そんな少女の再生の物語。
お気をつけて行ってらっしゃいませ
放課後の更衣室は、部活に向かう生徒たちの賑やかな声で満たされていた。
高校1年生のハルは、その喧騒から離れるように、一番奥の壁際にひっそりと陣取っていた。彼女が恐れているのは、家に帰る時間と、こうして周囲に肌を晒さなければならない着替えの時間だ。
「あそこ」に帰れば、理不尽な怒りと共に硬いものが身体に叩きつけられる。昨夜も激しい衝撃が彼女を襲った。ハルは周囲の目を盗み、制服のボタンを一つずつ慎重に外していく。
背中から腰にかけて、どす黒く腫れ上がった痣がいくつもあった。下着の擦れさえ激痛を伴うが、ハルは顔に出さないよう、ただじっと耐えていた。周りの生徒たちが次々と着替えを終え、更衣室を出ていく。
よし、今なら誰もいない――。
ハルが意を決して制服のシャツを脱ぎ捨て、体操着に手を伸ばした、その瞬間だった。
ガラガラと、勢いよく更衣室の扉が開いた。
「あ、ハル! まだ残ってたんだ。忘れ物しちゃって……」
入ってきたのは、同じクラスの明るい友人、葵(あおい)だった。
しかし、葵の言葉は途中でピタリと止まった。
夕暮れ時の教室から差し込む光が、ハルの背中を容赦なく照らし出していた。白い肌の上に点在する、禍々しい紫色の大きな痣。新旧の傷跡が重なり合い、およそ日常生活でつくはずのない凄惨な模様を描いている。
「え……」
葵の持つスクールバッグが、床にドサリと落ちた。
彼女の瞳が驚愕と、言葉にできないショックで大きく見開かれる。
ハルは心臓が跳ね上がるのを感じた。頭が真っ白になり、全身から血の気が引いていく。
(見られた。一番見られたくない人に、見られてしまった)
「ハル……その、背中……どうしたの?」
葵の声が、見たこともないほどに震えている。
「ち、違うの! これは!」
ハルは弾かれたように体操着を胸元に抱え込み、必死に背中を隠した。身体の震えが止まらない。
「これは、ちょっとドジして、階段から派手に落ちちゃっただけ! 本当に、なんでもないから!」
必死に言い訳をまくし立てるハルの顔は、幽霊のように蒼白だった。隠さなければいけない。もしこれが親に知れたら、もっと酷い目に遭う。
しかし、葵の目は騙されていなかった。階段から落ちただけで、あんな人間の拳の形をしたような痣や、何度も繰り返されたような傷ができるはずがない。
葵はゆっくりとハルに近づき、怯える彼女の肩に、そっと手を置いた。
「なんでもないわけ、ないよ……」
葵の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「そんなになるまで、ずっと1人で隠してたの? 誰にやられたの、ハル……」
その温かい手の感触と、自分のために流してくれる涙が、ハルが必死に張っていた心の意地を容赦なく溶かしていく。
秘密を知られた恐怖と、初めて痛みに気づいてもらえた安堵。ハルは堪えきれず、その場に泣き崩れた。
「え……?」
葵の口から漏れたのは、疑問とも、拒絶ともつかない掠れた声だった。
ハルが震える声でこぼした「父親」という言葉。それが、葵の頭の中で激しく火花を散らした。
(嘘……だって、ハルのお父さんって……)
葵の記憶にあるハルの父親は、まったく別の姿をしていた。
近所の商店街で会えば「葵ちゃん、いつもハルと仲良くしてくれてありがとうね」と、目尻を下げて優しく微笑む、物腰の柔らかい人。
地域の集まりでも率先して動き、周囲からは「優しくて頼りになる、いいおきんさん」と慕われている、あの男。
葵にとっても、たまに会うと小さなお菓子をくれたりする、ただの「気のいいおじさん」だった。
「お父さん、が……?」
葵はハルの背中の凄惨な痣と、自分の知っている温和なおじさんの笑顔を、交互に頭に浮かべた。パズルのピースがどうしても噛み合わない。あの優しい人が、こんな風に自分の娘を殴りつけるなんて、信じたくなかった。
しかし、ハルの怯え方は異常だった。
葵が「お父さん」と口にしただけで、ハルはびくりと肩を大きく跳ね上げ、自分の身体を抱きしめるようにして、更衣室の隅へさらに小さく縮こまってしまったのだ。
「……言ったら、殺される」
ハルは膝に顔をうずめ、掠れた声で呟いた。
「外では、すごく優しいから……誰も信じてくれない。私が悪い子だからだって、いつも言われるの。葵ちゃん、お願い、誰にも言わないで……」
その絶望に満ちた声を聞いた瞬間、葵の胸の内にあった困惑は、激しい怒りと、冷たい恐怖へと変わった。
外では「気のいいおじさん」の仮面を被り、家の中では誰も見ていないところで、こんなに小さな娘を痛めつけている。
「ハル……」
葵はゆっくりと床に膝をつき、もう一度ハルの凍りついた肩を抱きしめた。
自分の知っていたおじさんの笑顔が、急にひどく不気味で、恐ろしいものに思えてくる。だけど、今ここで自分が怯えて目をそらしたら、ハルは本当に壊れてしまう。
「ハルは悪くない。絶対に、悪くないよ」
葵は自分の声の震えを必死に抑え、ハルの耳元で、言い聞かせるように強く、静かに告げた。
その日を境に、ハルの中で何かが決定的に変わってしまった。
秘密を知られたという恐怖は、いつしか「この人だけは私のすべてを知っている」という、歪んだ安堵感へとすり替わっていった。ハルにとって葵は、地獄のような日常の中で唯一息ができる「酸素」のような存在になったのだ。
学校でのハルは、驚くほど葵の影にぴったりと従うようになった。
クラス移動、トイレ、お昼休み。ハルは常に葵の後ろを歩き、彼女の視線が少しでも自分から外れると、目に見えて不安そうな表情を浮かべた。葵が他のクラスの女子と楽しそうに話しているだけで、ハルの胸は激しい焦燥感と嫉妬で満たされる。
(葵ちゃん、私を見て。あんな子のところに行かないで。私には葵ちゃんしかいないの。葵ちゃんがいないと、私は死んじゃうよ――)
言葉には出さない。だけど、すがりつくようなハルの視線は、無言でそう訴えかけていた。
ある日の放課後、葵が「今日は塾があるから、一緒に帰れないんだ。ごめんね」と言ったとき、ハルの顔からは一瞬で血の気が引いた。
「……そっか」
ハルは小さく呟くと、葵の制服の袖を、指先が白くなるほどの力でギュッと掴んだ。
「ハル……?」
「……行かないで、葵ちゃん」
ハルの瞳は大きく見開かれ、小刻みに震えていた。その目は、親から暴力を受けているときと同じ、追い詰められた生き物の色をしていた。
「お願い、一緒にいて。今日、お父さん機嫌が悪いの。家に帰りたくない……。葵ちゃんと一緒なら、私、どこにでも行くから。ねえ、お願い……!」
ハルにとって、葵はもう単なる友人ではなかった。自分を救ってくれる救世主であり、自分の世界のすべて。葵の存在なしでは、一歩も前に進めないところまで追い詰められていた。
葵は、自分の袖を掴むハルの手の強さに、息を呑んだ。
ハルの家庭環境への同情と、「私が守ってあげなきゃ」という強い使命感。しかし同時に、ハルの瞳に宿る、底なしの暗い執着に、葵は言葉にできないほどの重圧と、かすかな恐怖を覚え始めていた。
それでも、葵はハルの手を振り払うことができなかった。
「……わかった。塾、休むよ。一緒にいよう」
葵がそう言った瞬間、ハルはまるで世界を取り戻したかのように、痛々しいほどに純粋な、美しい笑顔を浮かべた。その笑顔を見るたびに、葵は自分がハルの底なしの沼に、深く沈み込んでいくような感覚にとらわれるのだった。
続くかも???