歌詞を間違える人。
変わってしまった歌を、
それでも覚えている人。
そんな、波音の小さな記憶。
そこは、波の音が近い町だった。
昼でも少し薄暗い通路。
湿った木の匂い。
潮風。
狭い橋。
どこか遠い国の言葉。
刀を下げた男達が笑いながら酒を飲み、隅では誰かが賽を振っている。
静かな場所ではない。
でも不思議と、海の音だけはよく聞こえた。
ウルミアがその酒場へ入った時も、中は騒がしかった。
机を叩く音。
笑い声。
酒瓶の転がる音。
誰かが怒鳴り、誰かが笑う。
その奥で。
歌が聞こえた。
――風が吹けば酒を飲め。
――波が荒れりゃ賭けて寝ろ。
笑い声が上がる。
「違ぇよ!」
「そこはもっと長ぇだろ!」
別の男が歌い返す。
――風が吹けば船が鳴るー。
「船が鳴いてどうすんだ!」
酒場が笑いに包まれた。
ウルミアは扉の近くで、少しだけ立ち止まった。
どこかで聞いたことがある。
そんな気がした。
男達はもう一度歌い始める。
――風が吹けば酒を飲め。
――波が荒れりゃ賭けて寝ろ。
でも。
何かが違う。
ウルミアは小さく首を傾げた。
以前、港で聞いた歌に少し似ていた。
でも、あの歌はもっと静かだった。
波みたいに、ゆっくり揺れる歌だった。
今ここで歌われているものは違う。
笑い声に混ざって、酒臭くて、乱暴で。
同じ歌だとは思えないくらい違っていた。
けれど。
節回しだけは、どこか似ていた。
ウルミアは空いていた席へ腰掛けた。
近くで酔った男達が騒いでいる。
「おい、嬢ちゃん!」
「飲まねぇのか!」
別の男が笑う。
「そいつは酒より歌を聞いてんだろ!」
また笑い声。
ウルミアは少し困ったように笑った。
その時だった。
酒場の奥にいた年配の男が、小さく口を開いた。
「……昔は、もっと静かな歌だった」
何人かが振り返る。
「なんだ親父、また始まったぞ」
「昔話なら酒が不味くなるぜ」
男は気にしなかった。
酒を一口飲む。
「昔、船乗り連中が歌ってたんだ」
少し遠くを見る。
「もっと長い歌だった」
誰かが肩をすくめる。
「今の方がいいだろ」
「飲みながら歌うにはよ」
笑い声。
男も少し笑った。
「まあな」
それから、小さく続ける。
「だが、昔は“帰る歌”だった」
酒場が少し静かになった。
でもすぐに、別の男が机を叩いた。
「帰る場所なんざ、船が沈みゃ終わりだ!」
「だったら飲め!」
「歌え!」
笑い声が戻る。
誰かがまた歌い始めた。
――風が吹けば酒を飲め。
別の声が混ざる。
――潮が満ちれば船が出る。
ウルミアは顔を上げた。
今の一節だけ。
港の歌に近かった。
でも歌った男本人は気付いていないようだった。
「なんだその歌詞!」
「古くせぇぞ!」
笑いながら肩を叩かれている。
歌はまた崩れていく。
――波が荒れりゃ賭けて寝ろー。
酒場が笑う。
誰も元の歌を知らない。
でも、歌だけは残っている。
ウルミアは、その騒がしさを静かに聞いていた。
波の音。
笑い声。
机を叩く音。
遠くで鳴る弦の音。
色々な音の隙間に、あの港の歌が少しだけ混ざっている。
それは、もう別の歌だった。
でも完全には消えていなかった。
やがて夜が深くなる。
酒場を出る頃には、歌はさらに形を変えていた。
――風が吹けば酒を飲めー。
誰かが外まで歌っている。
笑いながら。
肩を組みながら。
歌詞は、もう滅茶苦茶だった。
でもウルミアは、少しだけ笑った。
同じ歌だとは、もう言えないのかもしれない。
でも。
誰かが笑いながら歌っているなら。
あの港の歌も、きっとまだ沈んではいない。