躱す人。
だけど交わしているのは刃ではなく、ふたつの拍動。
月灯りのもと、静かに研ぐ刃の記憶。
夜の海は、
不思議なくらい静かだった。
波はある。
風も吹いている。
船員達はまだ起きていて、
甲板の向こうでは、
酒の匂いと笑い声が漂っていた。
けれど。
その夜だけは、
世界の音がどこか遠かった。
ウルミアは、
眠れずに甲板へ出ていた。
潮風が冷たい。
肩へかかった髪を押さえながら歩いていると、
小さな音が耳に触れる。
鞘鳴り。
それだけで、
誰か分かった。
テンゼン。
そして、
その少し後ろに立つ、
カゲロウ。
二人は、
月明かりの下で向かい合っていた。
近いわけではない。
けれど遠くもない。
互いに、
相手の呼吸が届く場所。
その距離だった。
ウルミアは、
声をかけなかった。
かけてはいけない気がした。
二人の周囲だけ、
空気が張っている。
剣を向け合っているのに、
殺気とは少し違う。
もっと静かな。
もっと深い緊張。
テンゼンが、
ゆっくり息を吸う。
その呼吸だけで、
空気が変わる。
カゲロウの視線が、
わずかに沈んだ。
月光が、
二人の刃へ細く乗る。
長い沈黙。
波音。
帆柱の軋み。
遠い笑い声。
その全部を聞きながら、
二人は動かない。
けれど。
止まっているようには見えなかった。
見えないところで、
何かが少しずつ噛み合っていく。
そんな感じだった。
不意に。
カゲロウの姿が揺れる。
ウルミアは、
目を瞬いた。
その一瞬だけ、
彼女の輪郭が夜へ溶けたように見えた。
次の瞬間。
テンゼンの刀が、
月光を引く。
白い。
そう思った。
斬撃そのものではなく、
その軌跡だけが、
夜気へ細く残った。
二つの刃が触れる。
――澄んだ音。
強く打ち合ったはずなのに、
不思議と鋭さより、
余韻の方が長かった。
鈴を伏せて転がしたみたいな、
静かな残響。
カゲロウは、
そのまま低く流れる。
受けない。
止めない。
波の隙間を滑るように、
テンゼンの横へ抜ける。
テンゼンが半歩回る。
衣が揺れる。
刃が返る。
今度の音は、
少し低い。
乾いた鋼の吐息。
そんな音だった。
月明かりが、
淡くほどける。 水底に届く、月のこぼれ香。
花びらにも見える。
砕けた光にも見える。
ほんの一瞬だけ、
二人の周囲で、
夜の色が変わった気がした。
ウルミアには、
剣のことは分からない。
何という技なのかも。
どうして光が見えるのかも。
けれど。
二人がただ斬り合っているわけではないことだけは、
分かった。
刃を合わせるたび。
呼吸が重なる。
間が揃う。
そして。
互いが、
次に来る一歩を、
もう知っている。
そんな戦いだった。
カゲロウが沈む。
今度は、
もっと低い。
甲板へ影が落ちるみたいだった。
テンゼンは追わない。
待つ。
呼吸だけを合わせる。
その静けさが、
逆に怖い。
風が止む。
波音が遠くなる。
そして。
カゲロウが踏み込む。
速い。
けれど。
速さより先に、
空気が来た。
夜気が裂ける。
黒い軌跡が、
月の下を滑る。
テンゼンの刀が迎える。
――澄んだ鐘のような残響。
音は一瞬遅れて、
海へ広がった。
その瞬間だけ。
月明かりが、
大きく揺れた気がした。
テンゼンの袖が裂ける。
布が、
静かに夜風へ揺れる。
カゲロウは止まらない。
そのまま、
影のように背後へ抜ける。
けれど。
テンゼンの刃は、
すでにそこにあった。
ウルミアには見えなかった。
ただ。
白い線だけが、
遅れて夜へ残った。
カゲロウが、
初めて大きく後ろへ下がる。
甲板を擦る音。
呼吸が少し乱れる。
テンゼンは追撃しない。
ただ、
静かに刀を下ろす。
長い沈黙。
波音が戻ってくる。
遠くで、
船員達が笑っていた。
誰かが歌っている。
そんな、
いつもの夜のはずなのに。
二人の間だけ、
まだ静かだった。
カゲロウが、
ゆっくり息を整える。
それから。
「……まだ、甘いですね」
小さな声。
悔しさを隠している声だった。
テンゼンは、
少しだけ目を細める。
「いや」
短い返答。
「迷いが減った」
カゲロウは答えない。
ただ。
ほんの少しだけ、
視線が揺れる。
それだけで。
テンゼンが、
ちゃんと見ていたことが分かった。
主と従者。
けれど。
それだけではない。
長い時間を共に戦ってきた者同士だけが持つ、
静かな呼吸。
互いを見すぎないのに、
互いの崩れだけは見逃さない距離。
ウルミアは、
その空気をうまく言葉にできなかった。
ただ。
二人の刃が触れ合うたび、
夜の海が少しだけ美しくなる気がした。
その時だった。
カゲロウの視線が、
ふとこちらへ向く。
月明かりの中。
一瞬だけ、
目が合った。
ウルミアの肩が小さく揺れる。
見つかった。
そう思った。
けれど。
カゲロウは何も言わない。
ただ、
静かに刀を収める。
小さな鞘鳴り。
それから、
テンゼンへだけ聞こえるくらいの声で。
「……お客人です」
テンゼンが、
わずかに振り返る。
その顔を見て、
ウルミアは少しだけ困ってしまう。
邪魔をしてしまった気がした。
逃げようかと思った時。
テンゼンが、
静かに口を開いた。
「眠れませぬか」
怒っている声ではなかった。
いつもの、
少し静かな声。
ウルミアは、
小さく頷く。
「……はい」
潮風が吹く。
遠くで、
誰かがまだ笑っていた。
テンゼンは、
しばらく海の方を見る。
それから。
「海の音が強い夜は、
眠れぬことがあり申す」
ウルミアは、
少しだけ笑った。
「テンゼンさんもですか?」
テンゼンは答えない。
代わりに。
ほんの少しだけ、
困ったように目を細める。
その横で。
カゲロウが、
小さく息を吐いた気がした。
笑ったのかもしれない。
けれど。
波音の中では、
よく分からなかった。
テンゼンが、
静かに空を見上げる。
「……ですが」
月明かりが、
白く海へ落ちる。
「今宵は、悪い夜ではありませぬよ」
波音。
風。
遠い歌声。
そして。
重なった二つの鞘鳴りの余韻だけが、
まだ静かに夜へ残っていた。