り始めていた。

 

露店の主人は声を張り上げ、荷運びのチョコボが石畳を叩く。

片付けられた柵の跡には白い砂が細く残り、風に飛ばされた紙片が壁際で小さく転がっていた。

 

昨日、あれほど大勢の人間が同じ場所を見ていたことが、少し不思議に思えるほどだった。

 

宿へ戻るには、まだ少し早い。

 

ウルミアは人通りから離れた石壁のそばで足を止めた。

 

荷物の中から、小さなハープを取り出す。

 

ローズハープ。

 

まだ新しい木肌には、旅の中で触れてきた手の跡がわずかに馴染み始めていた。

 

最初にこのハープを手にした夜。

 

ウルミアが弦を鳴らすと、プリッシュは当然のように、

 

「じゃあ、オレにも聞かせろよ」

 

と言った。

 

あの時の音は、まだ本当に生まれたばかりだった。

 

ウルミアは膝の上へローズハープを置いた。

 

一本。

弦を弾く。

澄んだ音が、石造りの街の片隅へ小さく落ちた。

 

もう一音。

 

指が次の弦を探す。

何を弾こうと思ったわけでもなかった。

 

それなのに。指は知っていた。

 

ひとつ。またひとつ。

 

ずっと昔に覚えた旋律を、探るように拾っていく。

 

ウルミアの唇が、ほんの少し開いた。

 

声にはならない。

けれど、その旋律を知っている。

忘れたことなど、一度もなかった。

風景の方が先に蘇った。

 

白い壁。

 

高い天井。

 

大勢の前に立った、小さな自分。

 

そして――

 

声が出なかった、あの日。

 

 

――世界が暗く閉じてしまっていた遠いあの日のこと

 

 

歌うことが好きだった。

子供の頃のウルミアにとって、それはあまりにも当たり前のことだった。

誰もいない場所なら、いくらでも歌えた。

 

家でも。

 

道を歩きながらでも。

 

風の音を聞きながらでも。

 

聞き覚えた聖歌の一節を口ずさめば、次の言葉は考えなくても出てきた。

 

だから。

 

聖歌隊で歌いたかった。

 

白い衣をまとった子供たちが並び、ひとつの歌を作る。

一人では届かない高さへ声が伸びていく。

低い声がその下を支える。

それぞれ違う声なのに、重なった時だけ現れる響きがある。

 

その中に、自分も入りたかった。

 

ずっとそう思っていた。

 

なのに……。

 

人々の視線が自分へ集まった瞬間。

 

――息が止まった

 

歌詞は分かっている。

 

旋律も覚えている。

 

次の音がどこにあるのかも分かっている。

 

それなのに、声だけが出てこなかった。

 

――息を吸う

 

――喉が固くなる

 

――もう一度吸う

 

何人もの大人が自分を見ている。

 

どこかで衣擦れの音がした。

 

誰かが、小さく咳払いをした。

 

――早く歌わなくては

 

そう思えば思うほど、歌は遠ざかっていった。

 

結局。

 

歌えなかった。

 

ただ、それだけだった。

 

けれど幼いウルミアには、それが世界のすべてだった。

 

夕暮れの天華崎。

 

海から吹き上げてくる風が、髪を何度も揺らしていた。

 

遠くで波が砕ける。

 

もう陽は低い。

 

空はゆっくりと橙色へ変わり、その向こうで海だけが眩しく光っていた。

 

ウルミアは一人だった。

 

聖歌隊に入れなかった。

 

その事実だけが、頭の中をぐるぐる回っていた。

 

明日になれば、聖歌隊の子供たちはまた歌う。

 

でも、自分はそこにいない。

 

次の日も。

 

その次の日も。

 

きっと。

 

歌声を聞くたびに、自分がそこにいないことを思い出すのだろう。

 

どうしよう。

どうすればいいのだろう。

考えても答えは出ない。

 

それでも同じ言葉だけが、何度も何度も胸の中で繰り返された。

 

どうしよう。

 

どうしよう。

 

どうしよう――。

 

「うるせぇな」

 

突然、声がした。

 

ウルミアは驚いて顔を上げた。

 

知らない少女が立っていた。

 

いや。

 

少女、と呼んでいいのか、一瞬迷った。

 

年上には見える。

けれど、大人には見えない。

 

そして何より。

 

見知らぬ相手なのに、まるでずっと前からこちらを知っていたような顔で立っている。

 

ウルミアが言葉を失っている間にも、その少女――プリッシュは勝手に話を進めていった。

 

あまりにも強く「どうしよう」と思っているから、ここまで聞こえてきた。

 

そんなことを言われた。

 

最初は何の話か分からなかった。

 

けれどプリッシュは、ウルミアが聖歌隊へ入り損ねたことまで言い当てた。

 

みんなの前へ出たら、緊張して歌えなかった。

 

その言葉を聞いた瞬間。

 

胸の奥に隠していた失敗を、いきなり引っ張り出されたような気がした。

 

ウルミアは俯いた。

 

やはり。

自分は歌えないのだ。

聖歌隊には入れない。

 

ずっと憧れていた場所へは行けない。

 

だったら――。

 

そこで、プリッシュの声が飛んできた。

 

乱暴だった。

慰めるような声音でもなかった。

頭を撫でてもくれなかった。

大丈夫だとも言わなかった。

 

ただ。

 

ウルミアが見ていた小さな世界を、外側から蹴飛ばすような言葉だった。

 

聖歌隊で歌う自分。

父と母が望んでいた未来。

そのひとつが終わってしまったとしても。

世界まで終わったわけではない。

 

プリッシュは海の向こうへ手を広げた。

 

夕陽を受けて、海がどこまでも光っていた。

 

タブナジアより向こう。

自分がまだ見たこともない土地。

名前すら知らない場所。

 

そこにも人がいる。

 

空がある。

 

風が吹いている。

 

そして。

 

歌う場所がある。

 

「おまえがヴァナ・ディールで歌ってる世界は終わっちまっていねぇ!」

 

その言葉は、あまりにも大きすぎて。

 

幼いウルミアには、その全部を理解することなどできなかった。

 

でも。

 

ひとつだけ分かったことがあった。

 

歌ってもいいのだ。

 

ここでも。

 

聖歌隊でなくても。

 

自分は、まだ歌っていい。

 

プリッシュは、それ以上難しいことを説明しなかった。

 

歌おう。

 

そういうことになった。

 

あまりにも簡単に。

 

プリッシュは夕陽の方を向いた。

 

そして、歌い始めた。

 

躊躇いがなかった。

 

誰が聞いているかなんて気にしていない。

 

上手く歌えるか。

誰かにどう聞こえるか。

失敗するか。

 

そんなものは全部、どこかへ置いてきたみたいだった。

 

一人分の声が、海へ伸びていく。

 

風がさらっていく。

 

ウルミアは、しばらくその横顔を見ていた。

 

プリッシュはこちらを見ない。

 

歌えとも言わない。

待ってもくれない。

ただ、自分が歌いたいように歌っている。

 

だから。

 

ウルミアも息を吸った。

 

一度。

 

浅かった。

 

もう一度。

 

今度は胸いっぱいに。

 

そして、声を出した。

 

最初は小さかった。

風に消されそうな声だった。

けれども、隣にもうひとつの声がある。

 

プリッシュの歌声を追いかける。

 

同じところへ声を伸ばす。

 

少しずれた。

 

プリッシュが気にせず先へ進む。

 

ウルミアも追う。

 

また重なる。

 

その瞬間。

 

胸の奥にあった何かが、ふっと軽くなった。

 

歌えている。

 

誰かと一緒に。

 

自分は、歌っている。

 

二人の声が、夕暮れの海へ流れていった。

 

聖堂の高い天井はない。

白い衣もない。

見守る大人もいない。

 

ただ。

 

海があった。

空があった。

風があった。

 

そして。

 

隣にプリッシュがいた。

 

歌は、そこにあった。

 

それだけでよかった。

 

 

――あの時から、何か変わっただろうか。

 

 

もう一度、もう一度歌ってみよう。

 

あの時とは違う。

 

そう思いたかった。

 

けれど。

 

実際にその場所へ立ってみると、身体は昔のことを覚えていた。

 

目の前に人がいる。

自分を見ている。

歌を聞こうとしている。

胸が早くなる。

指先が冷たい。

息を吸っても、肺の奥まで届かない。

 

向こうには、白い衣をまとった子供たちがいた。

 

ずっと入りたかった場所。

 

ずっと、一緒に歌いたかった人たち。

 

なのに。

 

見た瞬間。

 

また別の考えが頭をよぎった。

 

ちゃんと歌わなくてはいけない。

間違えてはいけない。

今度こそ、……今度こそ歌えなければ。

 

また……、声が出なくなったら――。

 

喉が固くなる。

胸の中で、何かが縮んでいく。

 

やっぱりだめなのかもしれない。

 

そんな気持ちが頭を過る。

 

一度浮かぶと、消えなかった。

 

だめかもしれない。

 

やっぱり。自分には――。

 

その時だった。

 

夕陽が見えた。

 

本当に見えたわけではない。

 

目の前には白い壁がある。

海もない。

風も吹いていない。

 

それでも。

 

頭の中に、あの日の天華崎が浮かんだ。

 

海が光っている。

隣でプリッシュが歌っている。

何の迷いもなく。

誰かに選ばれるためでもなく。

 

ただ。

 

歌っている。

 

その隣で。

 

自分も歌っていた。

 

ウルミアは、白い衣の子供たちを見た。

 

今までとは少し違って見えた。

 

自分より上手に歌える子。

すでに聖歌隊の中にいる子。

自分が入りたい場所にいる人たち。

 

ずっと。

 

そこへ入るためには、自分が選ばれなければならないと思っていた。

 

だから。

 

自分はこちら側。

 

あの人たちは向こう側。

 

どこかで、そう分けていた。

 

でも……違う。

 

プリッシュと歌った時。

 

どちらが上手いかなんて考えなかった。

どちらか一人しか歌ってはいけないなんて思わなかった。

 

プリッシュが歌う。

 

自分も歌う。

 

それだけだった。

 

二つの声が重なった。

 

歌になった。

 

だったら。

 

聖歌隊だって。

 

勝負じゃないんだ。

 

一緒に歌えるかどうか。

 

それだけなんだ。

 

ウルミアは、小さく息を吐いた。

 

胸の奥に張りついていたものが、少しだけ緩んだ。

あの人たちに勝つ必要はない。

誰かを押し退ける必要もない。

 

ただ。

 

一緒に歌いたい。

 

あの声の中へ。

 

あの人たちと一緒に……、自分の声も重ねたい。

 

それなら。

 

それなら、私にもできる。

 

プリッシュと、一緒に歌えたのだから。

 

ゆっくり息を吸った。

 

まだ怖い。

 

胸はまだ早鐘を打っている。

 

手も少し震えている。

 

でも。

 

怖くなくなるまで待つ必要はないのかもしれない。

 

ウルミアは口を開いた。

 

最初の音を出す。

 

細い。

 

少しだけ震えていた。

 

それでも。

 

出た。

 

自分の声だった。

 

次の音へ進む。

 

また出た。

 

そして。

 

――ほら、歌えるじゃねぇか。

 

そんな声が聞こえた気がした。

 

ウルミアは目を瞬いた。

 

もちろん。

 

そこにプリッシュはいない。分かっている。

 

けれども。

 

目を閉じれば、あの日と同じように。

すぐ隣にいるような気がした。

 

夕陽を浴びて。

こちらなど見もしないで。

勝手に歌っている。

 

なら。

 

追いかければいい。

 

あの時と同じように。

 

ウルミアは次の句を歌った。

 

声が少しずつ伸びていく。

 

高い音。

息をつなぐ。

次の言葉。

 

もう、目の前の人々の表情を確かめる余裕はなかった。

 

代わりに、向こうにいる聖歌隊の子供たちを見た。

 

いつか。あそこへ立つ。

 

いや。

 

違う。

 

あそこへ立ちたい。

 

そして。

 

あの人たちと一緒に歌いたい。

 

そう思った。

 

すると不思議だった。

 

さっきまで、自分を見ているように思えたたくさんの目が。

 

今は。

 

これから一緒に歌うかもしれない誰かの顔に見えた。

 

ひとり。

またひとり。

知らない子ばかりだ。

名前も知らない。

声も、まだ知らない。

 

でも。

 

この歌を知っている。

自分も知っている。

 

それだけで。

 

少しだけ近くなった気がした。

 

歌は続いた。

 

途中。

 

一度だけ息が浅くなった。

 

あの日なら、そこで止まっていたかもしれない。

 

でも今は、頭の中でプリッシュの声が続いている。

 

少し先を。

勝手に。

こちらを待ちもせず。

歌っている。

 

だからウルミアも続けた。

 

追いつく。並ぶ。

 

そして。

 

いつの間にか。

 

追いかけていることさえ忘れていた。

 

自分の声がある。

プリッシュの声がある。

その向こうに。

まだ聞いたことのない、たくさんの声がある。

全部が重なったら。

どんな歌になるのだろう。

 

最後の一節。

 

ウルミアはまっすぐ前を向いた。

 

息を吸う。

 

そして。

 

歌った。

 

もう声は震えていなかった。

 

最後の音が、ゆっくり遠ざかっていく。

 

静かになる。

 

ウルミアは息を吐いた。

心の中で隣にいたプリッシュが。

夕陽の向こうへ消えていく。

 

でも。

 

寂しくはなかった。

歌は、まだ胸の中に残っている。

 

そして。

 

目の前には。

 

これから一緒に歌いたい人たちがいた。

 

 

――いつのまにか、指はハープの旋律を追い続けていた。

 

 

最後の音が、ハープの弦の上で震えている。

 

ウルミアは、はっと目を開いた。

 

ジュノ。

 

目の前にあるのは大聖堂ではない。

 

石造りの街。

遠くを行き交う人々の声。

チョコボの足音。

荷車の車輪。

 

そして。

 

膝の上のローズハープ。

 

いつの間にか。

歌っていた。

ほんの小さな声で。

 

幼い頃に歌った、あの歌を。

 

ウルミアは弦を見つめた。

 

昔とは違う。

同じ旋律のはずなのに。

少し違う。

 

あの頃にはなかった間がある。

 

知らなかった音の置き方がある。

 

旅の途中で聞いた誰かの歌。

酒場で鳴っていた弦。

港で聞いた歌。

遠い森の風。

街角の喧騒。

 

それらが、どこかに混ざっている。

 

誰かが歌を聞く。

覚える。

持っていく。

 

そして、少しずつ形を変える。

 

いつか訪れた酒場のことを思い出した。

 

歌なんて腹の足しにもならないと笑う人たち。

 

その中で。

 

誰かが覚えているなら、歌は消えない。

 

そんな話を聞いた。

 

あの時は。

 

誰かから誰かへ渡っていく歌のことだと思っていた。

 

けれど。

 

同じ人間の中でも。

歌は変わっていくのかもしれない。

 

幼い頃の自分が歌った歌。

今の自分が弾く歌。

同じ旋律。

同じ言葉。

 

それでも。

 

同じ歌ではない。

 

ウルミアはもう一度、弦を鳴らした。

 

昨日の歌が蘇る。

 

ジュノグランプリ。

競争場の中央。

白い法衣をまとったタブナジア聖歌隊。

指揮者が腕を上げ。

何万ものざわめきが消えた。

 

そして。

 

空へ放たれた声。

 

懐かしかった。

 

大聖堂で聞いたものと同じ歌ではなかった。

 

それでも。

 

ひとつの声へ別の声が重なる息遣い。

音が天へ昇る直前の、ほんの短い間。

 

そこには確かに、故郷で聞いた祈りの響きがあった。

 

かつて。

 

あの中に入りたかった。

一緒に歌いたかった。

 

そして。

 

本当に歌った。

 

今は。

 

外から、その歌を聞いていた。

 

不思議なものだった。

 

寂しいとは思わなかった。

 

むしろ。

 

嬉しかった。

 

自分が知らないところでも、歌は続いている。

自分がいなくても、そこには声がある。

それぞれの声が、互いの息を聞き。

少しずつ音を寄せ合い、ひとつの歌を作っている。

 

そして。

 

その少し後には。

 

まったく別の声が競争場を満たした。

 

歓声。

 

八羽それぞれを応援していた人々。

 

隣の者とは違う名前を叫んでいた人々。

 

同じ歌を歌おうなどとは、誰も考えていなかった。

 

それなのに。

 

最後の瞬間、声は重なった。

 

誰かが合わせたわけでもない。

誰かが指揮をしたわけでもない。

 

ただ。

 

同じ瞬間を見た。

 

それだけで。

 

何万もの声が、ひとつになった。

 

ウルミアの指が弦の上を滑る。

 

ひとつ、またひとつ。

音が重なる。

 

歌う場所は、ひとつではなかった。

歌の形も。きっと、ひとつではない。

 

聖歌隊のように。

 

互いの声を聞いて、ひとつへ合わせる歌がある。

 

ジュノグランプリの歓声のように。

 

合わせようとしなくても、同じ瞬間に重なる声がある。

 

そして。

 

こうして、一人で奏でる音もある。

 

でも。

 

一人で奏でることと、一人きりであることは。

 

たぶん、同じではない。

 

ウルミアは歌った。

 

小さな声だった。

 

大聖堂の天井へ届かせる必要はない。

何千人に聞かせる必要もない。

目の前の石壁へ当たり。

風にさらわれ。

そのまま消えてしまう程度の声。

 

それでよかった。

 

ローズハープの音が、その下を支える。

 

昔。

 

プリッシュと二人で歌った。

 

それから。

 

聖歌隊のみんなと歌った。

 

旅に出て。

 

いろいろな音を聞いた。

 

知らない誰かの歌を覚えた。

 

そして今。

 

昔の歌を、昔とは少し違う形で歌っている。

 

プリッシュからウルミアへ。

ウルミアから、また誰かへ。

 

そんなことを、ウルミア自身が言葉にすることはなかった。

 

ただ。

 

自然と歌っていた。

 

最後の一節が終わった。

 

ウルミアは指を止めた。

 

弦の震えだけが残る。

 

細い音が。

 

ゆっくり。

 

ゆっくりと小さくなっていく。

 

完全に消える、その少し前。

 

「そのハープ」

 

声がした。

 

ウルミアが顔を上げる。

 

少し離れたところで、石壁へ背を預けたプリッシュが立っていた。

 

いつからいたのだろう。

 

気づかなかった。

 

腕を組みながらこちらを見ている。

 

昔と変わらない顔で。

 

プリッシュはローズハープを顎で示した。

 

「前より、いい音するようになったじゃねぇか」

 

ウルミアは目を瞬いた。

 

プリッシュは。

 

それだけだった。

 

昔のことを思い出したとも言わない。

歌の意味を尋ねもしない。

何を考えて弾いていたのか。

なぜその歌を選んだのか。

そんなことには、たぶん気づいていない。

 

ただ。

 

目の前で鳴ったハープを聞いて。

 

いい音だと思った。

 

だから。

 

そう言った。

 

それだけ。

 

ウルミアはローズハープを見下ろした。

 

少し笑った。

 

「……はい」

 

不思議だった。

 

昔。

 

もう一度、人前で歌えたあの日。

 

――ほら、歌えるじゃねぇか。

 

そんな声が聞こえた気がした。

 

今。

 

本物のプリッシュは。

 

全然違うことを言っている。

 

それなのに。

 

なぜだろう。

 

どこか同じように聞こえた。

 

「何笑ってんだ?」

 

「いいえ」

 

ウルミアは首を振った。

 

「なんでもありません」

 

「変な奴だな」

 

プリッシュは壁から背を離した。

 

暮れかけたジュノの街へ、人々の声が流れている。

遠くで鐘が鳴った。

 

プリッシュが空を見上げる。

 

「そろそろ戻るか」

 

「そうですね」

 

ウルミアはローズハープを布へ包んだ。

 

大切に。

 

けれど。

 

しまい込むためではなく。

 

また取り出すために。

 

荷物へ収める。

 

プリッシュはもう歩き始めていた。

 

昔と同じだった。

待っているようで。

あまり待ってくれない。

 

ウルミアは立ち上がった。

 

「プリッシュ」

 

「ん?」

 

少し先で振り返る。

 

夕暮れの光が、その向こうから差していた。

 

一瞬だけ。

 

ずっと昔の天華崎と重なった。

 

あの日も。

こんなふうに。

夕陽の中で。

プリッシュは立っていた。

 

自分よりずっと広い世界を、最初から知っているような顔をして。

 

けれど。

 

今なら分かる。

 

きっとプリッシュだって。

 

世界のすべてを知っていたわけではない。

 

それでも。

 

知らない世界があることを恐れなかった。

終わったものより。

まだ終わっていないものを見た。

 

だから。

 

あの日。

 

泣きそうになっていた小さな自分へ。

歌う世界をひとつ、増やしてくれた。

 

「……なんだよ?」

 

「いえ」

 

ウルミアは笑った。

 

「帰りましょう」

 

「おう」

 

二人は並んで歩き始めた。

 

宿へ向かう道。

もう歌ってはいない。

ハープも鳴っていない。

 

聞こえるのは。

 

二人の足音。

 

街を行き交う人々の声。

遠くの店から漏れてくる笑い声。

どこかで鳴った食器の音。

いつものジュノの音だった。

 

やがて。

 

さっきまでウルミアが座っていた場所も、人の流れの向こうへ見えなくなる。

 

そこにはもう。

 

歌声は残っていない。

 

ハープの音も、とっくに消えている。

 

それでも。

 

ウルミアは歩きながら。

 

ほんの少しだけ、さっきの旋律を口ずさんだ。

 

すると。

 

隣を歩いていたプリッシュの足取りが。

 

ほんの一瞬。

 

その歌の拍子と重なった。

 




(=゚ω゚)ノ 読んでくれてありがとうございます。

目を瞑っても、鮮明に思い浮かぶ昔の思い出。

あなたが思い浮かべたのはどんなヴァナディールの景色でしょうか?
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