聞いていないようで、どこかで覚えている人。
そんな、夜の小さな記憶
夜になると、そこは少し不思議な場所になった。
笑い声がある。
ため息もある。
誰かが机を叩く音がして、その向こうではリュートの弦が静かに鳴っている。
歌を聴いている人もいれば、まるで聴いていない人もいる。
歌を歌っている人もいれば、酒だけ飲んでいる人もいる。
色々な音が、狭い部屋の中をゆっくり漂っていた。
ウルミアは扉の前で少し立ち止まった。
知らない場所に入る前は、いつも少しだけ緊張する。
でも今日は、歌が聞こえた。
だから、入ってみようと思った。
中は暖かかった。
椅子を引く音。
誰かの笑い声。
グラスのぶつかる音。
そして奥の方で、誰かが静かに弦を鳴らしている。
ウルミアは空いていた席に腰掛けた。
その時だった。
「くだらん」
大きな声が響いた。
ジョッキが机に置かれる。
赤い顔をした男が、酒臭い息を吐いた。
「歌なんぞ腹の足しにもならん」
向かいの男が笑う。
「お前も詩人だろうが」
「だから言ってるんだ」
男は肩をすくめた。
「長くやると分かる」
「歌なんぞ金にならん」
何人かが笑った。
「違いない」
「そうだそうだ」
酔った男が奥を見た。
「なあ、メルテール」
「お前もそう思うだろ?」
酒場の隅にいた男が顔を上げた。
机の上には紙が置かれている。
何かを書いていたのかもしれない。
けれど、その紙にはほとんど何も書かれていないように見えた。
男は少し苦笑した。
「……違いないな」
そう言ってまた視線を落とす。
けれど顔は、少しだけ困っているようにも見えた。
ウルミアは思わず言った。
「そうなんですか?」
急に静かになった。
何人かがこちらを見る。
「え?」
ウルミアは少し慌てる。
「えっと……」
「歌って、好きだから歌うものじゃないんですか?」
一瞬。
そして次の瞬間、笑い声が上がった。
「聞いたか!」
「好きだからだってよ!」
「懐かしいこと言うなぁ!」
笑い声が広がる。
ウルミアは少し恥ずかしくなって下を向いた。
変なことを言ったんだろうか。
その時だった。
少し離れた席で、ずっと黙っていた老人が笑った。
小さく。
本当に小さく。
「いや」
みんなの声が止まる。
老人はゆっくり酒を置いた。
「嬢ちゃんは間違っとらん」
誰かが肩をすくめる。
「爺さんまで始めたぞ」
老人は気にしなかった。
「ワシも昔、歌を覚えとった」
「戦場でな」
静かな声だった。
でも不思議と、よく聞こえた。
「金にもならん」
「腹も膨れん」
少し笑って続ける。
「……だが忘れなかった」
誰も笑わなかった。
奥にいた男が顔を上げていた。
紙を見るのをやめていた。
老人は立ち上がる。
「覚えてる奴が一人でもいるなら」
少しだけ笑う。
「歌は消えん」
それだけ言うと、代金を置いて店を出ていった。
扉が閉まる。
夜の音が少しだけ入って、消えた。
しばらく誰も喋らなかった。
それから誰かが咳払いをして、
「……ほら飲め飲め」
と笑った。
酒場はまた、いつもの音に戻っていった。
帰る前。
ウルミアは隅の席の前を通った。
紙を見ていた男は、今度はペンを動かしていた。
かり、かり、と。
静かな音。
ウルミアは少し立ち止まった。
「書けたんですか?」
男は少し考えた。
「いや」
紙から目を離さないまま言う。
「歌はある」
「……だが、言葉が見つからん」
ウルミアは紙を見た。
やっぱり、何も書かれていないように見える。
でも少しだけ笑った。
「じゃあ」
男が顔を上げる。
「探してる途中なんですね」
男は少し驚いた顔をした。
数秒黙ってから、小さく笑う。
「……そうかもしれんな」
ウルミアも少し笑った。
それ以上は何も言わなかった。
外へ出ると、夜風が吹いた。
遠くで誰かが歌っていた。
酒場の笑い声も、まだ少し聞こえる。
色々な音が混ざっていた。
―― また別の日。
また別の、人の多い場所。
人混みの向こうから、聞き覚えのある声が聞こえた。
歌だった。
以前より少しだけ明るい声。
ウルミアは足を止めた。
人の隙間から見えたのは、あの時と同じ男だった。
歌が終わる。
拍手が起きる。
男がふとこちらを見た。
少し考えてから笑った。
「ああ」
「好きだから歌う、と言った嬢ちゃんか」
ウルミアも笑った。
「書けましたか?」
男は肩をすくめる。
「まだ途中だ」
少し笑う。
「歌ってのは終わらんらしい」
「誰かが聞くたび、少し変わる」
少しだけ沈黙が落ちた。
人の足音が横を通る。
誰かの笑い声。
遠くの弦の音。
男は前を向いたまま言った。
「……あの時の言葉」
「悪くなかったぞ」
ウルミアは何も言わなかった。
ただ少しだけ笑って、また歩き出した。
風が吹く。
歌は終わったはずなのに。
まだ、聞こえている気がした。
(=゚ω゚) ウルミア編でまとめたくなったので短編から連載に変更しました。