聞いていないようで、どこかで覚えている人。
そんな、潮風の小さな記憶。
港には、色々な音がある。
波の音。
帆が揺れる音。
ロープの軋む音。
魚を運ぶ木箱の音。
誰かの怒鳴り声。
旅人の笑い声。
別れを惜しむ声。
帰ってきた人を呼ぶ声。
色々な音が、潮風に混ざって流れていく。
その中に、小さな歌があった。
最初、ウルミアは気付かなかった。
港の音は大きい。
人も多い。
歌ひとつくらい、簡単に波へ溶けてしまう。
けれど何度か同じ道を歩くうちに、気付いた。
夕方になると、いつも同じ場所で。
誰かが歌っている。
古い船の横だった。
積み荷の木箱に腰掛けて、年配の船乗りが小さく口ずさんでいる。
歌っている、というより。
口から零れているような歌だった。
誰も聞いていない。
船乗り達は荷を運び、旅人は船を待ち、子供達は走り回っている。
歌は港の音に埋もれていた。
でも、ウルミアはその歌が少し好きだった。
波みたいな歌だった。
同じところへ戻ってくる。
でも少しずつ形が違う。
――ある日。
ウルミアは近くを通りながら、立ち止まった。
船乗りは今日も歌っていた。
――風が吹けば帆が鳴って。
――潮が満ちれば船が出る。
そこまで歌って、少し止まる。
それから曖昧に笑って、また最初へ戻る。
――風が吹けば帆が鳴って。
ウルミアは首を傾げた。
同じところばかり歌っている。
しばらく聞いてから、そっと声をかけた。
「その歌、好きなんですか?」
船乗りは少し驚いた顔をした。
まさか話しかけられるとは思っていなかったらしい。
「ん?」
日に焼けた顔を掻きながら笑う。
「……さあな」
声は少しかすれていた。
「昔はみんな歌えたんだが」
そう言って海を見る。
「今じゃ途中までしか思い出せねえ」
ウルミアは歌を思い返した。
たしかに、途中で止まっていた。
「誰かの歌なんですか?」
船乗りはしばらく考えていた。
「誰だったかな」
少し笑う。
「教わった相手も忘れちまった」
それでもまた歌う。
――風が吹けば帆が鳴って。
まるで口が勝手に覚えているみたいだった。
ウルミアは少し不思議だった。
忘れているのに、歌える。
歌えるのに、思い出せない。
「でも」
船乗りがこちらを見る。
「覚えてるんですね」
船乗りは少し黙って、それから笑った。
「……消えねえんだよ」
潮風が吹く。
「海の歌ってのは」
その時、船が港へ入ってきた。
大きな音が響く。
人が動き始める。
船乗りも立ち上がった。
「ほら、仕事だ」
誰に言うでもなく呟いて、男は荷運びへ戻っていった。
歌だけが少し残った。
その日の帰り道。
ウルミアは、さっきの歌を思い出していた。
――風が吹けば帆が鳴って。
続きは分からない。
でも、耳に残っている。
気付くと、小さく口ずさんでいた。
波の音に混ざって、自分の声が消えていく。
少しだけ。
誰かの歌を借りた気がした。
――また別の日。
雨だった。
港の人通りは少ない。
船も遅れているらしく、旅人達は屋根の下で退屈そうに空を見ていた。
ウルミアも小さな屋根の下で雨宿りをしていた。
雨の音。
波の音。
遠くで鳴る鐘。
その奥で。
また、あの歌が聞こえた。
――風が吹けば帆が鳴って。
ウルミアは少し笑った。
あの船乗りだ。
でも今日は、少し違った。
高い声が混ざっている。
子供だった。
港の小さな男の子が、船乗りの隣で歌を真似していた。
もちろん、歌詞はめちゃくちゃだった。
――風が吹けば腹が減るー。
船乗りが吹き出す。
「違う違う!」
男の子は笑う。
「なんだっけ!」
船乗りは笑いながら歌い直す。
――風が吹けば帆が鳴って。
――潮が満ちれば船が出る。
男の子はまた間違える。
でも船乗りは怒らなかった。
何度も歌う。
何度も間違う。
そのたび少しずつ歌が変わる。
雨音の中。
港の隅で。
誰も気にしていない、小さな歌だった。
ウルミアは、それをずっと聞いていた。
やがて雨が弱くなる。
雲の向こうから、少しだけ夕暮れの色が見えた。
船が出るらしい。
港にまた人の声が戻り始める。
船乗りは立ち上がった。
「ほら、行くぞ」
子供が聞く。
「続きは?」
船乗りは困った顔をする。
「……忘れた」
子供は大笑いした。
「なんだそれ!」
船乗りも笑う。
でも別れ際。
小さく続けた。
「まあ、そのうち誰かが思い出すだろ」
子供はもう聞いていなかった。
走っていってしまった。
でもウルミアは、その言葉を覚えていた。
船が港を離れる。
波が揺れる。
潮風が吹く。
遠ざかる港の音。
その向こうから、かすかに歌が聞こえた。
もう、少し違う歌になっていた。
でも、ちゃんと残っていた。
歌は、覚えている人のものだと思っていた。
でも違うのかもしれない。
忘れていく途中でも。
少しずつ変わっても。
誰かが口ずさんだなら。
それは、まだ旅の途中なのだ。